猫と女と探偵とⅡ
青雨
第1話
部屋に着くなり、黒木は碧のことを強く、強く抱きしめた。
「――」
「獅郎さ……」
苦しい、と言う前にその唇を塞がれて、碧はさらに息ができなくなった。情熱的な、息継ぎもできないほどのくちづけ。舌を何度も絡め、舐め合い、そうして唇が離れると、黒木は熱っぽい瞳で碧を見た。
「碧ちゃん」
「……」
久しぶりのその感覚に戸惑い、碧はすぐに言葉が出てこない。
「会いたかったよ」
「獅郎さ」
言うや、黒木は碧を抱き上げてベッドまで運び、乱暴に服を脱いで彼女の服も剥いだ。 獣のようなその動きについていけず、碧はただその名を呼び続けるしかできなかった。
三年ぶりのその肌を舐め、吸い、堪能しつくすと、黒木は静かに達した。
そのあまりの激しさに、碧はその腕のなかでぐったりとなった。まぶたが、重い。
眠気と戦っていると、黒木が頬に触れた。
「眠い? 寝てて、いいよ。起こすから」
「ん……」
しかしそう言われても、碧はなかなか目を閉じようとしない。こっくりこっくりと、そのまぶたは閉じようとしてなかなか閉じず、開けては閉じようとして、また開けるを繰り返している。
「寝てな」
「獅郎さん……」
碧は眠そうな声で、小さく言った。
「ん?」
「もう、どこにも行かない……?」
「――」
黒木は碧を抱く腕に、ぐっと力を込めた。
「どこにも行かないよ」
そうだよな。俺、それだけのことしたんだよな。
「約束するよ」
それを聞いた碧は安心したように、ふっと目を閉じると、すうっと眠りについてしまった。その安らかな寝息を聞いていると、今までの殺伐とした生活が嘘のようで、黒木は初めてようやくすべてが終わったのだと実感することができた。
煙草を吸いたくなったが、今起き上がると彼女まで起こしてしまいかねない。我慢して、ずっとそうしていた。白い天井を見つめて、会えなかった日々を思い返していた。
碧の三年間、自分の三年間、色々なことがあっただろう。話したいことも、山積みだろう。
しかし、その前に、どうしてもしなければならないことがある。
黒木は覚悟を決めていた。
「ん……」
三十分ほどすると、碧は目を覚ました。
「あ、起きた? そろそろ起こそうと思ってたとこ」
碧は寝ぼけた顔で頭を起こすと、まだ隣に黒木がいることに驚いたようだった。
「獅郎さん」
「ん?」
「煙草吸いに、行かなかったんですか」
「ん、碧ちゃんが起きちゃうと思って」
「……」
碧はまだ眠いのか、頭が働いていないようである。ぼーっとした顔で考えていたようだったが、すぐに着替えると、
「私、お風呂行ってきます」
「はいはい」
と浴室に向かった。
碧が風呂に入っている間も、黒木はずっとそのことを考えていた。彼女が風呂から上がり、いつものように黒猫を腹の上に乗せて遊び、髪を乾かすと、碧は、
「獅郎さんもお風呂どうぞ」
「碧ちゃん」
黒木は、そこに正座した。
「その前に、話があります」
碧はいきなり畏まってしまった黒木の態度に目を丸くして、何事かと思ったようだったが、彼が真剣なのを見て取ると、自分もその正面に座って正座した。
すると、黒木はそこに手をついて頭を下げた。
「いきなり消えて、ごめん。今から事情を話します」
そして顔を上げると、驚く碧を前に彼は静かに話し始めた。
「俺の本当の職業は、探偵じゃなくて、警察官なんだ」
碧は首を傾げた。
「おまわりさん……?」
「そう。それも、潜入捜査官」
「せんにゅう、そうさかん」
「俺が所属していたのは、警視庁組織犯罪対策部・組織犯罪対策五課、通称麻薬取締部というところなんだ。俺はそこで、潜入専門の捜査官をしていたんだ」
碧は話について行くのが精いっぱいで、なんと言っていいのかわからない様子である。
「潜入捜査官はその筋の者に顔が割れないように、ふだんは民間人として生活して、麻薬が密売されるという情報が流れるとその組織に入り込んでその中枢に潜って取引の日にちを調べて本部に知らせ、検挙させるというのが任務なんだ」
「……危険じゃ、ないんですか」
「すごく危険だ。ばれたら殺されるかもしれないし、潜入している間は家族にも会えないし、だいたい家族にも任務の話はできないから、結婚しないという捜査官がほとんどだ。 俺は課に入った時から恋人がいなかったし、もう家族もいなかったし、それで選ばれて、なら俺でいいやって自暴自棄にもなってた。それでいいって、ずっと思ってた」
「……」
「でも、この前辞めてきた」
「え?」
「この三年間の任務が成功したら、辞めるって前々から言ってたんだ。それで」
「でも、なんで急に。好きだったんじゃないんですか、おまわりさんの仕事」
