家ごと転生しました 〜この家、しゃべります〜

すぎやま よういち

第1話 しゃべる家と不思議な森

空が唸った。

稲光が闇を引き裂き、雷鳴が山々を震わせた。古民家の窓からは、墨を流したような黒雲が見えた。


「リツちゃん、雨戸、全部閉めたかい?」


祖母の声が二階から降りてくる。十二歳のリツは縁側から身を乗り出し、雷雨の匂いを嗅いだ。湿った土の匂い。空気が重く、肌にまとわりついている。


「うん、もう終わったよ、おばあちゃん」


リツは最後の雨戸を閉めると、古い板の間を裸足で駆け抜けた。築百年を超える家は、一歩踏むたびに微かな音を立てる。キュッ、キュッと甘えるような音だ。

この家には、リツと祖母しか住んでいない。両親は彼女が五歳のときに事故で亡くなった。それから七年、リツは祖母と二人、山の麓のこの古民家で暮らしてきた。

学校では明るく振る舞うリツだが、心の奥底には、また大切な人を失うかもしれないという不安があった。だから誰かと深く関わることを、どこかで避けていた。


「おばあちゃん、晩ご飯できたよ」


リツは階段に向かって声をかけた。しかし返事はない。


「おばあちゃん?」


もう一度呼びかけたが、静寂が答えるだけだ。不安になったリツは、階段を駆け上がった。

祖母の部屋の前で立ち止まる。ふすまの向こうから、祖母の寝息が聞こえてきた。ほっとして、そっとふすまを開けると、祖母は布団の上で穏やかに眠っていた。


「疲れてたんだね……」


リツはそっとふすまを閉めた。近頃、祖母は疲れやすくなっていた。八十を過ぎた体には、家事も重労働だ。

一人で夕食を食べたリツは、食器を洗い、自分の部屋に戻った。窓の外では、雷雨がさらに激しさを増していた。


夜中、リツは奇妙な揺れで目を覚ました。

最初は地震かと思った。だが、これは地震ではない。まるで船に乗っているような、ゆったりとした揺れだ。

「おばあちゃん!」

リツは飛び起きて廊下に飛び出した。真っ暗な中、手探りで祖母の部屋に向かう。

しかし、次の瞬間、家全体が大きく傾いた。リツは壁にぶつかり、床に投げ出された。耳をつんざくような轟音。閃光。それから——静寂。

どれくらいの時間が経っただろう。

リツがゆっくりと目を開けると、窓から朝日が差し込んでいた。頭がズキズキする。体中が痛い。

「おばあちゃん……」

リツは這うようにして立ち上がった。祖母の部屋に急ぐ。だが、ふすまを開けても、祖母の姿はなかった。布団は畳まれ、部屋は整然としていた。まるで、誰かが片付けたかのように。


