第8話 リツの選択

空が割れた。

真っ二つに裂けた空の隙間から、墨を流したような闇が溢れ出していた。リツは息を飲んだ。その闇は、彼女たちが旅してきた異世界の土地を少しずつ飲み込んでいた。

「いよいよ、来てしまったんだね」

リツは震える声でつぶやいた。いえぞうが彼女の背中を包むように壁を寄せてきた。古い木の香りが、少しだけ彼女の恐怖を和らげる。

「リツちゃん、怖くないよ。わたしがついてるから」

いえぞうの声は、まるで祖母の声と母の声が重なったように聞こえた。懐かしい温もりがその言葉には含まれていた。しかし今、それは彼女の心を余計に苦しめた。

旅の仲間たちが顔を見合わせる。動物の姿をした「門番」のカラスのクロウ、「水の精霊」アクアティカ、そして異世界で出会った少年ルナ。彼らはリツといえぞうと共に、異世界の謎を解き明かしてきた。

「長老の言っていた『世界の裂け目』だ」クロウが羽を震わせながら言った。「このままでは、両方の世界が消えてしまう」

リツは拳を握りしめた。旅の終わりに彼らが見つけた真実。この異世界と元の世界を繋ぎとめているのは、いえぞうに宿る「家族の記憶」だということ。そして、世界の崩壊を止めるためには、その記憶をすべて手放さなければならないということ。

「そうすれば、リツちゃんたちの世界に戻れる」長老は言った。「でも、いえぞうに宿る記憶はすべて消えてしまう。そして、いえぞうは...もう二度と話すことはできなくなる」

リツの目に涙が溢れた。いえぞうに宿る記憶。それは彼女の父と母の笑顔だ。祖母の温かい手のぬくもりだ。家族との幸せな時間のすべてだ。それを手放すということは...

「わたし...できない」リツは泣きながら言った。「いえぞう、お父さんとお母さんの思い出、おばあちゃんの声...全部なくなっちゃうなんて...」

「リツちゃん」いえぞうがやさしく言った。「大丈夫だよ。これはね、わたしの決めたことなんだから」

リツは顔を上げた。いえぞうの壁には、これまで見たことのない複雑な模様が浮かび上がっていた。まるで家の記憶そのものが表面に浮かび上がったかのようだった。

「家族の記憶は、ずっとリツちゃんを守るためにあったんだよ」いえぞうは続けた。「リツちゃんが幸せになれるなら、わたしはそれでいい」

「でも...」

「一緒に冒険できて、楽しかった」いえぞうの声が少し震えた。「リツちゃんがこんなに強くなって、友達もできて...わたし、とっても嬉しいよ」

空からの闇がさらに広がり、地面を侵食し始めた。時間がなかった。

ルナが前に出た。「リツ、決めなきゃ。このままじゃ、両方の世界が消えてしまう」

アクアティカも水の姿を揺らしながら言った。「あなたの選択を、わたしたちは尊重するわ」

リツは拳を握りしめた。涙が頬を伝う。

「わかった...」

彼女は決断した。世界を救うため、彼女の記憶の中にだけ家族を生かし続けるために。


古い祠に導かれたリツたちは、世界の中心とされる「記憶の泉」の前に立っていた。泉の水面には、彼女の知る世界と異世界の映像が交互に映し出されていた。

「ここで儀式を行うんだ」クロウが説明した。「いえぞうに宿る記憶をすべて泉に明け渡せば、世界のバランスが戻る」

リツはうなずいた。彼女の両手は震えていた。

「始めよう」

リツは泉の前に立ち、いえぞうと向き合った。儀式の言葉を唱えると、いえぞうから光が漏れ始めた。それは金色の糸のように空中を舞い、一本、また一本と泉へと吸い込まれていく。

それぞれの光は、リツの記憶だった。

父が彼女を肩車した思い出。 母が作ってくれた味噌汁の香り。 祖母と餅つきをした冬の日。 初めて自分の部屋をもらえた嬉しさ。

一つ一つの記憶が光となって泉に吸い込まれるたび、いえぞうの姿が少しずつ透明になっていった。

「リツちゃん...」いえぞうの声が弱々しくなった。「最後に言わせて...あなたがうちの子で...よかった...」

その言葉に、リツの心が砕けた。

「いや...やっぱりダメだ!」

彼女は儀式を中断しようとした。しかし、もう遅かった。光の糸は勢いを増し、いえぞうから記憶が流れ出ていく。

「続けなきゃ!」ルナが叫んだ。「世界が...!」

空の亀裂が広がり、地面が揺れ始めた。リツは膝をつき、泣き崩れた。

「でも...家族の記憶がなくなってしまうなら...わたしは...」

その時だった。

泉の中から、不思議な声が響いてきた。それは複数の声が重なったような、しかし一つの意思を持ったような声だった。

「記憶は消えない。形を変えるだけ」

リツは顔を上げた。泉の水面に映る自分の姿を見つめる。そこには彼女だけでなく、亡き父と母、そして祖母の姿も映っていた。

「記憶は誰かに語り継がれることで生き続ける」泉の声が続いた。「大切なのは、形ではない。心だ」

その瞬間、リツの胸に暖かい光が灯った。

「そうか...」

彼女は立ち上がった。涙を拭い、決意の表情を浮かべる。

「家族の記憶は...わたしの中にある」

リツは両手を広げ、高らかに宣言した。

「思い出を語り合う限り、家族は消えない!」

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