第7話
3
本格的な夏がやってきた。
夏は連勤の季節でもある。
「お彼岸がやってきます。連勤ですよ。暑いし疲れるし、最悪です」
碧はうんざりした顔で言う。
「夏バテしないように、しっかり食べないとね」
「とろろでも食べましょうか」
「いいね。毎日でもいいくらい」
「じゃあそうしましょう」
黒木と碧の食の好みは、ほぼ一致している。そのため、二人は食事をするときに齟齬がない。碧がこうしたいと思えば黒木もそうしたい時だし、黒木が好きなものは大抵は碧も好きだ。
だから、お互いに自分の好きなものを作って出せば相手が喜んで食べる。また、相手が喜ぶものを出しても、それは自分の好きなものでもあるのだ。一石二鳥である。
毎日、暑い。
暑いと、人も表に出ない。
従って、探偵業も比較的暇である。だが、人間浮気はする。張り込みの作業はいくらでもあった。
碧が暇な時は黒木が忙しく、碧が連勤の時は黒木が比較的時間が空いていて、互いに相手のことをサポートしてやることができた。
連勤でセンターが忙しいと、社長の萩田が助っ人でやってくる。そうすると、もやしがどやされる機会も自然、増えていく。
「わからないなら聞けよ。報告を後回しにするな」
「切れない鋏を持って仕事に立ったりするからそんなことになるんだ。仕事に対する姿勢が甘いんだよ」
あらら、今日も怒られてる。もやしもめげないなあ。ふつうならあれだけ怒られたら嫌になって辞めちゃうけど。
ある日、もやしが配達に行っている間のこと、萩田が神嶋に向かって、
「俺、言い方きついかなあ」
「いや、きつくはないですけどね。なんていうか、萎縮しちゃってるんですよね」
と言い合っているので、パートたちもこぞって萩田に進言し始めた。
「高須さん、なにがわかってないかわかってないんですよね。だから、混乱しちゃってる」
「俺はあいつか嫌いだとかそういうんで怒ってるわけじゃないんだよ。ただ、鋏一つにしたって、こうやって持って、ぶら下げて切れないでしょう、あいつの鋏。そういうのがだめだって言ってるんだよ。エプロンだって膝丈の下まであって、あんなんじゃ走れないだろうし、そういうの一つ一つに仕事に対する姿勢が出てるって俺は言ってるんだよ」
なるほどなあ。碧は納得した。なにも、好きで怒ってるわけじゃないんだ。それなりの理由があるんだ。
「でも、高須さん、きっと切れない鋏って言われて、それは鋏として機能しないって意味だと捉えていると思いますよ」
と、碧は言っておいた。
「えー? そうかあ?」
「どうも、あの顔を見ているとそんな気がします。現に鋏、あのまんまですし」
もやしの持っている仕事用の鋏は、いわゆる華道部で使うような鋏で、持ち手がないものである。
「だから、ちゃんと説明してあげないと誤解したまんまですよ、きっと」
「厄介な奴だなあ」
また、萩田がいない時に、河西がもやしに、
「わかんないならわかんないって言ってよ」
と言っているのを、碧は聞いたことがある。
美津子にそれを言うと、
『ふーん。わかることとわかんないことの境界線が曖昧なんだね』
『元々、前職もお花やさんだったんだって。友達と一緒に個人でやってて、でもやっていけなくなって、友達がもう辞めるって言って、それでうちに来たんだってさ。そういや社長も上司とおんなじこと言ってた。わかんなかったら聞けよ、って』
『なにがわかってないか、わかってないんだね』
七月の連勤が終われば、また暇になる。かと思えば、すぐ八月の連勤だ。
その合間合間に、ドレスの仮縫いに行ったり、結婚式の料理を決めたりした。
八月の連勤が終われば、月の後半はしばらくは暇だ。
「みょーん」
碧が左目の瞼をめくって、しきりに瞬きをしている。
「なにしてるの」
「二重になっちゃったので、直してます」
ぱちぱちぱち、と瞬きしながら、彼女は鏡を見ている。
「うーん、戻らない。もう一度」
みょーん。言いながら、碧は瞬きをする。
「見して」
「だめです」
「いいじゃん見せてよ」
「だーめー」
「どうせ直らなかったら見るんだから」
ちなみにその日一日では碧の瞼は直らず、碧は嫌々片方二重の目を黒木に見せる羽目になった。