「おばあちゃん!どこにいるの?」


家中を探しても、祖母は見つからない。

不安と混乱の中、リツは玄関へと走った。外に出れば、きっと村の誰かが助けてくれる——


そう思って玄関の戸を開けた瞬間、リツは言葉を失った。

村はなかった。山もなかった。見知った風景は一つもなかった。

目の前に広がっていたのは、青く輝く草原と、見たこともない色彩の樹木が生い茂る不思議な森だった。空には三つの月が浮かんでいる。


「ここ……どこ?」


リツの呟きが風に消えた。

「大丈夫だよ、リツちゃん」

突然、声が響いた。リツは驚いて振り返った。しかし、そこには誰もいない。

「私はここにいるよ」

声は、まるで空気から湧き出るように、家の中から聞こえていた。

「だ、誰……?」

「私だよ。いえぞう」

リツは混乱して、壁を見つめた。

「いえ……ぞう?」

「そう、リツちゃんが生まれてからずっと見守ってきた、この家だよ」

壁がリツに語りかけている——そんな馬鹿なことがあるだろうか。リツは頭を振った。きっと夢に違いない。

「夢じゃないよ、リツちゃん」

まるで心を読むかのように、声が続いた。

「昨夜の嵐で、私たちは異世界に来てしまったんだ。ここは『記憶の森』っていう場所だよ」

「異世界?記憶の森?」リツは混乱を隠せなかった。

「おばあちゃんは?おばあちゃんはどこ?」

家の中に、微かなため息のような音が響いた。

「おばあさまの声は、今も私の中にあるよ。でも姿は……見えない」

「どういうこと?」リツの目に涙が浮かんだ。

「落ち着いて、リツちゃん」壁の木目が優しく蠢いた。「私がすべて説明するよ。まずは朝ごはんを食べない?きっと腹ペコでしょ」

言われてみれば、お腹が空いていた。混乱で気づかなかっただけだ。

「キッチンに行ってごらん。お米が炊けてるはずだよ」

半信半疑で台所に行くと、確かに炊飯器からご飯の香りがしていた。火を使った形跡はないのに、湯気が立っている。

「どうやって……?」

「説明したとおり、私は『いえぞう』。この家そのものが私なんだ。家族の思い出と感情が集まって、魂を持ったんだよ」

ご飯を食べながら、リツは不思議な話を聞いた。

いえぞうによれば、昨夜の雷は普通の雷ではなく、「世界の裂け目」だったという。その裂け目を通って、家ごとこの異世界に飛ばされたのだ。

「でも、なんで家が急に話せるようになったの?」

「この世界に来たから」いえぞうは答えた。「ここは『記憶の森』。思い出や感情が形を持つ場所なんだ。この家に刻まれた百年分の記憶と感情が、私という意識になった」

「じゃあ、おばあちゃんは?」

「おばあさまの声は、私の中にあるよ。リツちゃんのお父さんやお母さんの記憶も、私の中にある。でも……」

いえぞうは言葉を選んでいるようだった。

「でも、体はない。記憶と感情だけが、私の中に残っているんだ」

リツは箸を置いた。頭では理解できても、感情が追いつかない。たった一人の家族だった祖母が、もういないなんて。

「リツちゃん」いえぞうの声が柔らかくなった。「時々、おばあさまの声が聞こえるかもしれないよ。私を通して話しかけてくることがあるから」

その言葉に、リツの心に一筋の光が差した。

「本当?おばあちゃんの声が聞こえるの?」

「ええ、きっと——」

その時、突然、家全体が震えた。

「い、いえぞう?」

「危ない!外に何かいる!」

リツは恐る恐る窓に近づいた。そして、息を呑んだ。

窓の外、庭には巨大な影が動いていた。獣のような形だが、どんな動物にも似ていない。体長は優に五メートルはある。青い体毛に覆われ、背中には鋭いトゲが並んでいる。最も恐ろしいのは、その顔だ。人間のような目と口を持ちながら、全体的には狼のような顔立ち。

