第18話 お姉さんとホラー映画③

 再生ボタンを押して、気味の悪い静けさの中に始まった最恐ホラー映画サイレント・テラー。

 冒頭は雰囲気重視の映像と不穏な音楽、そして妙にリアルな足音が主体となって、じわりじわりと視聴者の緊張を誘っていく。


 そして静寂を切り裂く、最初の絶叫シーンへ──。


「ひゃあああああっ!!」

「うわっ──」


 水萌さんが耳元で可愛らしい叫び声を上げた。

 そして安全バーに掴まるかのようにオレの腕に懸命にしがみついて来る。


 役得とはこういうのを言うんだろう。


 上腕にぎゅうぎゅうと押し当てられるその柔らかさと甘い香りにはいつまで経っても慣れる気がしない。


 水萌さんは息つく暇もないといった様子で絶え間なく恐怖に震えており、なんてことのない物音一つで肩がビクッと跳ね上がってしまう始末。

 言葉通り、本当に苦手らしい。一人で観たら失神する、という話も全然盛ってない。


 それでも映像は容赦なく進んでいき、中盤へ。

 真っ暗な部屋に大量のノイズが響き始めた。

 いつ何が起こってもおかしくない。精神的な恐怖が襲いかかる。


「むり……もう画面見れないっ!」

「えっ、ちょっ……ぐぇっ!?」


 画面から目を逸らし、大胆にも横腹へしがみついてきた。膝の上には、のっしりと確かな重量感が訪れる。

 もはや肩と肩が触れ合うとかそういうレベルをとうに通り越している。


「うぅ……これいつ終わるの……?」

「じ、時間的にもうすぐクライマックスに差し掛かるはずです。だから画面見ましょう!」

「見れないよっ!」


 言葉で引き剥がすことは叶わない。

 無理にというわけにもいかないだろう。泣いてしまいそうだし。

 ならばここは理性で耐えるしかない。


(心頭滅却、明鏡止水、無念無想……)


 息を止める。もう全然映画に集中できない。ただうるさいだけの映像になっていた。


 そして、気づけば流れているエンディング。


 お姉さんは、ソファの上で放心状態となり力尽きていた。

 クッションを抱きしめたまま、半分横になって、天井をぼんやりと見つめる目は完全に虚ろ。

 魂だけが旅立った後の抜け殻みたいだ。


 オレはそんな彼女の肩を優しく揺すった。


「水萌さん、終わりましたよ。映画」

「…………ほ、ほんと……? 後半戦始まったりしない……?」

「ちゃんと終わってます。ほら、スタッフロールが流れてるし」

「よ、よかった……ありがとう……」


 声はかすれて、震えていて――またどこか安堵の響きも混ざっていた。

 さっきまでのホラー映画の一場面が、まるで現実に滲んで残ってるかのような雰囲気。


「ちゃんと生きてる……?」

「生きてますよ。オレも水萌さんも」

「途中から叫びすぎて記憶が曖昧で……はぁ……もうHPもMPもゼロ……あと女子力も……」

「女子力はむしろ増し増しでしたけど」


 あんなにぎゅうぎゅう抱きつかれたら、こっちのHPは凄まじい速度でゴリゴリ削れていく。それこそ、ホラー映画の比じゃないくらい。


「にしてもなかなか怖かったですね。向こう一週間は夢に出てきそうです」

「や、やめてぇ! 一人で寝れなくなっちゃう……!」


 クッションをぎゅっと抱きしめながら、涙目でこっちを睨んでくる。

 でもその視線にすら怖さの余韻がにじんでて、まるで怯えた小動物みたいだった。


 可愛い……なんて言ったら怒られるんだろうけど。実際問題、可愛すぎた。


「ここぞとばかりにお姉さんを揶揄うなんて、晴翔くんのことちょっと侮ってたかも……」

「反応が面白くてつい」

「あーあ……また情けないところ見せちゃったな。一応、君にだけなんだからね? これでも引かれたりしないか結構気にしてるし……」

「オレだけに……ですか?」


 ぽつりと落とされた、特別な響きを湛えたその言葉の真意を、つい探りたくなってしまう。


「晴翔くんには一回やらかしちゃったし……」

「あぁ、ゲロまで行った仲ですもんね」

「は〜る〜と〜く〜〜ん!?」

「言わせたようなものでは……」

「まったくもう……ん、まあそれもあるし、晴翔くんはお姉さんの我儘をなんでも受け入れてくれて、乗ってくれて……だからかな、つい気を許しちゃうの。自分でも不思議なくらい」


