第17話 お姉さんとホラー映画②

 週末の夜。日課の筋トレと家事を終えてのんびりしていたところで、インターフォンが鳴った。


 モニターに映ったのは案の定、隣人の水萌さん。

 キャミソールの上に薄いカーディガンを羽織っており、ラフな休日モードに移行しかけているといった様相。


 今夜もまたお酒の誘いにやって来たのだろう。

 一瞬そう思ったのだが、珍しくどこか浮かない顔をしていた。


「水萌さん? ちょっと待っててくださいね、今出ますから」

「うん」


 返事もなんだか塩らしい。

 気になって、オレはすぐに玄関の扉を開けた。


「どうも」

「晴翔くんこんばんは。今大丈夫?」

「はい、暇してたんで」

「そっか。あのね、実はちょっと困ったことがあってね……」

「困ったこと?」

「その……頼みたいことがあるというか……」

「……話、長くなりそうならあがります?」

「そうしようかな……ごめんね、ありがとう」


 とりあえず玄関先で話すのもなんなので、部屋にあがってもらう。

 ソファに座った水萌さんに麦茶を差し出すと、彼女は礼を言ってから一口含んだ。


 週に一度くらいの来訪はすっかり恒例になってきたが、やっぱりまだ慣れない。

 こんな美人なお姉さんが男子大学生の一人暮らし部屋に居るなんて。


 なんかすげぇ良い匂いするし、もう風呂入ったのかな。

 やばい、緊張してきた。お姉さんとの、このしんみりした空気感も珍しいものだし……。


「それで、困ったことというのは……」


 オレはおっかなびっくり尋ねる。


「単刀直入に言うね? お姉さんと……」

「……ごくりっ」

「お姉さんと…………ホラー映画を一緒に観て欲しいの!!」

「…………おん?」


 あまりに想像の斜め上のリクエストに、微妙なリアクションしかできなかった。

 すっごい真剣な感じだったから、もっと重たい頼みがやって来ると身構えていたのだが……。


「真剣なの! 本当に困ってるの!」

「あっ、すみません。困ってるっていうのがよく分からなくて」


 水萌さんのこの感じ……観たくないものを無理に観ようとしている、どうにもそんな気がしてしまう。


 だってそうだ。


 普段ならこういうことはもっとハイテンションで誘ってくるはず。

 それなのに今の彼女は、ホラー映画を観た後に怖くて寝れなくなったから一緒に寝て欲しいとお願いする時のようなテンションの低さで……。


「ちなみにホラーへの耐性とかは?」

「ゼロ。無理無理の無理。一人でホラー映画なんて観たらたぶん泣く……最悪の場合失神する……ここが事故物件になる可能性すら」

「じゃあなんで観るんですか!? Mですか!?」

「ううん、お姉さんはたぶんSの方よ? 実際のところどうかは分からないけど」

「別にそこまで聞いてないです!」


 漫才のようなお約束のワンテンポを挟み、それから水萌さんは改めてお茶を口に含んでから、ようやく話の核心に触れた。


「あのね、今アメプラで夏のホラー特集っていうのをやってるみたいなの。懐かしいのから新作まで見放題。晴翔くんは知ってる?」


 出た、アメプラ夏のホラー特集。

 つい最近酒井たちと観たアレ。


「知ってますけど……」

「うちの部署でもすごく流行っててね。中でも『サイレント・テラー』って映画がアツいみたいなの」

「史上最恐とかいう謳い文句の」

「う、うん……」

 