「守りたいものができたんだ」
「守りたいもの?」
「今、俺の目の前にいるよ」
「――」
「任務の性質上、今からいなくなるとは言えなかった。だから、あんな消え方をした」
黒木は手をついて、頭を下げた。
「ごめんなさい。許してください」
「獅郎さん」
碧は慌てて黒木を止めた。
「頭を上げてください。もうわかりましたから」
黒木が顔を上げると、碧は言った。
「……事情はわかりました。そういうことなら、言えないのも当然です。よくわかったから、もういいです」
「許してくれる?」
「許すもなにも、怒ってないですから」
「ほんと?」
「はい」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「よかった」
黒木はほっとため息をつくと、胸を撫で下ろした。そこへ茶トラの猫がやってきて、黒木にすり寄った。
「おう、お前か」
「ふふ、やっぱり覚えてた」
「久しぶりだなあ」
「オレンジも獅郎さんに会えて嬉しいって言ってる」
オレンジが強く身体を黒木にこすりつけている。
「おうおう、待ってくれよ。三年間でずいぶん大きくなったなあ」
黒木はオレンジを抱き上げると、膝の上に乗せた。
「病気とか、してない?」
「はい、健康ですよ。獣医さんのお世話にはなってません」
「オレンジじゃなくて、碧ちゃん」
意外な言葉に、碧は驚いて顔を上げた。黒木がまっすぐに自分を見ている。
「あれから、どうしてた?」
「え、えと、相変わらずお花やさんで働いてます」
「それから?」
「年末が一番大変で、一回熱出しました」
「あとは?」
「母の日が辛くて、いっつも九時ごろ帰ってきてました」
オレンジがあくびをして、黒木の膝から下りた。彼は代わりに、碧を膝に乗せた。
「その次に大変だったのは?」
「お彼岸とお盆の、三か月連続の連勤。左目だけ二重になっちゃいました」
「見たかったな、それ」
「だめです。絶対にだめ」
「なんでー」
「だめなものはだめ」
くすくす笑いながら、碧は三年間の色々なことを話した。職場の人間のこと、イラストのこと、病気のこと、障害のこと。
碧も、黒木の三年間の話を聞きたがった。終わった話だから、と、彼は話せる部分だけを話した。潜入捜査官も事情聴取はするのかとか、手錠は持っているのかとか、銃を撃ったことはあるかとか、碧はそんなことを聞いてきた。
彼女の無邪気な質問に笑いながら、黒木は気軽にそれに答えていく。潜入捜査官だから、聴取はしないよ。手錠はもってるけど、かけることはほとんどない。銃は撃ったことあるけど、撃たれたことの方が多いかなあ。どっちかっていうと、投げたり殴ったりの方があるかも。
そうやって時間を忘れて話をしていって、空白の三年間を少しずつ埋めていった。渇いた心に、水が染み入るような心地よさだった。
ああ、俺、やっぱりこの子が好きだ。
「碧ちゃん……」
「ん?」
黒木の膝に乗ったまま、碧が顔を上げた。彼は身体が大きいので、そうすると碧はすっぽりと彼の膝に入ってしまった。
「結婚しようか」
碧は大きな目をきょとんとさせて、ぱちぱちと瞬きさせていた。
「え?」
「結婚、しよう」
彼女は身体を起こして、もう一度聞いた。
「なんて言ったんですか」
「結婚しよう」
「――」
「何度でも言うよ。俺と結婚して」
碧はちょっとだけうつむいてなにかを考えていたようだったが、やがて意を決したように顔を上げると言った。
「私で、いいんですか」
確か、付き合ってくれと言った時にも同じことを言われたな。
「碧ちゃんがいいんだよ」
「なんで?」
「なんでって……」
黒木は困ったように、
「好きに理由なんてないでしょ。好きだから一緒にいたい。大切だから側にいたい。もう離れたくない。秘密も持ちたくない。だから、結婚したい」
いや? 黒木は尋ねた。
「……いやじゃない」
碧は答えた。
「ずっと一緒にいたい。獅郎さんと、一緒にいたい」
「じゃあ、俺と結婚してくれる?」
碧は口元に笑みを浮かべながら言った。
「はい」
黒木はふう、と嘆息した。
「よかった。断られるかと思っちゃった」
「やだなあ、そんなことあるわけないじゃないですか」
「だって碧ちゃん押し問答が多いんだもん」
「それは単に疑問で」
「まあまあ、いいからいいから」
黒木は碧をぎゅっと抱きしめた。
「お風呂入らなくて、いいんですか」
「もうちょっとこのまま」
「もー苦しいですよー」
「もう少しだけ」
そうしてこの夜は更けていった。
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