12話

 時は遡り、澪が家から逃げ出し倒れていた頃.....


 その夜、佐原詩織は珍しく早めに仕事を終え、散歩がてら町内を歩いていた。


 八月の空気は、日中の熱をまだ引きずっていたが、夜の風に揺れる街路樹が、ようやくひと息つける涼しさをもたらしていた。


 ──このあたりも、少しずつ変わっていく。


 詩織はふと足を止め、見慣れた公園の前で小さく息をついた。だがそのとき、何かが視界の端をかすめた。


 草の影、歩道の端。誰かが、倒れている。


「……!」


 詩織は反射的に駆け寄った。


 少女だった。まだ十代の、制服姿。肩に掛けたリュックがずり落ち、細い肩が波打つように上下している。


「……苦しんでる……!」


 咄嗟にその体を抱き起こすと、彼女の呼吸が異常に早く、浅く、胸の奥で空気がつかえているのがわかった。過呼吸──それは詩織の経験から、すぐに判断がついた。


「大丈夫。ゆっくりでいいから。私の声、聞こえる?」


 少女は答えなかった。目は虚ろで、身体が震えている。


 詩織はそっと少女の背をさすりながら、落ちていたリュックに目をやった。ジッパーが半分開いたままになっていたため、中を確認する。


 財布、小さなポーチ、そして──一枚の写真。


 それは、年老いた女性と、この少女が並んで微笑む写真だった。


 詩織はその女性を知っていた。


「……これ、百合江先生……?」


 かつて、自身が教員を目指していたころ。教職課程の現場研修でお世話になった教育実習先の恩師。もう何年も会っていないが、その目元と笑いじわは、忘れることのできないものだった。


 少女の顔を見つめる。どこか、似ている。


 ──まさか、この子が。


 詩織はすぐにスマートフォンを取り出し、登録された番号を辿るようにして震える指で発信した。


「……お願い、出て……百合江先生……!」


 数秒後、受話器の向こうから懐かしい声が響いた。


『はい、桐谷です──』


「先生! 私です、佐原詩織です。あの……今、そちらのお孫さん……澪さんらしき子を……!」


 詩織の声に、百合江は一瞬、無言になった。


『……澪が、何かあったの!?』


「はい、たぶん……でも今、呼吸が苦しくて、過呼吸みたいな状態で……すぐに車で病院に連れて行きます!」


『お願い。私もすぐ向かう。あの子を……どうか、お願い……』


 電話を切ると、詩織はすぐに近くの交番へ駆け込み、保護の手続きと救急搬送を手配した。


 * * *


 病院の処置室。酸素マスクをつけた少女は、安静を取り戻しつつあった。


 医師は「過度のストレスと身体的疲労が重なった結果の過呼吸発作」と診断し、数時間の安静の後、意識の回復を待つこととなった。


 詩織はその間も、澪のそばから離れなかった。手には、あのスケッチブックが握られている。


 ページをめくると、そこにはどこか懐かしい公園のベンチ、文芸部室のような教室の一角、小さな窓辺──少女が見ていた世界が、静かに描かれていた。


「……この子、本当に全部ひとりで……」


 そう呟いたとき、処置室の扉が開いた。


「詩織!」


 駆け込んできたのは、杖をついた年配の女性。やつれた表情の中にも、ひと目でそれとわかる強さがあった。


「先生……!」


「……この子は……澪、で間違いない……」


 百合江は少女の顔にそっと触れ、細い肩を撫でた。涙をこらえるようにして、言葉を続ける。


「ありがとう、詩織さん。本当に……よく見つけてくれたね……」


「いえ、偶然です。でも……偶然じゃなかったのかもしれません」


 二人はしばらく黙っていた。


 やがて、澪のまぶたがかすかに動いた。


「あ……」


 百合江が身を乗り出した。


「澪? わたしよ。おばあちゃんよ。わかる?」


 少女は、ぼんやりと目を開けた。けれど、焦点は定まらない。


「……だれ?」


 その言葉が落ちた瞬間、百合江の目から涙が溢れた。


 詩織はその肩に手を置きながら、言った。


「……大丈夫です。今は、名前も思い出せなくても、あなたの隣に、ちゃんといまを与える人がいます。わたしも……そのお手伝い、させてください」


 百合江は、小さく頷いた。


 少女はまだ疲れが抜けていないのか、再び眠ってしまった。


「この子の名前は……澪。でも、もし彼女が違う名を選んだとしても……私は、その子の味方でいるよ」


 詩織は、その言葉に応えるように静かに言った。


「わたしも、支えになります。彼女にとっての」

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