第9話
十月になった。
碧の仕事も落ち着いてきて、暇になる時期である。
社員の一人に、鉢植え担当の迫田という男がいる。碧は彼を、『心の声をしまっておけないひと』と秘かに呼んでいる。
働き始めの頃、彼の近くで掃除をしていたら、
「もーなんだよちくしょーなんだっていうだよこんにゃろー」
とぶつぶつ言い始めたので、碧はてっきり自分のことを言われているのかと思い、びっくりして見てしまったことがあった。しかし、どうやら違うようなのである。
迫田は自分の手元がうまく動かないことに不満があって、それでぶつぶつ文句を言っているのだ。
年齢にして、五十過ぎであろうか。白髪混じりの、いい年の壮年の男性である。
それが、独り言ならまだしも、傍で働いている人間がぎょっとするほどの大声で文句を言っているのだから、聞いている方は気が気ではない。しかし慣れてしまうと言われているのは自分ではないとわかるようになってきて、碧は彼をやり過ごすことができるようになってきた。
彼はたまに休憩室でパートたちと昼食を一緒に食べることがあって、そうして見ていると気がよくてよく話すし、ただの気のいいおじさんなのだった。
ただ、育ちが悪いんだな、とは思う。
なぜかと言うと、前歯が抜けたままだからだ。それに、歯並びが異常に悪い。歯科医の娘の碧からしたら、それは考えられないことである。前歯が抜けたり歯並びが悪かったりしたら、どんなことがあっても処置するものだ、と教えられて育った碧からすれば、それを放っておいてよしとする家庭環境にあることは必然、育ちが悪いことに繋がる。
心の声をしまっておけないのも、家庭や学校でそういうことを声に出して言うのはやめなさい、と教育されなかったからだともいえる。
いいひとなんだけどね、とは思う。ただ、近寄りたいとは思わない。
ある日、碧がいつものように花を袋に入れて流していると、いきなりベルトコンベアが止まって、動かなくなった。ピーッと音がして、ガタンと鳴って、それから駆動しなくなって、各務が何度もスイッチを押す。
「あーあーあーあー、やっちゃった。宇藤さん、壊したわね」
「え? 私?」
花を流していると、たまにあることだ。上流から花が流れる際、花を束ねるためにゴムをかける。そして、それを碧が袋に入れる。入れて流したその花を、今度はその袋を留めるためにまたゴムをかけるのだが、そのゴムをかける機械がたまに壊れるのである。
それは、袋に入れる人間の所作のせいだと言われている。詳しい理由は、不明である。
とにかくベルトコンベアが動かないので、業者を呼んで修理してもらうことになった。
その間ただ待っているわけにはいかないので、手で花を輪ゴムで留め、袋に入れ、テープで留めるという作業をやっていると、迫田が笑いながら、
「宇藤さん、これやるの何回目? 機械も人を選ぶんだね。宇藤さん、機械に嫌われてるんだ」
むっとした。んなわけあるかい。
それが顔に出たのだろう。各務がちょっとこちらを見ていたから、そんな表情をしていたに違いない。
おっさん、あんた、間違えて四トントラックシャッターに突っ込んで壊して会社に大損させたくせになに言ってんだ。屋上の喫煙所でボヤ出したくせに。
生理二日目で体調が悪かったというのもあって、碧は迫田にこたえることができず、それを無視した。
帰りの電車で美津子にそれを愚痴ると、
『生理二日目でそれは殺意が沸くな』
と返ってきた。
『機械は壊れたまんまだし怒られるし最悪だった』
お腹が、痛い。碧は生理痛は軽い方だが、二日目はやはり重い。疲れた身体を引きずって帰ると、黒木が料理の真っ最中だった。
「あ、おかえり。お風呂沸いてるよ」
「でも、私生理中です。絶賛二日目」
「そんなのいいから、入っといで」
送り出されて、碧は服を脱いだ。冷えた身体に、湯が熱い。
「ん、どうしたの」
夕飯を食べる段になっても、気分は晴れないままである。
「なんかあったの」
「今日ベルトコンベア壊しちゃって……」
と、迫田に言われたことをこぼすと、
「ふうん」
黒木は食べながら言った。
「無神経なひとって、いるよね。自分では面白いこと言ってるつもりなんだろうけど、ぜんぜんそうじゃなくて、相手の傷を抉ってるってひと」
「まさに今日のがそれでした。機械壊しちゃってへこんでるのに、そんなこと言われたら誰だってむっとしますよ。しかも二日目なのに。自分だって過去には結構な失敗してるくせに棚に上げて、なんなんだって感じ」
「よしよし」
おいで、黒木は碧の腰を抱き上げて、自分の膝の上に乗せた。
「お腹冷やしたらいけないよ。生理中は」
言いながら、下腹部に手を当てる。大きな手で包まれて、身体がじんわりと温かくなった。
「洗い物は俺がやるから、碧ちゃん横になってて」
「ん……」
こたつをつける季節になってきた。二人の住む部屋は北向きなので、特に寒い。猫たちがいっせいにこたつのなかに入って、暖を取っている。
「碧ちゃん、おじさん走ってくるけど、鍵かけてくから、寝てて」
「はーい」
だめだ。おなかいたくて、起きる気力がない。獅郎さん帰ってくるまで、アニメでも観てよう。
横になってタブレットでアニメの続きを観ていたら、疲れていたのもあってうとうととうたた寝してしまっていた。
どれくらい寝ていたことだろう。
玄関で物音がして、ただいまーという黒木の声がして、はっとなった。
「碧ちゃん?」
「あ、おかえりなさい。寝ちゃった」
「いいよいいよ、横になってて。俺お風呂入るから」
それでまた安心して横になってとろとろとなっていると、やがて黒木が風呂から上がってきて、横になった碧の後ろから抱きついてきた。
「ただいま」
「獅郎さんぽかぽか」
「碧ちゃんの身体はつめたいよ。ちゃんとこたつ布団かぶんなきゃだめだよ」
「んー」
碧が、疲れている。肉体だけではない、心もだ。
職場で投げかけられる数々の心無い言葉になんともないような顔をしているものの、それがやすりのように碧の心を削っていることに、黒木は気づいている。
宇藤さん、病気だからって甘えないで。
病気だからってなんでも許されると思ったら大間違いよ、宇藤さん。
病気ではなく障害だと何度言っても、職場の人間は理解してくれない。する気がないからだ。見た目は健常者と変わりがなく、障害特性も健常者にありがちなものと捉えられそうなものばかりな発達障害は、なかなか理解してもらえない。
こだわりが強い、物忘れがひどい、衝動が抑えられない。
それも、健常者が私もそうだよ、と一言言ってしまえばそうなってしまうのだ。
「碧ちゃん」
「んー」
せっけんのにおいを漂わせながら、黒木は碧に言った。
「仕事辞めたかったら、辞めてもいいよ」
「辞めませんよう」
「もし、の話だよ」
「もし、でも、辞めない」
「でも、選択肢にそういうのがあるっていうのも、知っておいて。ね」
「ん……」
「碧ちゃんのぶんくらい、俺の収入でどうにでもなるから」
ね、そう言うと、黒木は碧の髪に顔を
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