第1章・1話『転校生と無音の教室』



 春の風は、思っていたよりも冷たかった。

 淡いピンクの桜の花びらが、ひとひら、悠真の肩に落ちる。彼はそれに気づかないふりをして、灰色のブレザーの襟を直した。


 海の香りがするこの町に、彼は今朝、引っ越してきたばかりだ。

 見渡せば、小高い丘の上にある学校。白い四階建ての校舎は古めかしく、しかし整然とした印象を受ける。校門の脇には木製の小さな看板――《県立潮見ヶ丘高等学校》の文字。


 「へぇ……ほんとに海が見えるんだ」


 悠真は呟くように言った。

 ふと足元を見れば、スニーカーのかかとに、朝露に濡れた土が少しだけこびりついている。東京のアスファルトばかりだった日々とは、もう違うのだと実感する。


 


 校門をくぐると、背の低い女子がふたり、すれ違いざまに小さく会釈していった。


 「おはようございます」

 「……あれ、新入生?」


 小さな声。けれど悠真は、それには応えず、無言で歩き続けた。無愛想だとよく言われる。でも、そうしていた方が楽だった。


 


 階段をのぼり、2年B組と書かれた教室の前で足を止める。ガラス越しに、笑い合う生徒たちの姿が見えた。窓の外から陽が差し込み、教室の中が柔らかい光で包まれている。


 


 ドアを開けると、空気が一瞬止まった。


 ガタン。誰かの椅子がわずかに揺れる音。

 そして、教卓の前に立っていた教師が、悠真に気づいて声をかけた。


 「おぉ、君が一ノ瀬くんだね。入って入って」


 「……はい」


 悠真は少し緊張した面持ちで一歩踏み出す。教室中の視線が自分に集まっているのを感じながら、ゆっくりと前へと進んだ。


 


 「今日からこのクラスに転校してきた一ノ瀬悠真くんです。東京から来ました。みんな仲良くしてやってくれ」


 「よろしくお願いします」


 短く、それだけ言った。笑顔はつくらない。昔から、無理に作るくらいなら真顔でいたほうがマシだと思っていた。


 


 「席は……ああ、窓際の一番後ろが空いてるね。綾瀬さんの隣だ」


 教師が指さした先に、彼女はいた。


 陽射しの中で、静かにノートを開いて文字を写していた少女。肩まで伸びた黒髪は風に揺れ、肌は陶器のように白い。


 そして――彼女は、その場に立っても、悠真に一瞥も向けなかった。


 


 (……聞こえなかった?)


 不思議に思いながら、悠真はその隣の席に着いた。椅子を引く音が鳴っても、彼女の瞳は、まだノートの上にあった。


 


 教室のざわめきが戻ってきた。誰かがくすくす笑う声。黒板の前では教師が話し始め、授業が再開される。


 そのすべてが、彼女には届いていないように見えた。


 


 昼休みになった。


 「ねぇねぇ、転校生、名前なんだっけ?」

 「一ノ瀬くんでしょ。東京からだって。イケメンじゃない?」

 「そっちよりさ、綾瀬さんの隣とか、勇気あるわー」


 廊下からも教室の中からも、ひそひそとした声が響いてくる。けれど悠真は、それを聞き流すように弁当の包みを開いた。


 斜め前では男子グループがじゃれ合っており、向かいの女子たちはスマホを見せ合って笑っている。


 けれど、彼の隣――綾瀬そらだけが、ぽつんと静かだった。


 


 手作りの弁当。卵焼き、ミニトマト、白いご飯。整った並び。動きも静か。けれど、どこか慣れている様子。


 (……なにか、違う)


 その違和感は、視線を合わせた時に確信に変わった。


 


 そらが、何かの気配を感じたように顔を上げた。


 悠真と目が合う――


 けれどすぐに視線をそらし、バッグからノートを取り出し、ボールペンで何かをさらさらと書いた。


 


 そして、それをこちらに見せた。


 


 《綾瀬そらです。私は耳が不自由なので、声が聞こえません。話しかける時は、このノートを使ってください》


 


 丁寧な字だった。角の丸い、優しい文字。


 


 「……そうだったんだ」


 悠真も、彼女から借りたボールペンでそのページの下にこう書いた。


 《一ノ瀬悠真。よろしく》


 そらは、その文字を見て、ふっと微笑んだ。


 小さな、小さな笑顔だった。

 でもそれが、悠真の胸に風のように入り込んで、なぜか鼓動を速めた。


 


 彼女の周りにあった“静けさ”は、ただの無関心ではなかった。

 そこには理由があって、孤独があって、それでも彼女は生きていた。


 


 「……へんなの」


 自分に向かって、小さく呟いた。


 “風の音”なんて、そもそも聞こえるわけがない。

 でも今、たしかに――そらの中に流れていたのは、風の声だった。


 


 ――そしてそれは、きっと、悠真にしか聞こえなかった。

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