呼び方の話【水ノ尾】

 霧雨山きりさめざんの神、黒蛇の水ノ尾みのおは考えていた。

 先日、弟・たまきが人間の世で作った娘が訪ねてきた。青梅ヶ原クウ――彼女に「水ノ尾伯父さま」と呼ばれたとき、思ったのだ。

 身内感がすごいな、と。

 思えば山の神となって以来、霧雨さま霧雨さまと呼ばれるばかりで、本名で呼ばれることはとんとなくなった。弟の環でさえも同様だ。これはよくない。

 ――というわけで、今。妻のもとを訪ねようとする環を引き留め、酒で酔わせて、水ノ尾は焦点の不確かな弟を座の上から見下ろしていた。

「のう、環。我のことを兄上と呼んではみぬか」

「はえ? なんれすか、きりさめさま……」

「兄上、だ。繰り返してみよ。あ、に、う、え」

 環は弟なので、水ノ尾よりいくらか若いはずだが、今は妻に合わせて人間でいう五十余歳の見た目になっている。見た目の年齢が上がっても酒に弱いのは相変わらずで、今にも烏帽子が落ちそうなほど頭をゆらゆらさせていた環は、じわりと朱のにじんだ顔を兄に向けた。

「……あにうえ……?」

 ふむ、悪くない。水ノ尾は口元をにんまりさせて、「では次は水ノ尾兄上と――」とさらなる要求をしようとしたが、そのとき襖が開いて六本腕の少女が現れた。

「霧雨さま。酒で正体を失った方を玩具にするのはよろしくありませんよ」

「玩具になどしておらぬ。何の用だ、知朱ちあき。兄弟で酒を酌み交わしているときに、邪魔をするでないぞ」

「お邪魔して申し訳ありませんが、山に侵入者がありましたので、どう処理いたすべきか霧雨さまのお知恵を拝借したく。おいでいただけますか」

 侵入者くらい普段は知朱が勝手に処理している。邪魔をしに来たことは明白だが、山の神として、呼ばれたら赴くしかない。仕方なく酒の席を早々に切り上げ、環を自室へ下がらせた。

 後日、素面の環に主君命令で「兄上」と呼ばせようとした途端、再び知朱が襖を開けて口を出しに来るのはまた別の話。


(2025/8)

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