 酒井や中野さんが言っていた。アレはガチめに怖いやつだから、無理には誘わないって。


「でね……それ、部署内で私だけ観てないんだって。みんなから『絶対観て!』って猛プッシュされてるんだけど……怖いのはてんで駄目だし……」


 しゅん、と肩を落とす姿が犬みたいでちょっとだけ笑いそうになる。

 水萌さんにとっては死活問題のようだが。


「それって、普通に観なきゃいいんじゃないですか?」

「そういうわけにはいかないの! なんとか会話についていかないといけないし……」


 ジェネレーションギャップに四苦八苦するおっさんみたいな悩みだな。


「それに私がホラー映画一本すら怖気付いて観られないって知られたらそれはとても困る! お姉さんの強キャラポジションが崩れちゃうし、後輩たちにも格好が付かないの!」

「強キャラとかその辺よく分からないですけど、とにかく面倒なことになってるんですね、色々と……」


 しごできお姉さんは、苦手なホラー映画でもしっかり話題のタネとして押さえておく必要があるのか。


 結局、観ること自体は目的じゃない。

 あくまで話を合わせるため。

 でも怖いものは怖い。

 だからオレを巻き添えにしようとしているわけだ。


「大変っすね……でも観たくないなら仕方ないんじゃないですか。自分の気持ちに嘘をつくのは後からしんどくなるだけです。というわけで、背に腹は変えられないっと」

「晴翔くぅん!? うぅ……そんないじわるする子だったなんて……」


 この前の仕返しとしてちょっと揶揄ってみたら、想像以上に面白い反応が返ってきた。

 涙目で唇を尖らせる仕草は、やたら艶っぽい。計算されたものか天然か。


「すみません嘘です。分かりました。一緒に観ましょう、ホラー映画」


 本気で困っているなら力になりたい。

 それに、ただ純粋に。

 水萌さんと一緒にホラー映画を観るのはとても楽しそうだ。


 こちらの承諾の一言で、水萌さんの肩の力がふっと抜けたのが分かる。


「……ほんとに? やった……!」


 声は小さく、それでいて芯から嬉しそうだった。


 思わず、少しだけ見惚れてしまう。


 さっきまでの慌ただしさが嘘みたいに、少しだけ素直で。年上の余裕よりも、年下の少女っぽさが滲んで見えた。

 いろんな一面があって、本当にどこまでも魅力的な人だ。


「なんか、そうやって喜ばれると悪くないですね」

「え、そう? じゃあ今夜は、お姉さんをいっぱい守ってもらわなきゃ」


 どこか余裕そうに冗談めかして言うけれど、握った薄手の毛布の端をぎゅっと指先でつまんでいるあたり心の準備はまだ出来てなさそうだった。


「せっかくなんでポップコーンでも用意しますか。ちょうど一袋デカいのありますよ。雰囲気は大事にしましょう」

「わ、いいね! それっぽいやつ! 飲み物は?」

「お茶くらいですかね」

「サイダーがあるから持って来るね♪」

「おっ、さすが水萌さん。助かります」


 こういう時に気軽に協力し合えるのもお隣さんの強みってやつか。


「そういえば、今日はお酒飲まないんですか? 酔った勢いでホラーとか余裕になるかもですよ」


 オレが冗談半分に言うと、水萌さんはう〜んと少し唸りながら真剣に吟味した後、小さく首を振った。


「酔いと恐怖が掛け算になったら、制御不能になっちゃうと思うの。だから……お酒はダメ」

「適量って選択肢はないんですね」

「恐怖から逃れようって思っていっぱい飲んじゃう気がして……そしたら晴翔くんでも抑え切れないかも」

「ちょっと想像できてしまった……」


 下手なホラー映画よりもドキドキの展開になりそうだ。


「と、とにかく……今日は飲まずにがんばる! ちゃんと映画の内容も話せるようにしておかないとだし、記憶を飛ばすわけにはいかないから!」


 ぎゅっと拳を握り自分を鼓舞する水萌さん。決意の割に声が震えているのは、気のせいではないだろう。

 怖いなら本当に無理しなくていいのに──と思いつつ、その健気さと、酒で自滅しそうな未来をきちんと予測して回避する理性になんだかんだで安心した。


 しばらくしてサイダーとマイコップを片手に、鼻歌を歌いながら部屋に戻ってきた水萌さん。ソファの横に並んで腰を下ろし、ふぅーっと息をついた。


 オレはサイドテーブルに用意したポップコーンの袋を開けながら、そっとリモコンに手を伸ばす。

 アメプラ夏のホラー特集を選び、ビューの最上部。一番のオススメ。画面に映るタイトルは《サイレント・テラー》。不穏な血まみれのロゴが、弛緩した空気をあっさりと壊しにかかってきた。


「ひっ……」

「だ、大丈夫ですか?」

「ぎりぎり……ごめんね、始まったらおっきな声いっぱい出ちゃうと思う」


 なんか言い方がやけに色っぽく感じるんだが。


「いいですよ。叫んでも、飛び跳ねても、オレがちゃんと受け止めますから」

「ほんと? ……変な声出しても引かないでね」

「引きません。むしろレアなので記憶に残します」


 冗談交じりに返すと、水萌さんはぷくっと頬を膨らませた。けれど怒っているというより、照れ隠しのようで。


「もー……そういうところだよ、晴翔くん」


 小さく呟いて、彼女はすっと体を寄せてきた。

 ぬくもりが、肩から腕へとゆっくりと伝わってくる。

 そこには、小さな震えもあって。


 緊張しているんだろう。


「最後までちゃんとそばに居ますから。安心してください」


 手を優しく握り、不安を和らげようと試みる。

 水萌さんは何も言わずに、こくんと小さく頷いた。


「じゃあ、再生しますね」

 

 部屋の照明がふわりと落ち、スクリーンだけが淡く光る。

 不穏なBGM。怪しいベールの中に突っ込むかのように再生ボタンを押して……。


 楽しい楽しい、週末の夜が幕を開けた。

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