放課後の連弾【真白/クウ】

 ある放課後、音楽室に忍び込んでピアノを弾いていた。普段は音楽部の活動場所になっているが、大会のためか発表会のためか今日は姿が見えない。滅多にないチャンスが演劇部の休みとかぶったのはラッキーだった。

 ピアノは子供の頃に習っていただけで、人に聞かせられる出来ではない。最近は妹の友人がよく遊びに来るので、自宅ではピアノに近寄れなくなってしまった。自分の才能は音楽方面以外に向いていると自覚しているので、期待の目で見られても困る。

 ヴィヴァルディの「夏」が音楽室に響く。

 集中していたので、観客がいることに気づかなかった。切りのいいところまで弾き終えて手を止めると、パチパチと拍手が聞こえてきた。

「すごいね、真白。ピアノ弾けるんだ」

 いつからここにいたんだろう。青梅ヶ原先輩は鞄から紙束を取り出して、ばさりと広げてみせた。

「それじゃあこれも弾ける?」

「……連弾じゃないですか」

 音符の量が普通の二倍ある。二人同時に一台のピアノを弾く、いわゆる連弾曲。弾けるかと聞かれたら、腕が四本ないので弾けないと答える。

「私も弾くからさ」

 それなら腕が四本になるので、弾ける……か。

 先輩は音楽室の隅から椅子を引っ張ってきて、左側に並んで座った。まだ承諾した覚えはないのだが、いつの間にか弾く流れになっている。仕方なく鍵盤に指を置いた。先輩が譜面台に楽譜を乗せる。

 柔らかな掛け合いから始まる曲だ。誰かと一緒に弾く経験は初めてで、自然と隣の相手に意識が向く。肘が当たるほど近くに座れば、体を揺らしながら弾く先輩の体温まで感じ取れてしまう。

「先輩は特定の後輩を極端にひいきするタイプですか? それとも誰にでもこう?」

「おしゃべりしてたら指をつるよ」

 ゆったりしたメロディで進んでいた曲は、唐突に細かな音の繰り返しに変わった。せわしいトリル、駆け上るようなアルペジオ。たしかにおしゃべりの余裕はない。

 変な曲だ。最近作られたわけじゃなさそうだけどクラシックとして聞いたことはないし、よく見ると楽譜が手書きだし。曲は緊張が高まり切ったところでだんだんと初めの優しいメロディに戻り、深くうなずき合うような和音で終わった。

「真白、掌」

 と言われて反射的に手をかざすと、パチン、と小さな手がそこに一瞬重なった。先輩は楽しげに笑って去り、あとには自分と、座り手のいなくなった椅子が残された。

「……妖精みたいな人だな」

 妖精との距離感を測りかねていると人に相談したら、頭がおかしくなったと思われるかもしれない。人間との距離感もよくわかっていない高校一年生が。


***


 音楽の先生が「これ、誰かの忘れ物?」と古びた楽譜をかかげたのは、五時間目の授業のとき。確認を取るのはうちのクラスが最後らしく、誰も申し出なかったので処分されることになった。

「先生! それなら私ほしいです、ください!」

 とまあそんな経緯で手に入れた楽譜には、イタリア語で「もう一度これが聞けたならなあ」という嘆きが書かれていて、それなら聞かせてやろうじゃないと音楽室に乗り込みかけたところで一人じゃ弾けない連弾曲だと気づいて、しかし運のいいことに部活の後輩がちょうど音楽室でヴィヴァルディを弾いていたのだった。

「すごいね、真白。ピアノ弾けるんだ。それじゃあこれも弾ける?」

「連弾じゃないですか」

 ひるんだような顔をしたのは一瞬で、いざ弾き始めると初見の楽譜を難なく弾いて行くのだから驚いた。あっという間に曲の終わりに到達し、私は大喜びで思わずハイタッチをせがんだ。

 音楽室を出て日の光の下、楽譜を見返してみる。イタリア語でつづられた嘆きの言葉は、

 ――ありがとう。

 という短い言葉に変わっていた。


(2013/7)

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