その生き物が、じっと家を見つめていた。

「あれは何?」リツの声が震えた。

「クネンボという魔物だ」いえぞうが低い声で答えた。「危険じゃない……はずだけど、刺激しない方がいい」

しかし、すでに遅かった。クネンボは家に気づき、ゆっくりと近づいてきた。

「どうしよう……」リツは後ずさった。

「大丈夫。私がリツちゃんを守る」

いえぞうの声に変化があった。より深く、力強い声だ。

次の瞬間、家が変形し始めた。壁が厚くなり、窓が小さくなる。まるで身を守るように、家全体が姿を変えていった。

「うわっ!」

リツは驚いて床に座り込んだ。足元の板の間が蠢き、壁が呼吸するように膨らんだり縮んだりしている。

「リツちゃん、大丈夫?」いえぞうが尋ねた。

「う、うん……でも、家がこんなことできるなんて……」

「私は普通の家じゃないよ。この世界では、記憶が力になる」

外では、クネンボが不安げに唸りながら、家の周りをぐるぐると回っていた。時々、鼻を鳴らして匂いを嗅いでいる。

「怖い……」リツは膝を抱えた。

「リツちゃん」いえぞうの声が、今度は不思議なほど祖母に似ていた。「台所に行って、ごはんの蓋を開けてごらん」

「え?今?」

「信じて」

リツは震える足で台所に向かった。炊飯器の蓋を開けると、湯気とともに、懐かしい香りが立ち上った。

「この匂い……」

「そう、リツちゃんのお母さんが作ってくれた味噌汁の匂い」いえぞうが優しく言った。「お母さんの記憶から再現したんだ」

香りが家中に広がると、不思議なことが起こった。家の周りに、薄い光のベールのようなものが形成されていく。まるで結界のように。

「これが、家族の記憶から生まれる魔法だよ」いえぞうが説明した。「お母さんの愛情が、私たちを守ってくれる」

外では、クネンボが立ち止まった。鼻を鳴らし、香りを嗅いでいる。最初は警戒していたが、次第に表情が和らいでいく。まるで、懐かしい記憶を思い出したかのように。

「あの子も、誰かの料理の香りを覚えているのかな」いえぞうがつぶやいた。

クネンボは、もはや威嚇する素振りを見せなかった。代わりに、家の前でくるりと体を丸め、まるで犬のように横たわった。

「仲良くなれたみたい」リツは少し安心した。

「そうみたいだね。でも、この世界にはもっと危険な生き物もいるはず。家の中にいれば安全だけど、いつまでもここにいるわけにはいかない」

「どうして?」

「私たちがここに来たのは偶然じゃないと思うんだ」いえぞうは慎重に言葉を選んだ。「この世界で、私たちがやるべきことがあるんじゃないかな」

リツは窓から外を見た。森の奥には、光り輝く塔のようなものが見える。とても遠いが、不思議と目を引く輝きだ。

「あれは何?」

「さあ……」いえぞうも見ているようだった。「でもきっと、私たちが向かうべき場所じゃないかな」

「でも、どうやって?歩いていくの?」

「心配しないで」いえぞうが少し得意げに言った。「私は動けるんだよ」

「え?」

「外に出てごらん。怖くないよ。あのクネンボは味方になったみたいだから」

恐る恐る玄関から出たリツは、信じられない光景を目にした。

家が、少しずつ地面から浮き上がっていた。土台の下に、何本もの木の根のような足が生えているのだ。

「すごい……」

「これが私の本当の姿」いえぞうが誇らしげに言った。「ねえ、リツちゃん。冒険に出かけよう。きっと、おばあさまや、お父さん、お母さんの記憶を、もっと取り戻せるはずだから」

リツは深呼吸した。怖いけれど、不思議と胸の奥に勇気が湧いてくる。今まで一人だと思っていたけれど、実は違った。家族の記憶が、この家の中に生きている。

「うん、行こう!」

リツが答えると、いえぞうはゆっくりと動き始めた。クネンボも立ち上がり、まるで護衛のように家の横を歩き始める。

こうして、リツといえぞうの異世界での冒険が始まった。


光り輝く塔に向かって歩き始めて間もなく、リツたちは森の中に入っていった。

ここの木々は、地球の森とは全く違っていた。幹は淡い紫色で、葉は青や緑、時には金色に輝いている。地面には蛍光のようなキノコが生え、足音に反応して光を放つ。空気も違う。甘く、どこか懐かしい香りがする。

「この森、きれい……」リツは見上げた木々に見とれた。

「記憶の森だからね」いえぞうが答えた。「ここの植物は、思い出の断片から生まれているんだよ」

「思い出から木が生えるの?」

「そう。嬉しい記憶からは明るい色の木が、悲しい記憶からは少し暗い色の木が育つんだ」

リツは周囲を見回した。確かに木々の色は様々だ。中には、幹の半分が明るく、もう半分が暗い不思議な木もある。

「じゃあ、いろんな人の記憶がここにあるってこと?」

「そうみたいだね。でも、誰の記憶かは分からない」

家はゆっくりと進んでいく。足元の根のような足が、器用に障害物をよけながら歩を進める。クネンボも横について歩いている。時々、鼻を鳴らして周囲の匂いを確かめているようだ。