 そう言って、髪を指先でくるくると巻きながら、少し照れくさそうに水萌さんは微笑む。


 今となっては懐かしい、あのゲロ事件。思い返せば全ての始まりだった。


 あれから水萌さんとの関係は少しずつ、かけがえのないものになっていって。


「気を許してもらえてるのは……嬉しいですね。それに、なんか特別感があって」

「特別……ふふっ、そうだね。晴翔くんは……お姉さんの特別だよ」


 柔らかな声色に、胸の奥をそっと撫でられるような気がして。じわっと温かいものに心の底から満たされていくようだった。


 お姉さんの特別。


 その言葉が、頭の中で何度も何度もリフレインする。

 お互いがお互いを特別に感じているという事実に、強い充足感を覚えた。


 しばらくの静寂が、部屋に満ちる。

 あれだけ騒がしかったホラー映画の残像は消え失せ、空気は嘘みたいに静かで。

 そんな中、水萌さんは隣でふっと小さく笑い、肩の力を抜くように息を吐いた。


「晴翔くん……今日は急に誘ったのに一緒に観てくれてありがとね。そばに居てくれたおかげで最後まで耐えられた。内容は残念ながらあんまり覚えてないんだけど……」

「じゃあもう一回戦?」

「晴翔くんは悪魔なのっ!?」

「はは、嘘です嘘です」

「むむ……ホラー映画に疲れたお姉さんにはもっと優しくすること! いじわるは禁止よ?」

「最後まで観れてエラいエラい」

「……ふふっ」


 さっきまでの緊張と恐怖がほどけた反動か、口元は緩み切っていた。

 気の抜けた穏やかな表情に、オレもつられてしまう。


「ねっ、今度は普通のやつ観ようよ。ほら……サメ映画とか! 頭空っぽで何にも考えず、楽しく笑いながら観れるやつ」

「いいですね、その手の映画は大好物です。じゃあ、またぜひ誘ってください。水萌さんのおすすめとか知りたいですし」

「いいわよ♪ 私の選りすぐり十選、期待してて?」


 さっきまで泣きそうだった人とは思えないくらい、表情にはワクワクと、自信のような煌めきが宿っている。

 鼻を鳴らし、得意げに微笑むその顔は反則気味に可愛かった。


 いったいどんな独特のセンスを見せてくれるのか、楽しみで仕方がない。


「さてと、それじゃあ……」


 ゆっくりと立ち上がると、ぐぅーっと伸びをしてふわりと髪を揺らす。


「こんな時間だし、そろそろ部屋に戻るね」

「大丈夫ですか、不安とかあればもうちょっと隣いますけど」

「ありがとう、気遣ってくれてるんだね。大丈夫って言い切れはしないんだけど……君に甘えすぎるのも良くないと思うから。お姉さんだしね、頑張って一人で寝ます!」

「分かりました。何かあったら呼んでくださいね。お隣なんで、遠慮なく」

「うん、そうする♪」


 水萌さんは少し照れたような、でも確かに安心した笑みを見せた。

 しっかりとした足取りで歩き、それから玄関扉の前でゆるりと振り返る。


「じゃあ……おやすみ、晴翔くん」

「おやすみなさい。明日は仕事も休みでしょう、ゆっくり寝てくださいね」

「お昼までぐっすりするね!」


 そう言って屈託のない笑みで応えると、ゆっくりと部屋を後にした。


■■■


 ──そして、二十分後。


 スマホがブルブル震えた。水萌さんからのメッセージだ。


『もう寝た? 起きてたら、ちょっとだけ、話さない……?』


 オレは「起きてます」と返し、程なくして通話を始めた。

 最初は今日の話とか、映画の感想とか。

 でもだんだん声が小さくなっていって。


『もう寝た?』

「まだ起きてます」

『……もう……寝た?』

「起きてますよ」


 こんなことを繰り返している内に……。


「水萌さん?」

『…………』


 

 通話記録、十分。相当疲れていたらしい。

 最後まで面白さたっぷりなお姉さんだった。

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