第2話
「そうとなったら、まずは指輪だね」
「ちょっと気が早いんじゃいないんですか?」
「いやいや、こういうのはちゃんとしないと」
碧に指輪を贈るのは、黒木の念願でもあった。それがようやくかなうのだから、彼がそう考えるのもうなづける。
「どんなのがいいかな」
「そうですねえ……」
碧は思案する顔になった。
「仕事で左手使うから、あんまり目立ったり大きいのだと、邪魔ですね。あと、ダイヤじゃないやつ」
「ダイヤ、いやなの」
「だって、誕生石じゃないし」
婚約指輪の定番といえば、ダイヤモンドだとばかり思っていた黒木である。これには彼が驚いた。
「……五月の誕生石って、なんだっけ」
「エメラルドと、翡翠です。でもエメラルドって脆いから、強度がなくて割れやすいんですよね。だから、翡翠がいいかな。あと、結婚指輪いらないです。婚約指輪だけでいいです」
「え、なんで」
「だって、おしゃれの幅が減るから」
「……」
「結婚指輪って、左手にするともうそれだけで他の指輪ができないでしょう。それって、結婚してる女はおしゃれをするなっていう呪いみたいに思えて、嫌なんですよね。もっと自由におしゃれしたいです。でも、獅郎さんにもらった指輪はずっと着けていたい。だから、婚約指輪ならずっとつけてられるし、おしゃれもできて一石二鳥。結婚指輪を買う必要はありません」
「へえ」
「獅郎さんも、探偵の仕事に差し支えあるようなら指輪しなくていいですよ」
「俺? 俺は嫌だよ。指輪したい。結婚してる証だもん」
「あら」
「ちゃんとするよ。したらまずい場面では、財布に入れるよ」
そういうわけで、黒木は碧に婚約指輪だけを贈ることになった。
しかし、翡翠となるとピンからキリまで、実に様々なものが売られている。よほどに目が利かないと、騙される素材でもある。
「碧ちゃんがいつもしてる指輪を売ってる宝石屋さんのとこには、頼めないの」
「それがもう引退しちゃってるんですよね」
うーん、と碧は腕組みした。
しばらく考えていた碧であったが、やがて、
「あ」
となにかを思いついたようにスマホを取り出すと、なにかを調べ始めた。
「獅郎さん、これに行きましょう」
碧はスマホの画面を黒木に見せた。
「なになに、ミネラルショー? ミネラルショーって?」
「鉱石とか、宝石のルースとかを卸値価格で売ってくれる、プロのお店やさんたちの集まりです。私、Twitterでフォローしてる翡翠のお店があるんですけど、そこが店舗とか持ってなくて、そういうショーとかだけで売ってるお店なんですよ」
碧はその店のホームページを黒木に見せた。それは、店舗を持たない宣伝のみでやっている天然翡翠を取り扱う店、という触れ込みのものだった。
「一回ここのお店の商品覗いたことあるんですけど、なかなか質が良くて、ろうかんなんかも扱ってるんです」
「ろうかん?」
「翡翠のなかでは、極上のものとされているものをろうかんっていうんです。それが、市場では一粒四十万とかなのに、同じ大きさで十二万とか」
「なんでそんなにお値打ちなの」
「多分、独自の販売経路があるんだと思います。そういうのって早い者勝ちなんですよ」
碧も昔、例の宝石屋で買おうとしたことがあったが、高くて手が出せなかったという。
「へえ、碧ちゃんでも買えなかったのか」
「ここなら、高品質でそこそこのお値段で翡翠が手に入りますよ。行ってみます?」
退職金も出たことだし、予算はある。婚約指輪くらい、いいものを買ってあげたいという気持ちが湧いた。
「うん。行こう」
「次のこのお店の出店は、土曜日ですって。池袋だそうです」
「じゃあ帰りにどこかでご飯でも食べていこうか」
「わーい」
互いの仕事も、ちょうど暇だ。その日を楽しみにして待った。
土曜日、昼過ぎにミネラルショーに行くと、早速その翡翠店のブースに向かった。
「俺、宝石のことはよくわかんないから、碧ちゃんが好きなもの選んでいいよ」
「でも獅郎さん、予算があるでしょ」
「そういうことはいいから」
確かに値段は気になったが、行く道すがら碧の話を聞いていると、法外な値段をつけている店ではないようだ。だから、値段のことは気にしていなかった。
碧が店の主人となにか話している。その間、黒木は商品を眺めていた。翡翠十万、十二万、一番高くて十三万か。やっぱり、すごくお高いっていうのはないな。それにしてはどれも色がきれいだ。おっ、これがろうかんか。いい色だな。
碧が、声を上げてろうかんの商品を手に取っている。
「それなんて、お値打ちですよ」
「うーんちょっと大きいなあ。仕事の邪魔になっちゃう」
「そうかな。大きいかな」
「左手で袋のフィルムめくるから、石が当たると傷になったりしたらいやでしょ」
「仕事してるときだけ右手に着けたら? 手袋するんでしょ」
「うーん」
「同じろうかんなら、こっちは? ちょっと小さめだよ」
「うーん」
碧はいい顔をしない。黒木は事前にろうかんについて調べていたのだが、翡翠においてろうかんという種類は特別なもので、大きいものだと何百万とするものもあるのだという。 ろうかんとは青竹という意味だそうで、確かに携帯の画面で見ても青い竹のような清冽な緑色を放つその翡翠は、それだけの価値があっても不思議ではないように思われた。
目の前にあるろうかんは、小粒だからそのぶん安くなっているのだろう。ろうかんがこの値段で手に入るのなら、せっかくならこれにしてあげたいという気持ちがあった。
「ろうかんなら、こちらのチビろうかんもございますよ」
店主が、別の商品を見せてきた。
