第8話
九月がやってきた。
九月の二日は黒木の誕生日だ。
「獅郎さんみたいにお高いレストランには行けないけど、ちょっといいとこでごはん食べましょう」
もちろん私が出します、碧はそう言って、老舗の天ぷら料理を出す店へ彼を誘った。
「ここの揚げなす、おいしいんですよ」
黒木の好きな食べ物を知っているからこそ、この店にしたのであろう。
海老にイカ、里芋にかぼちゃ、れんこんに銀杏になす、舞茸に松茸などを食べて、最後に天茶という、天ぷらをお茶漬けにしたものを食べた。
デザートにはぶどうが出た。
「おいしかったね。ごちそうさま」
「まだ、家に帰ったらケーキがありますよ。帰るまでに消化しといてください」
「また一つおじさんになっただけだってばー」
「いいのいいの」
帰宅してコーヒーと紅茶を淹れて、前もって互いに好きなケーキを買っておいたものを出した。
「はい、これ」
碧はにこにことして包みを黒木に渡した。
「ありがと。なんだろうなー」
黒木が包みを開けると、それは。
「……碧ちゃん」
彼は、それを見て固まった。
中身は、五本指の靴下であったからである。
ぷっと碧が吹き出した。
「それは前哨戦のプレゼント。本番はこっちです」
碧は背中から別の包みを取り出した。B5くらいの、少し厚みのある小さなものである。
「あんまり獅郎さんがおじさんになるおじさんになるっていうから、おじさんグッズの代表五本指靴下で笑いを取ってみました」
「本番かあ」
がさがさと音をさせてそれを開けると、それは小さな本のようなものである。
「アルバム?」
「はい。手作りです」
黒木がそれを開くと、二人で撮った写真の数々やうさめやオレンジの写真、黒木の事務所、今まで食べてきた料理や碧の部屋や花の写真などが碧の描いたイラストに彩られて貼られていた。
それは、ちょっとした二人の歴史だった。
「俺の寝顔まである。こんなのいつ撮ったの」
「ひみつです」
アルバムの最後には、まだまだ余白がたくさんあった。
「この後にも、まだまだ貼っていけるかなーと思って。増やしていけたらいいと思って。 それで」
「そうか。そうだね」
黒木は最後のページに指を這わせると、碧を顧みた。
「まずは、ここに結婚式の写真だね」
「そういえば、澤田さんから連絡ありました。ドレス出来上がったから、時間のある時に来てほしいって。見たいですか」
「うーん、見たいけど、今は我慢する」
「なんで?」
「本番までの楽しみにするよ」
ふふ、と碧は笑った。
そうして、夏が過ぎていった。
その日碧は仕事が休みで、黒木がこれから仕事が終わる、という連絡をもらって、それに合わせて夕食を作っていた。階段を上がってくる足音が聞こえてきて、あ、そうかなと思っていれば、カチャカチャという音がして玄関の鍵が開けられる音がしたので、台所に立っていた碧は玄関の方を向いて黒木を迎えた。
「おかえりなさー……」
そこで、首を傾げた。
「い?」
黒木が、おかしなものを抱えていたからである。
それは、仔猫であった。
「猫、拾っちゃった」
彼は困り顔で言った。
「落ちてたんですか」
「散々お母さん探したんだけど、いなくて。一人みたいだし、ついてくるし、ぴゃーぴゃー鳴いてるし、おなかすいてるみたいだし、ほっとけなくて」
「ははあ……」
黒木の大きな手のなかで鳴いている仔猫は、三か月くらいであろうか。まだ小さい。
鳴き声を聞きつけて、うさめとオレンジが玄関までやってきた。
「とにかく、なにか病気を持っているかもしれないのでこういう時は一緒にしたらだめです。隔離しないと」
「そうだね。でも、食べるものあげないと」
「とりあえずうちのごはんをあげましょう。お風呂場で」
幸い、まだ寒い季節ではない。碧は急いで平たい小さな皿を出してきて、浴室に置いた。
そして仔猫に食べさせると、そっと浴室の扉を閉めた。
「明日獣医さんに連れて行きましょう。健康診断とか、ノミとか、色々調べてもらわないと」
「そうか。そうだね」
猫に関しては、碧に一日の長がある。黒木は碧がてきぱきとペットボトルに湯を入れてタオルに包み、それを洗面器に入れるのを見て、
「それ、どうするの」
「ここで寝てもらいます。まだお母さんと一緒に寝てる月齢だから、夜寒いといけないからこうして温まってもらいます」
なるほどな、と思い、入浴する時は極力水が仔猫に跳ねないよう注意してシャワーを浴びた。
翌日仔猫を獣医に連れて行くと、仔猫はちょっと痩せてはいるものの、健康そのものだという太鼓判をもらった。ノミはいるが、これは体を丁寧に拭いてもらってすべて取り除くことができた。
「よかったな。健康だってよ」
タクシーのなかで籠のなかの仔猫ににむかって話しかける黒木の顔は、穏やかだ。
帰宅すると、黒木は碧に尋ねた。
「碧ちゃん、どうする? この猫」
「どうする、って?」
「里親とか、募集する? それともどこかの団体に引き取ってもらう?」
「それもいいですけど……」
碧は黒木を覗き込んだ。
「でも獅郎さん、離したくないって顔してる」
「え。そうかな」
「うん。してる」
くすくす笑いながら、碧は言った。
「二匹も三匹もおんなじですよ。うちの子にしましょう」
碧がそう言ってくれたので、黒木はほっとして仔猫を見下ろした。
「おい、うちにいられるってよ。よかったな」
「そうとなると、名前を決めなくちゃいけません。獅郎さんが拾ってきたんだから、獅郎さん決めてください」
「え、だめだよ。俺、センスないもん」
「だめですよそんなの責任放棄ですよ」
「やだよ碧ちゃんつけてよ。そういうの碧ちゃんの方がうまいじゃん」
「えー」
「おねがいっ」
「もー」
碧は三毛の模様の仔猫を見下ろした。
「んーこの子は女の子だから……」
碧はなにかを思いついた顔になった。
「するめちゃん」
黒木はがっくりとなった。
「碧ちゃん……」
彼は言った。
「それ、女の子となんか関係ある?」
「あれ? ないですか?」
「ないよ。まったくないよ」
「あれー?」
と、いうわけで、また新しい家族が一匹、増えた。アルバムの写真も増えることになったわけである。
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