第2話 軍団体

だるい午後だった。


通りには人影がまばらで、距離すら感じさせるほど静かだった。


通りの端は木々や石、泥に覆われ、巨大な黒塊が道を塞いでいた。


その黒塊は高さも広さも隠し、その先に向かう視界を完全に遮断していた。


その先、高みには天球がかすかにきらめいていた。


周囲の石造りの建物の窓には布が垂れており、中の様子はうかがえない。


平凡で、鈍くて、静かで、眠気を誘うような日常は、


「うぇぇぇぇぇぇぇぇんっ!」


警報のような悲鳴によって破られた。


黒塊のあちこちから、白を孕んだ赤い光が瞬いた。


「敵襲、敵襲だ!」


黒が光る一方で、その上空にあった天球は、何かに遮られ見えなくなっていた。


「また……来たのか。」


黒壁の内側では、不平と不安、恐怖の入り混じったつぶやきを漏らす男たちがいた。


「みんな……怖がるな!」


周囲の灰色の制服とは異なる、漆黒の軍服を身にまとった男が、震える声に勇気を重ねて叫んだ。


握られた拳には浮かび上がる筋。


「敵は、決してこのエリコの壁を越えられない!」


彼の視界の先、荒れ果てた野原に、不穏な輪郭が現れ始めていた。


「砲撃開始!」


指揮官の命令と共に咆哮したのは、黒壁と同じ色をした巨大な砲塔──水星専用に改造された120ミリ鋼線砲だった。


それは人類最大の国家、ミレニアムシスの繁栄を支える魔法にも匹敵する技術の結晶でありながら、旧時代的な外見をしていた。


同様の砲撃が壁の各所から放たれ、不穏な輪郭をなす水平線を叩きつけた。


赤い爆炎と轟音が響く。


幾体もの敵が燃え、崩れ、転がった。


だが、輪郭そのものは揺るがなかった。


「止まるな! 敵は無数にいるぞ!」


砲撃にもひるまず、さらに接近してくるそれらの輪郭。


そして──いつもの『それ』が見えた。


変形した人間のような姿。


恐怖を超えて、不快と嫌悪が込み上げる。


腹の底で下水の蓋が開いたような感覚。


「青焼夷弾に装填切替! 急げ!」


命令と共に、副官が操作パネルを叩くと、要塞の給弾装置から青色の砲弾が次々と排出され始めた。


そして敵の輪郭が視認可能な距離に近づいたとき──


遠方に、さらに異様な輪郭が現れた。


「……なんだ、あれは?」


「あの街からあの大きさって……」


遠近感を狂わせるほど、巨大だった。


嫌悪もまた、その大きさに比例していた。


下水口から溢れ出した何かに包まれるような感覚。


足が異様に長く、顔は人間の面相を縦に引き伸ばしたよう。


茶色い液体を口からまき散らす。


「地獄へ帰れ! 発射!」


青い砲弾が空中で爆発し、青白い炎と極高温の雨が降り注いだ。


嫌悪すべき存在たちは溶けて消えた。


しかし、最も巨大なそれは、肌が焼けても、ただ前進し続けた。


苦痛に歪んだ顔は、見る者にさらなる苦痛をもたらす。


「再生してる……!」


「これでは、いくら撃っても……」


「これ以上強力な兵器はない! 副官、策は──!」


「そんなものは、ミサイルすら寄越さない帝国政府に……」


冷笑を浮かべる副官。


「うわあああああ、もう駄目です! 全滅です! こんな辺境で死ぬなんて……!」


恐怖に叫ぶ兵たち。


そして、その吐瀉物のような怪物の接近に、指揮官の理性も崩壊しかけていた。


恐怖の中、何かが見えた。


銀色の閃光──


銀の彗星が怪物の額に激突。


現れたのは一人の少女。


黒に近い灰色の髪と、青い光を放つ金属の翼。


「あの子は……」


瞬時に姿を消し、次の瞬間には、怪物の首が落ちると共に、その場所に現れる。


怪物は赤く燃え尽きるように消失した。


続いて、アノマーリングの残党たちに対する一方的な虐殺劇が始まる。


少女の両手首に装着された赤い刃に触れた者たちは、炎に包まれるように跡形もなく消えた。


「あれが、あの『軍団体』か……」


「一個軍団に匹敵するという……いや、それ以上だな。」


「今、あの子と戦えば、我々は確実に負ける」


「実物を見るのは……初めてだ。」



「お疲れさまでした、パラシャ様。 今日も多くの命が救われました。」


帰還したパラシャに声をかけたのは、少女を抜け出したばかりの若い女性だった。


「いいえ、コーネリア様。」


「だから『様』はやめてください。私は行政官でも総督でもありません」


「そう言うコーネリア様こそ、私に敬語をお使いです。」


「あなたは軍団体。人を殺すことも、支配することもできるその力を、人命のために使う。その崇高さは尊重に値します。」


「私は、ただの武器です。判断をする存在ではありません。私が力を使う理由は、袋の口を握るあなたの意志がそう定めているからです。」


コーネリアは苦笑した。


「毎度思いますが、いい価値観とは言えませんね。」


そのとき、コーネリアの背後の黒いレンガに火が灯った。


旧型のパネルから、ぼやけた文字が浮かび上がる。


「また帝国内で反乱でしょうか?」


この惑星エリスの行政首都ポノスにおいて、帝国通信網に接続できる唯一の端末だった。


「……いいえ。コーネリア様、これは……このエリスの行政権が、誰かに移譲されています。」


コーネリアは椅子を蹴って立ち上がった。


「行政官が派遣されるってこと……? ついに?」


「行政権だけではありません。司法権、立法権……すべての権限を、一人に委譲です。」


