13話

 蝉の声が遠くに響く午後、澪が保護された翌日のことだった。


 児童相談所の会議室には、澪の祖母である桐谷百合江と、職員の岸本奈々が並んで座っていた。窓から差し込む光は強かったが、室内の空気は重く、言葉のない時間が流れていた。


 奈々は手元の資料を一枚めくり、静かに言った。


「……お話しにくいこととは承知していますが、澪さんのご家庭内での生活実態について、もう一度、確認させてください」


 百合江は、小さく頷いた。指先がかすかに震えていたが、その眼差しはまっすぐだった。


「私の息子──澪の父・正嗣は、外では立派な父親を演じてきました。けれど家の中では……あの子に完璧を求め続けたんです。成績も態度も、言葉の一つひとつも」


 百合江の声がわずかに掠れる。


「怒鳴る声は日常。睨みつける目、張りつめた空気……。殴られたりはしません。でもね……あれは、言葉の暴力です。静かな、けれど確実に心を蝕む支配でした」


 奈々は一言も挟まず、黙って耳を傾けていた。


「芙美子──あの子の母親も……見て見ぬふりでした。“お父さんの言うことを聞いていれば大丈夫”って……」


 一瞬、百合江の声が詰まった。


「私が異変に気づいたのは、澪が『おばあちゃんのところに行きたい』って、ぽつりと言った時です。目に生気がなかった……。それでも私は……すぐには動けなかった。『孫の家庭に口出すなんて』と、遠慮してしまったんです」


 その悔いが、言葉の端ににじんでいた。


 奈々は静かに口を開いた。


「ありがとうございます、百合江さん。……本日、この証言と過去の相談記録、そして今回の保護状況をもとに、澪さんを一時保護措置として正式に施設へ移す決定が下されました」


 百合江は、ゆっくりと息を吐いた。


「……あの子の安全のためなら、当然の判断です。でも……あの子の父と母は、きっと猛反発するでしょう」


 奈々は頷いた。


「わかっています。ですが、これは法律に基づいた手続きです。私たちは家庭ではなく、子どもを最優先に守る立場にあります」


 * * *


 その日の夕方。奈々は澪の両親──桐谷正嗣と芙美子に向き合っていた。


 応接室には、重々しい空気が漂っていた。正嗣はスーツ姿のまま腕を組み、芙美子は隣で何も言わずに俯いている。


「……うちの澪が、一時保護だと?」


 正嗣の声には、明確な怒りと侮蔑が混ざっていた。


「失踪したのは本人の意思でしょう。どうせ、反抗期の衝動的な行動だ。甘やかして受け入れていたら、ますます子どもがつけ上がるだけだ」


 奈々は、静かな口調で言葉を返した。


「今回の件は、衝動や一時の反抗ではありません。澪さんは、過度なストレスによって呼吸困難を起こし、意識を失う寸前の状態で発見されました。医師の診断では、トラウマ性の過呼吸と明記されています」


「ふざけるな……!」


 正嗣が机を拳で叩いた。だが、奈々の表情は一切揺るがなかった。


「桐谷さん。あなた方ご夫婦には、澪さんの保護者としての義務と責任があります。同時に、その立場において子どもの安全を著しく損なう行為が認められた場合、我々は保護権限を行使することができます」


「……脅しか?」


「いえ。これは、法律です」


 奈々の眼差しは強く、だが決して怒りに任せるものではなかった。そこにあるのは、職務と覚悟だった。


「百合江さんからの証言に加えて、近隣住民からの情報提供も複数寄せられています。澪さんが学校の成績や生活態度について、異常なまでに怯えていたという報告もあります」


 正嗣は声を失った。芙美子は、その横でそっと目を伏せた。


「……私は……」


 初めて、芙美子が小さく呟いた。


「私は、何も……できなかった……。澪の顔を見るたびに……自分が母親であることが、恥ずかしかった……」


 その言葉に、正嗣が睨みを向ける。しかし芙美子は、その視線から目を逸らさなかった。


 奈々は静かに続けた。


「今後、澪さんは一時保護施設での生活を経て、児童相談所および家庭裁判所の判断のもと、新たな養育環境へ移行する予定です」


 正嗣は歯を食いしばり、呻くように言った。


「……家族の絆を、他人が壊していいと思ってるのか……」


 奈々の返答は短かった。


「絆は、守るものであって、壊すものではありません。……守られなかったから、私たちが動いているんです」

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きみが消えた夏、僕はようやく恋を知った 早乙女 ゆうき @leo1610

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