第2話 家族の記憶で戦う

雨上がりの空気がひんやりと肌を撫でる朝だった。リツは縁側に腰掛け、庭の変貌を眺めていた。昨日まで祖母とリツが住んでいた古びた家は、一晩の雷で異世界に転移してしまったのだ。いつもの庭の代わりに、幻想的な風景が広がっている。銀色に輝く草木と、時折揺らめく光の粒子。風の音が優しく囁き、どこか懐かしい気配がある。


「おはよう、リツ。よく眠れたか?」


壁から柔らかな声が聞こえてきた。それは「いえぞう」の声。リツの祖先が百年の間に残した思い出と感情が宿り、意識を持った家だ。

「うん…でも、おばあちゃんがいなくて寂しい」リツは膝を抱えて言った。

「わしはここにおるよ」突然、祖母の声がいえぞうの中から響いた。「家の中に残っとる思い出の中にな」

リツは驚いて立ち上がる。「おばあちゃん?どこ?」

「家の記憶の中じゃよ。心配せんでも、あんたは一人じゃない」祖母の声は穏やかだったが、次第に薄れて消えていった。

「おばあちゃんの声が…」リツは天井を見上げた。

いえぞうが柱をきしませた。「祖母さんの思い出も、わたしの一部になっているんだ。でも何度も呼び出すと薄れてしまう。大切に使おう」

リツは頷き、立ち上がった。「じゃあ、この世界のこと、もっと知りたい」


異世界での二日目。リツといえぞうは周囲を探索することにした。

家の周りには不思議な生き物たちが住んでいた。透き通った羽根を持つ小さな妖精たちや、石のように静かに佇む精霊たち。彼らは人間の家が突然現れたことに驚き、警戒していた。

「あの子、迷子みたい」リツは庭の端で震えている小さな光の玉に気づいた。近づくと、それは子供の姿をした風の精霊だった。

「大丈夫?」リツが声をかけると、精霊は怯えて後ずさった。

「ママ…ママがいない…」精霊は泣きそうな声で言った。

リツは自分と重なるものを感じた。幼い頃、両親を亡くした自分も同じ気持ちだったから。

「いえぞう、何か助けられることある?」リツは家に尋ねた。

「庭のブランコがあるじゃろう?あそこにはリツの笑い声が残っている。幸せな記憶の場所だ」

リツはブランコへ行き、精霊を連れていった。古びたブランコは異世界でも揺れていた。リツが座ると、ブランコから柔らかな光が放たれ、幼いリツの笑い声が空気中に響きわたった。

「ここで、遊ぼう?」リツは精霊に手を差し伸べた。

子供精霊は最初は躊躇ったが、やがて笑い声に導かれるように近づいてきた。二人でブランコに乗ると、不思議なことに周囲が七色の光に包まれた。

「わぁ…きれい」精霊は初めて微笑んだ。

「家族の思い出は、魔法になるんだ」いえぞうが説明した。「リツの笑顔は、この家の宝物だからね」

光の中から、風の精霊の親が現れた。「ありがとう、人間の子。あなたの記憶の光が我が子を導いてくれた」

子供精霊は親と再会し、風に乗って去っていった。

リツはブランコから立ち上がる。「いえぞう、この世界ではどうして家族の記憶が魔法になるの?」

「この世界は『記憶の谷間』と呼ばれる場所。思い出が形となり、感情が力を持つ。特に、強い結びつきのある家族の記憶は大きな力を持つんだ」

その夜、リツは窓辺で星を見ていた。異世界の星座は地球とは違っていた。

「寝るぞい」いえぞうの柱がきしみながら言った。

リツが布団に入ると、壁から母の子守唄が静かに流れ始めた。「おやすみ、いえぞう」

「おやすみ、リツ」


数日が過ぎ、リツといえぞうは徐々にこの世界に適応していった。しかし、平和な日々は長く続かなかった。

ある朝、重い足音と共に、地面が揺れ始めた。

「リツ、危ない!」いえぞうの警告に、リツは飛び起きた。

窓の外を見ると、巨大な影が近づいていた。それは「忘却の獣」と呼ばれる存在。記憶を食らい、思い出を消し去る恐ろしい怪物だった。

「忘却の獣が家に近づいてきている!」いえぞうが叫んだ。「ここに来れば、家族の記憶を全て食べてしまう!」

「どうすればいいの?」リツは震える声で尋ねた。

「この家にある記憶を使って、立ち向かうしかない」

リツは必死に考えた。「押し入れ!祖父ちゃんが隠れて泣いていたって、おばあちゃんが言ってた!」

リツは二階の押し入れへ駆け上がった。狭い空間に入ると、そこには独特の静けさがあった。

「祖父ちゃんの悲しみが残ってる場所…」リツは押し入れの壁に手を当てた。

すると、壁が青白く光り始め、深い悲しみがリツの胸に広がった。祖父の若い頃の姿が幻のように現れた。戦争で友人を失い、誰にも見せずに泣いていた記憶。

「この悲しみ…使い方がわからない」リツは涙を流した。

いえぞうの声が響いた。「悲しみは受け止めるためにある。押し入れを『封印の間』にしよう」

リツは押し入れの扉を大きく開け、外に向かって叫んだ。「ここにおいで!悲しみを受け止める場所だよ!」

忘却の獣が家に迫る。リツは怖かったが、祖父の悲しみを感じながら立ち向かった。

獣が近づくと、押し入れから青い光が放たれ、周囲に広がった。それは「悲しみの結界」。獣が光に触れると、その動きが鈍くなった。

「祖父ちゃんの悲しみが…獣の力を吸収している!」

獣は苦しそうに唸り、次第に小さくなっていった。やがて、子猫ほどの大きさになると、もはや脅威ではなくなった。

「忘却の獣は他者の記憶を食べることでしか生きられないんだ」

いえぞうが説明した。「でも、悲しみを受け止める祖父の記憶は、逆に獣の力を吸収してしまった」

小さくなった獣はリツを見上げた。その目には恐れではなく、何かを求める光があった。

「この子も寂しかったのかな」リツは静かに言った。「誰かの記憶にしがみついて生きるなんて」

リツは手を差し伸べ、小さくなった獣の頭を撫でた。獣は警戒しつつも、その手に頭を寄せた。

「いえぞう、この子を追い払わなくていい?もう危なくないよ」

「リツ次第じゃ。でも気をつけるんじゃぞ」

リツは獣に微笑みかけた。「私たちの記憶を食べちゃだめだよ。でも、一緒に新しい思い出を作るのはいいかな」

小さな忘却の獣は、リツの足元で丸くなった。もう誰の記憶も奪わない約束をしたかのように。

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