第4話『放課後のピアノ教室』



 夕方の校舎は静かだった。

 部活動の声も遠のき、廊下には少し冷たい風が吹き抜けている。


 悠真は職員室の前で立ち止まり、手にした封筒を見つめた。


 「音楽室の鍵……これでいいんだよな」


 今日は、そらに誘われていた。

 ――放課後、一緒にピアノを弾こう、と。


 


 彼女が自分から何かを「したい」と伝えてくるのは、珍しい。

 それだけで、悠真の胸はほんの少し高鳴っていた。


 


 ***


 


 音楽室の扉を開けると、ひんやりとした空気の中に、わずかに残る木の香りがした。

 古いグランドピアノが教壇のそばに静かにたたずんでいる。


 そらは、すでにいた。


 窓際で、夕日を受けて、楽譜を指でなぞっていた。

 耳が聞こえなくても、彼女は音を感じ取る。


 振り返った彼女は、いつものように、静かに微笑んだ。


 


 《来てくれて、ありがとう》


 


 悠真は照れ隠しのように咳払いをひとつした。


 「……約束、だから」


 


 そらはピアノの前にちょこんと座り、自分の横をぽんぽんと叩いた。


 《一緒に弾こう》


 「え、俺も?」


 《うん。片手ずつで、連弾。簡単だから》


 


 悠真はためらいながらも、そらの隣に腰を下ろす。


 ピアノの鍵盤は、思ったよりも冷たかった。


 


 「なに、これ……最初のドは……えっと……」


 《ここ》


 そらの指が、優しく悠真の指に触れる。


 一瞬、指先からじんと熱が伝わった。


 


 そらは手話でリズムを示しながら、軽やかに弾き始める。

 それに合わせて、ぎこちなく悠真も鍵盤を押す。


 ふたりの音が重なって、少しずつ、メロディが形になっていく。


 


 「……なんか、すごいな」


 《下手でも、心でつながれる》


 


 ふと、そらは手を止めた。


 そして、悠真にノートを見せる。


 


 《私、昔ピアノ習ってた。聴こえなくなっても、やめられなかった》


 


 「音が聞こえないのに、弾けるって、すごいよ」


 


 そらは首を横に振る。


 《でもね、誰かと一緒に弾いたの、久しぶり》


 


 彼女の視線が、そっと悠真に向けられる。


 《君の音は、あたたかかった。ありがとう》


 


 夕焼けが、音楽室のカーテンに柔らかな色を落とす。


 その色に包まれながら、悠真は不意に――彼女の笑顔を、美しいと思った。


 


 「そら、さ……今度さ」


 


 声が少し震えたのを自覚しながら、彼は言葉を紡ぐ。


 「また、連弾しよう。今度は……放課後じゃなくてもいいから」


 


 そらの瞳が、少しだけ驚いたように見開かれ、それからふっと笑った。


 《うん。約束》


 


 ピアノの音が消えた音楽室に、ふたりだけの約束が、静かに響いていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る