「え……?」



エリスへの道程の中、最後の整備基地を越えて数時間。


いかにインペリアル・ハイウェイといえど、帝国の最果てへ向かう旅路は長かった。


「退屈ですね……」


操舵室でユリアが欠伸を漏らす。


「操舵長さんも、もう寝たほうが。」


「冗談はやめて。操舵中に寝られるわけないでしょう。」


超空間路インペリアル・ハイウェイは、自動航法補助機能も備える。


舵取りの必要は、ほとんどない──理論上は。


だが、宇宙は何が起こるかわからない。


しかも一隻航行の今は、特に。


ゆえにユリアは常に警戒を怠らない。


「それにしても、性別違いの者同士で長く航海すると、いろいろあるって聞きましたが……」


ユリアが視線を寄越す。


「閣下は、どう思います?」


椅子のロックを外して近づいてくる。


「その権力……私に使ってみませんか?」


香水の匂いが、獣のように迫る──そのとき、椅子をつかむ手。


「神聖な艦橋で、何をしているんですか。」


ユリアがその男を睨む。


「だから将校とは……チッ。」


「閣下も将校でしょう。」


「当然、閣下は例外です。もっと柔軟性を持って。」


その言い争いを、割って入ったのは指揮パネル。


赤く点滅し、警告音が響く。


《インペリアル・ハイウェイが検知不能》


「えっ? 接続されていたはず……地図では──」


《破壊され消失したと推定。地図情報を更新します》


今になって?


「大丈夫、心配いらないわ。」


ユリアが舵を握り、即座に対応を始めた。


「だから、操舵長は寝ちゃいけないのよ。わかる、中尉?」


舵を握るその手が、一瞬だけ震えた。


《非友好的反応感知。》

「破壊されていなくなったから、破壊した連中が近くにいるんだろうな。総員、戦闘配置!」


スループスが艦橋の片壁に取り付けられた赤いボタンを押すと、艦船全体に響く大きな音が鳴り響いた。


《敵対反応を探知しましたが、姿は確認できません。 隠れた物体の識別へ移行します。》


物体の姿は依然として見えないが、位置は特定された。


「思ったよりも近いですね。」


「砲撃戦の準備!」


俺の可愛い戦艦ニックスは、実は最新型ではなかった。


最新鋭の戦艦には、従来の艦砲を外し、誘導型ミサイルを多く搭載したものが増えてきていた。中には艦砲を一切装備していない艦も珍しくない。


帝国のミサイルは、高速で、またその威力が無慈悲だった。小さなミサイルでも、巨大な戦艦を一撃で半壊させる力を持っている。


何よりも、その卓越した点は誘導技術にあった。


帝国全域に張り巡らされたミサイル誘導網があり、そのおかげで撃墜されなければ、回避は不可能だった。


さらに、インペリアルハイウェイの超空間網を活用することで、遥か遠くのターゲットに対しても、光速を超える速度でミサイルを到達させることができた。


これらはワープでも回避不可能な水準に達していた。


そのため、現在の艦船兵器体系は砲撃よりもミサイルに重点を置き、ミサイルを強化し、バリエーションを増やす方向で発展している。


だが、これはあくまで帝国のシステムが届く範囲、インペリアルハイウェイが正常に機能する地域に限られる。


これが致命的な欠点だった。


未開拓地では依然としてミサイルよりも砲撃が好まれる。


帝国のミサイル誘導網を使わずに、艦船や航空機、またはミサイル自体を直接誘導する方法も不可能ではないが、金属や生体、そして未知の物質に対応するための誘導技術は依然として非常に複雑であり、高コストだ。


それに、技術者や熟練の副士官でないと理解しきれないようなものだが、艦橋の偉い人たちには、砲撃の方が直感的で理解しやすかった。


そのため、帝国の拡張期には、艦砲を無数に搭載した巨大な動く要塞が主流だった。


当然、砲弾をたくさん積む必要があったので、艦船そのものが非常に大きく、重かった。


俺が乗っているニックスもその時代に建造された、いわば「遺物」だ。


それでも、俺はそれを手に入れた。俺が買える最高の艦船だったからだ。


帝国には、指揮官が自ら装備を購入するという風習があった。


でも、おかげで──


「この状況には、ニックスが最適なんだ」


「砲撃準備完了。『船長』」


「砲撃開始!」


各自の標的に向けて発射された砲弾は、空中で激しく爆発した。


その中から、この街では見えない無数の物体が噴き出し、四方に散らばった。


クラスター弾だ。


そして、敵艦の一部がその爆風の中から姿を現した。


隠れシステムが破壊されたようだ。


ニックスの予想通り、敵艦は人類のものでも、宇宙人のものでもない、まさに異質な存在だった。


砲撃やミサイルを撃たず、無音で迫るその艦船は、突撃を開始した。


特に、大柄な艦船の中から、まるでカラスのくちばしのような形をした金属の塊が、猛スピードで突進してきた。


「バン!」


その瞬間、私はソルフスの腕に掴まれ、転倒を防がれた。


艦船全体が揺れた。


何が起こったのか把握できないまま、衝撃が艦橋を貫通した。


それまで、何も認知されることはなかった。


砲撃、ミサイル、探知機…すべての反応が無かった。


ただ、ニックスの口に何かが突き刺さっている光景が見えた。


その後、機関銃の音が艦内に鳴り響いた。

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