「別におかしくないよ」
「そういう問題じゃないです」
その暑い仕事のない日、碧は二駅離れた書店まで行って本を買い、ついでに喫茶店に寄ってひと休みして、帰宅しようと思っていた。
その男に声をかけられたのは、喫茶店に行こうと思った時のことだった。
「碧さん?」
聞き覚えのない声だが、その男は自分の名前を知っていた。だから、反射的に振り向いてしまった。
「やっぱり碧さんだ。俺、覚えてる? 大木」
「あ……」
少し前に知り合った、名前すら今言われて思い出した程度の知り合いである。
「久しぶりだなあ。ここの近くに住んでるの」
「ええ、まあ」
「俺、今からお茶でもしようと思ってたんだけど、一緒にどう」
「……いいですよ」
それがいけなかった。大木は意気揚々と喫茶店に入っていき、碧が気が進まないのにも気がつかないようにコーヒーを注文すると、ぺらぺらと自分の近況を話し出した。そして、碧のことを色々と聞いてきた。
仕事はなにをしているのか。
どんな仕事をしているのか。
恋人はいるのか。
いるのなら、どんな男か。
質問は詳細に至った。
碧はどんどん口数が少なくなっていった。
「……私、婚約したんです」
「婚約って言ったって、指輪してないじゃない。そんなの、ほんとの婚約とはいえないよ」
「それは」
「指輪も買えない男なの? そんなのやめちゃいなよ」
「――」
なんだこいつ。碧は信じられない気持ちで大木を見ると、鞄を持って立ち上がった。
「帰ります」
「ちょっと待ってよ」
大木は素早く碧のスマホを手に取ると、勝手にそれを起動して自分の連絡先を入れた。
「これ、俺の電話番号。いつでも電話して」
誰がするか。
逃げ出したい気持ちでいっぱいでスマホをひったくると、足早にそこから立ち去った。
引き出しにしまっておいてある婚約指輪を、碧は取り出してみた。できたてで新しいので、表面はぴかぴかである。
そのきらきらと光るダイヤの表面を見ていると、心が躍った。
「どうしたの碧ちゃん」
そんなことをしていると、黒木が気づいて後ろから声をかけてきた。
「ん、ちょっと。やっぱり、指輪しようかなって」
「なんかあったの」
「なんかってほどのことではないんですけど、指輪してないと、婚約してるようには見えないかなって」
「そうだなあ」
黒木は碧の手のなかにある箱のなかの指輪を見て、それから碧に目を移すと、
「碧ちゃんはどうしたい?」
「んー」
婚約指輪もしていないなんて、そんなの婚約しているうちには入らないよ。
大木に言われた言葉が甦る。
「やっぱり、式の日に交換するまでとっておきたい。それで結婚したって、実感したい」
「じゃあそうしよう」
黒木は碧から箱を受け取ってそっと引き出しにしまった。
「他のひとはどうかは知らないけど、俺たちは俺たち。他は他」
それで安心して碧はその日あったことなどすっかり忘れて、近頃取りかかっていた作業に没頭するなどしていたのだが、悪いことに大木はまた別の日に現われたのである。
「やあ」
この前と同じ駅の改札で、彼はまるで碧を待っていたかのように迎えてこう言った。
「ここ、よく来るの」
「……」
碧は黙って大木の脇を通り過ぎようとした。
「待ってよ。お茶でもしようよ」
「忙しいんです」
「そんなはずないでしょ。今日は仕事の日じゃないんだから」
火曜日と木曜日は仕事の日ではないと言ったのを、覚えていたのか。
「いいから、行こうよ」
「あっ……」
手首を掴まれて、碧は無理矢理大木に喫茶店に連れて行かれた。
大木が飲み物を注文している間、碧はどうやって逃げ出そうかとそればかりを考えていた。このひとといると、ペースを崩される。苦手だ。
「明日は、仕事なんでしょ」
「ええ、まあ」
「何時に上がるの」
「それは明日にならないとわかりません」
「仕事上がり、飯行こうよ」
「仕事終わったら疲れていてそんな気力ないんで、すぐに家に帰ります」
「じゃあ俺、家まで行って飯作ってあげるよ」
なに考えてんだこいつ。
ぞっとした。最早、断る気力すらない。
