第3話

 黒木はネクタイをきっちりと締めると、もう一度顎を撫でた。

「変じゃない?」

「すごく変です」

「碧ちゃん」

「だって変じゃないかって聞くから」

「そんなに変かなあ」

「だって似合わないもん。お髭、剃っちゃったし」

 今日は黒木が碧の両親に挨拶に行く日である。愛車に乗り、彼女の実家までは、碧の住む部屋から車で十五分ほどだ。

 モラハラ両親と対面か。どうなることやら。

 碧から、家族仲がいいことは聞いている。しかし、姉を中心に家族が回っていること、中学に上がっても下着を買ってもらえなかったことなどを聞いていると、要注意な家族であることは間違いない。

「やあやあ、いらっしゃい。待ってたよ」

 碧の父親は誰がどう見ても先生、という面立ちの紳士然とした男で、母親と一緒ににこにことして黒木を迎えた。

「はじめまして、黒木獅郎と申します」

 玄関でかちこちになって挨拶する黒木を、碧はくすくすと笑った。

「獅郎さん、すごく緊張してるみたい。車のなかでずっと変じゃないかとか似合うかとか聞いてきたの。だから、あんまりいじめないであげて」

「そんなことはしないよ。さあ、上がって」

「は。失礼します」

「獅郎さん緊張しすぎ」

 一言で言うと、豪邸であった。きらびやかではないが、掃除が行き届いている。置き物が、しゃれている。猫が二匹、窓際で寝ていた。

「あ、猫だ」

「そう、うちの猫です」

「あら、黒木さんも猫がお好き?」

「はい、一匹飼っています」

「おお、それは頼もしい」

 リビングに案内されると、気の利いた食器にヘイゼルナッツの香りのするコーヒーが入れられてきた。

「いい香りですね」

「娘がニューヨークから送ってくれるんですよ。うちではこればっかり」

「黒木君はご兄弟は?」

「いません。一人っ子です」

「あら、寂しいわねえ。ご両親はお元気なの?」

「二人とも早くに亡くなりました」

「まあ、そう」

「お仕事はなにをされてるの」

「警視庁の潜入捜査官を十六年間勤めていましたが、先月付けで退職しました」

「ほう、そりゃまたどうして」

「二年三年留守にしなければならない任務なので、家族に寂しい思いをさせてしまうということと、危険であるということを考えてです。守りたいものが、できたので」

 一拍置いて、黒木は言った。

「碧さんです」

 碧の父親の表情が、少し変わった。

「私は親のいない半端者ですが、碧さんを想う気持ちだけは誰にも負けません。今日は、結婚のお許しをいただきたくてお邪魔しました」

 父親はソファの背もたれに寄りかかった。

「警察の仕事を辞めて、今はなにをしてるの」

「探偵の仕事をしています」

「それでやっていけるの」

「二人で暮らしていける程度には」

「ふうん……」

 父親はコーヒーを一口飲んで、それからおもむろに言った。

「いいんじゃないの」

 そしてこうも言った。

「うちの子はちょっと変わってるけど、大事にしてあげて。この子の姉は離婚しちゃったから、碧はそういうことのないようにね」

「お父さん」

 母親が隣でたしなめる。

「そういうことは、死んでもありません」

 わははは、と父親が大笑いした。

「ますます頼もしいな」

 よかった。どうやら、これは認めてもらえたようだ。ほっと一息ついた黒木を、碧が横からつついた。彼女を見ると、親指と人差し指で丸を作っていた。合格の合図だ。

「住むところはどうするの」

「今のところにそのまま住むつもり」

 碧が言った。

「二人でちょうどいいし、猫たちもベランダに出られてストレスないし、便利だもん」

 コンビニまで歩いて四十秒、スーパーまで歩いて三分、駅まで同じく三分と来れば、引っ越す気持ちには到底なれない。

「あそこに二人で住むのにはちょっと狭くない? ねえ黒木さん」

「いえ俺は」

「それに、黒木君の身体であの浴槽はなかなか狭いだろう」

「いいのほっといて。二人で決めたことなんだから」

「指輪はどうするの? もう決めた? 一緒に見に行こうか?」

「もう決めた。一か月後には出来上がるから」

 ぐいぐいと押してくる母親に、碧も負けていない。見ている黒木が圧倒された。

「じゃあ私たち帰るね」

「えっ、もう?」

「うん、帰ってごはん作るから。じゃあね」

 いそいそと帰る碧に、

「ちょ、ちょっと碧ちゃん」

「行きましょう獅郎さん」

 黒木も押されて、結局帰ることになった。

「では、失礼します」

「またいらっしゃいね」

 車に乗って、黒木は碧に聞いた。

「あんなに急いで帰っちゃって、よかったの」

「いいんですいいんです。あのままいたら、晩ごはん勧められてお風呂入って行きなさいって言われて果ては泊まりなさいってなるから」

「すごいなあ」

「それより、お髭また伸ばしてくださいね」

「あれだと人相悪くなるけどいいの?」

「あれがいいんです」

「碧ちゃんも相当変わってるなあ」

 そうして碧の部屋に着いて着替え、風呂に入って夕飯を一緒に作った。

「碧ちゃん来週のシフトは?」

「四月は暇なので、金曜まで仕事ないです。だから明日もお休み」

「そっか」

 夜寝る時、黒木は碧を脇の下に抱いて眠る。そんなことをしたら腕が痺れないかと碧は心配するが、黒木は今のところは大丈夫と言うのでそうすることにしている。

 その夜寝る段になって、黒木の手が服の裾に入ってきて、碧は驚いて彼を見た。なぜかというと、彼はゆうべも碧を抱いたからだ。

「し、獅郎さ」

 言い終える前に唇を塞がれて、碧は混乱した。どうして。なんで。

「愛してる」

「――」

「愛してるよ碧ちゃん」

 それは、まるで三年間の空白を埋めるかのように。毎日毎日、彼は可能な限り碧を欲した。その、あまりにも情熱的な動きに、碧は翻弄され、揺り動かされ、消耗し尽くした。

「……獅郎さん……私もう、これ以上は」

「安心して。おじさんもこれが限界」

 息を切らせて言う碧に、黒木はまだまだ余裕の表情で返す。

 黒木は碧をぎゅっと抱きしめながら、天井を見つめた。

「煙草、吸いに行かなくていいんですか」

「ん、もうちょっとこうしてる」

「獅郎さん」

 どうしちゃったんですか、とは、どうしても聞けない。なんとなく、理由がわかるからだ。

「碧ちゃん」

 それがわかっているかのように、黒木は言った。

「寂しかったよ。会いたかった。ずっとずっと、会いたかったよ」

「――」

 ぎゅっと唇を噛んだ。

「私も」

「ん?」

「私も、会いたかったです」

 そして強く彼に抱きついた。

「ずっとずっと、会いたかったです」

 うん、彼はこたえると、一層強く碧を抱きしめた。

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