第2話『風のメモ、心の手紙』



 次の日の朝、潮見ヶ丘高校の正門前には、早くも登校する生徒たちの姿があった。


 制服のリボンを結びながら友達と話す女子。イヤホンを片耳だけ差してフードを被る男子。

 そんな中、悠真はひとり、ゆっくりと坂道を登っていた。


 


 カバンの中には、昨日そらから渡されたメモ帳がある。

 ページの端が少しだけ折れたそのノートは、あの日の会話の名残を今も静かに伝えている。


 


 (話せないのに、あんなに自然に笑うんだな)


 昨日見たそらの笑顔が、頭から離れなかった。

 無理してない、素の表情。周囲の音が届かない世界の中で、彼女は、まるで静けさに慣れた鳥のように、自由にそこにいた。


 


 教室に入ると、もう何人かは来ていた。

 窓際の席には、そらが座っていた。白いイヤリングが陽に照らされて、ほんのりと光っている。


 


 「……おはよう」


 思わず声をかけてしまったことに気づき、すぐに言葉を止める。

 そらが顔をあげ、悠真の唇の動きを見て、柔らかく微笑んだ。


 


 ノートを取り出し、ペンを走らせる。


 《おはよう。昨日はありがとう。》


 


 その下に小さく書き足してある。


 《“筆談”って少し面倒だけど、私は好きだよ。文字は、心が出るから》


 


 「……文字は、心が出る」


 口の中でそっと繰り返した悠真は、そらのノートにゆっくりとペンを走らせた。


 《話すより、ちゃんと伝えられる気がする。俺も》


 そらは驚いたように少し目を丸くしたあと、ふわりと笑った。その笑顔に、悠真の胸の奥がまたざわついた。


 


 「一ノ瀬くん、来たかー!」


 教室の後ろの方から、陽気な声が飛ぶ。振り返ると、昨日斜め前に座っていた男子――明るい茶髪にスポーツバッグを持った少年が立っていた。


 「俺、松下蓮。2組のムードメーカー、よろしくな!」


 悠真がうっすらと笑って会釈すると、蓮は大げさに腕を組んでうなずいた。


 「お、ちょっとは笑えるんじゃん。でさ、そらちゃんの隣とか、もうフラグ立ちすぎでしょ~?」


 


 「……え?」


 蓮が指す方向を見ると、そらがちょっとだけ顔をそむけている。微かに頬が赤い。悠真は咄嗟に否定しようとして、口をつぐんだ。


 


 「まあまあ、オレがクラスのこと教えてやるよ。……あ、でもそらちゃんのことは、自分で知ってけよ。あの子、言葉なくても、伝わる人だからさ」


 軽く笑って、蓮はまた教室の後ろへと戻っていった。


 


 (言葉なくても、伝わる……)


 


 チャイムが鳴り、1限目が始まる。先生が教室に入ってくる。

 でも、悠真の心はまだ、さっきの言葉と、そらのノートにあった文字でいっぱいだった。


 


 ***


 


 放課後。校庭はオレンジ色に染まっていた。


 部活に向かう生徒たちの声。ボールの跳ねる音。笑い声。夕陽の光が、窓ガラスに反射している。


 悠真は帰り支度をしながら、そらの方をちらりと見た。


 そらはまだ座ったまま、カバンの中からなにかを取り出していた。


 (……手紙?)


 小さな封筒。そこに、なにかを書いていた。数秒後、それに気づいたそらが、すっとこちらへ手紙を差し出した。


 


 《これ、よかったら。返事はなくてもいいから》


 


 悠真は一瞬ためらったが、黙って受け取った。封筒は薄くて、軽かった。


 


 「……ありがとう」


 そらはうなずき、鞄を持って先に教室を出て行った。廊下の光の中で、その背中が小さく揺れていた。


 


 悠真は、手紙を開けた。


 



---


> 『一ノ瀬くんへ


ありがとう。ちゃんと私の目を見て、話してくれて。

私はずっと、音のない世界にいたけれど、今日、ちょっとだけ、音が聞こえた気がした。


それはたぶん、“言葉じゃない風”だったんだと思う。


また、話そうね。


綾瀬そら』





---


 風が吹いた。教室の窓が、かすかに軋む音。


 音じゃない風――

 それは、悠真の胸の奥にも、たしかに届いていた。


 彼女となら、この町で“何か”が始まる気がする。


 そう思った、春の放課後だった。

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