「クネンボ、ずっとついてくるの?」リツは青い獣を見た。

「きっと、リツちゃんのお母さんの味噌汁の匂いが気に入ったんだよ」いえぞうが笑うように言った。

森の中を歩き続けると、道は次第に狭くなっていった。木々が密集し、時には通り抜けるのが難しいほどだ。

「大丈夫かな……」

リツが心配していると、いえぞうが突然形を変え始めた。家全体が細長くなり、まるで船のような形になっていく。

「わっ!」

リツは驚いて床に座り込んだ。家の中の家具も変形し、壁も動いている。恐ろしいはずなのに、不思議と温かい感覚があった。まるで、大きな生き物に抱きかかえられているような安心感。

「これなら通れるよ」いえぞうが言った。

確かに、細長くなったおかげで、木々の間を縫うように進めるようになった。クネンボも、その変化に驚いた様子もなく、ついてきている。

「いえぞう、すごいね。どんな形にでもなれるの?」

「うーん、記憶にある形なら、たいていなれるよ。船や車、時には鳥の形にもなれるかも」

「鳥になれたら、飛べるの?」

「多分……でも、まだ試したことないんだ」

森の中を進むにつれ、周囲の景色が変わっていった。木々の間から、紫色の光が差し込んでいる。まるで、夕暮れのような雰囲気だが、空を見上げると、まだ三つの月が浮かんでいた。

「この世界、時間の流れも違うのかな」リツはつぶやいた。

「かもしれないね。でも、リツちゃんはお腹空いてない?もう何時間も歩いてるよ」

言われてみれば、確かにお腹が空いていた。朝ごはんを食べてから、かなり時間が経っている。

「そういえば、空いてきた……」

「じゃあ、少し休憩しよう」

いえぞうは小さな空き地で立ち止まった。クネンボも、その場に腰を下ろした。

「何か食べるものあるかな」リツは周りを見回した。

「心配しないで」いえぞうの声が優しい。「私の中に、まだ食べ物があるよ」

家の台所では、不思議なことが起きていた。冷蔵庫が光り、中から懐かしい料理の匂いがしてきた。リツが扉を開けると、彼女の好きだった母の料理が並んでいた。

「これ、ママの作ったハンバーグ!」

「そう、リツちゃんのお母さんの記憶から再現したんだ」いえぞうが優しく言った。「でも、これは特別な『思い出ごはん』。この世界の生き物を癒す力があるんだよ」

リツは感動して、料理に手を伸ばした。温かい。本物のハンバーグだ。

「クネンボにも、少しあげていい?」

「もちろん」

リツは、恐る恐るクネンボに近づいた。青い獣は、最初は警戒していたが、ハンバーグの匂いを嗅ぐと、尻尾を振り始めた。

「はい、どうぞ」

リツがハンバーグを差し出すと、クネンボは丁寧に受け取って食べた。その表情が、急に柔らかくなる。目には、涙のようなものさえ浮かんでいた。

「どうしたんだろう」

「きっと、クネンボも誰かの料理を思い出したんだよ」いえぞうが説明した。「思い出ごはんは、食べた者の大切な記憶を呼び覚ますんだ」

リツも自分のハンバーグを食べ始めた。一口食べると、母の優しい笑顔が鮮明に思い浮かんだ。母が台所で料理している姿。父が仕事から帰ってきて、「いい匂いだな」と言っている声。幸せだった日々の記憶が、まるで昨日のことのように蘇ってくる。

「ママ……パパ……」

リツの頬を、涙が伝った。

「大丈夫、リツちゃん」いえぞうの声が、まるで母のように優しかった。「彼らの記憶は、いつも私の中にあるよ」

食事を終えると、不思議とリツの体に力が湧いてきた。単なる栄養補給以上の何かを、この「思い出ごはん」から得たようだ。

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