黒木にこのことを言うことすら、なんだか憚られた。実害がないからだ。
それがいけなかった。
翌日の碧の仕事終わり、碧は職場の最寄りの駅に着いたところで、彼女を待ち構えていた大木に遭遇して仰天した。
「おつかれさま。帰ろ」
「な……」
碧は絶句して、思わずそこに立ち止まった。
「なにしてんですか、こんなとこで」
「碧さんを待ってたんだ。帰って飯作ってあげるから、帰ろうよ」
「嫌です」
「そう言わないで、一緒に帰ろう」
改札を入ってもついてくる大木に閉口して、碧は黒木に駅まで迎えに来てくれるようメッセージした。おかしな男がついてくる、身の危険を感じるから来てくれ、そう伝えた。
くたくたに疲れていて口も利きたくないというのに、大木はあれこれと電車のなかで話しかけてきて、碧はずっとむすっとしてそれを聞き流していた。
「碧ちゃん」
駅の改札で、黒木は碧を待っていた。
「獅郎さん」
黒木の心配そうな顔を見て、碧はそれで初めてほっとして、彼の元へ走るようにして歩み寄った。
「どうしたの。メッセージ見て心配したよ」
「碧さん、誰こいつ。碧さんのなに?」
黒木はついてきた大木をじろりと見ると、碧を後ろにやった。
「お前かおかしな男って」
長身の黒木が前に出てきて、大木は思わず怯んだ。
「な、なんだよあんた」
「彼女の婚約者だ」
「こ、婚約者? じゃ、ほんとに婚約してるの?」
「ストーカーか。警察行くか。知り合いに連絡してもいいんだぞ」
「な、な、脅しても」
「彼女にこれ以上つきまとったら、痛い目に遭わせるからそう思え」
低い、打ち据えるような声でぴしりと言われて、大木は身が竦むのを覚えた。
「二度と彼女に近づくな」
這う這うの体で逃げていく大木を見送ると、黒木はため息をついて碧を振り返った。
「大丈夫?」
「……はい」
さすが元刑事。迫力が違う。なんて感心していたのも束の間、その晩入浴を終えて食事がすむと、黒木は碧に尋ねた。
「いつからあいつにあんなことされてたの」
「……一週間くらい前です」
「そんなに前から?」
彼は驚いたように目を見開くと、
「どうして俺に言わなかったの」
「まさか、職場の駅まで来るとは思わなくて」
「そもそも、どこの知り合い?」
「獅郎さんがいなかった間、前の職場の同僚が連れてきたんです。いい男いるわよって。 でも興味なくて、会話だけして終わりにして、そのままさよならしたんです。相手もそれで終わりかと思ってたら、あっちは私のこと覚えてたみたい」
「碧ちゃん、もてるから。そういうの、気をつけて」
「もてる? そうかな」
「自覚がないのも、そう。若い頃から、こんなことなかった?」
「うーん、どうだろ」
碧は考える顔になった。
「あ、そういえば、中学に上がってから小学校の頃の友達と遊ぶ機会があったんですけど、その子たちが自分が通ってる学校の子たちを連れてきて。男子校に通ってる子たちが、友達連れてきてたんですよね。そのうちの何人かが、私に電話するようになってきて」
「ほう」
「私はアニメ観たかったりイラスト描きたかったりして一時間くらい切っちゃったんですけど、毎週電話してきてうざかったです」
「あとは?」
「その子たちとよくグループで映画行ったり遊園地行ったりしてたんですけど、その子たちのうちの何人かが私に物くれたり私と遊びに行こうとしたりしてきて。興味ないんで断ってたんですけど、なんだったんでしょう、あれ」
黒木は呆れて片手で顔を覆った。そうだった、この子は干物で、しかも変わり者だった。
碧ちゃん、それはプレゼントとデートっていうんだよ、と言おうとして、黒木はやめておいた。
「まあとにかく、これからはもうさすがにないと思うけど、今度からは俺にちゃんと言うように」
「はーい」
「じゃあおじさんは走ってきます」
「いってらっしゃーい」
「鍵かけてね。さっきのことがあるから」
「はーい」
碧が鍵をかけたのを確認してから、黒木は部屋を出ていった。
やれやれ、もてる自覚がない彼女を持つというのも大変だな。
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