「チビろうかん?」
それは、ごまの粒のように小さな小さな宝石だった。それが全部で十粒ほどあるのだ。
「あ」
碧は声を上げた。
「思いつきました。獅郎さん、これにしましょう」
「えっ」
この小さな小さなチビろうかんは、一粒六千円とある。こんな吹けば飛ぶようなものを婚約指輪には、とてもではないがしてはやりたくない黒木である。
「これを八個くらい買って、中くらいのダイヤの周りに取り巻きにしましょう。それを金地の指輪にするんです」
「うーん?」
「こんな感じ」
碧はタブレットを取り出して、さっと描いて見せた。
「そしたらそんなに大きくないし、誕生石だし、ろうかんだし、いいことづくめじゃないですか」
「碧ちゃんがいいならそれでいいけど……ほんとにいいの?」
と尋ねると、碧は満面の笑みを浮かべて、
「はい」
と答える。
「じゃあ、それで」
黒木は八粒の小さな小さな翡翠を買い、本当にこれでいいのかなと首を傾げつつ、碧と食事をして帰った。
「でも、宝石屋さんは引退しちゃったんでしょ、誰に作ってもらうの」
「知り合いの彫金教室に依頼して、作ってもらうつもりでした。ダイヤもそこに頼んで、見つくろってもらいましょう」
「それって、どうやって依頼するの」
「ネットで」
「彫金教室はどこにあるの」
「三鷹です」
「それ、直接行ける?」
「? はい」
「じゃあ、行く」
「えっ」
「行って、ダイヤ見る」
「えー」
「それくらい、したいじゃん」
「いいですけど……ちゃんと選んでくれますよ」
「いいの。俺がしたいの」
そこで、教室に連絡をしておいて、二人の都合のいい日を選んでその日に行くとメールで伝えた。
その彫金教室は駅から歩いて二十分ほどの場所にある十坪ほどの小さな敷地で、そこで十五人ほどの人間がいっせいに糸鋸や電動ドリルなどを使って銀細工を切り出していた。
「いらっしゃい宇藤さん。お待ちしていました」
「こんにちは」
「今日はダイヤを見たいということでしたので、用意してありますよ」
黒木はそこの社長兼講師という男に挨拶をすると、ダイヤを見せてもらった。
「まず、デザイン画を見せてください。あと、使う翡翠も」
「これです。こっちは翡翠」
碧はデザイン画とこの間買ってきたろうかんのケースを出した。
「ははあ、小さいですね」
「これを取り巻きにして、中心にダイヤを入れようと思ってるんです」
「そうしたら、これくらいの大きさのダイヤになるかな」
社長はそう言って箱からダイヤのルースを出してきた。
「うちは世界中の鉱山と取引をしているので、どんな大きさでもあります。あらゆるグレードが揃っていますよ」
「俺は、よくわからないんですが。なるべくいいものがいいです」
黒木はじっとダイヤの粒を見つめながら言った。
「そうすると、最上級のDカラーのものがこれ。エクセレントカットですよ。これが三万円」
「えっ」
黒木は顔を上げた。
「そんなもの?」
「こんな大きさだと、それくらいですね」
そうなのか。そんなもんなのか。
「その代わり、金の指輪を作るということでしたので、お仕立て代がだいたい十五万から二十万くらいになります。細かい見積もりは後でちゃんと出しますけど、だいたいでそれくらい」
「そうなんですか」
「金の相場は、どんどん高くなっているので」
「どうします?」
「じゃあ、この一番いいやつを」
ありがとうございます、社長が言って、丁寧にダイヤを取り出した。
「今見積もり出します?」
「そうしてください」
「じゃあ、少しお待ちくださいね」
社長が奥に引っ込んでいった。
碧が黒木に囁いた。
「奥で、金の相場を調べてるんですよ。それで作業料とか工賃を計算して、だいたいを見積もるんです」
「ほーん……」
五分ほどすると、社長が戻ってきた。
「お待たせしました。十七万九千円でどうでしょうか」
黒木の思っていた額より、五十万近くも低い。彼は頭を下げた。
「それでお願いします」
「じゃあ、出来上がったらメールで連絡しますね」
「どれくらいでできます?」
「うーん、一か月くらい」
「わー、誕生日までにできそう」
教室を後にして、黒木は言った。
「思ってたよりずっと安くすんじゃった」
「よかったですね。おまわりさんの仕事辞めたから今までよりずっと不安定になるし、節約できるところは節約していかないと」
「それに、もうすぐ誕生日だね。なにかほしいもの、ある?」
「やだなあ、指輪がもらえるじゃないですか」
「それは婚約のための指輪。誕生日のお祝いは別」
「節約しなくちゃ」
「それとこれとは別。それに、三年間お祝いできなかったから、ちゃんとしたい」
「うーん、考えときます」
碧は笑って言った。
「あと、私したいことあるんですよね」
「ん、なに」
碧はにまっと笑った。
帰宅した二人は、早速それに取りかかった。
「碧ちゃーん、早く早く」
「あーん待って。オレンジが動いちゃってうまく撮れない」
「あっ逃げた」
「あーシャッターチャンスだったのにい」
「もーいいじゃんオレンジなしで撮ろうよ」
「だめですオレンジと獅郎さんで撮りたいの」
「じゃあもう一回」
黒木はオレンジの後を追いかけて、背を縮めて碧の方を向いた。すかさず、碧はスマホを向ける。
「あっいいかも」
「撮れた?」
「次は二人で撮りましょう」
「よーしじゃあ明るいとこに行こう」
こうして、二人は初めて一緒に写真を撮ることができたわけである。
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