11話
「ここが、あなたの新しい居場所よ」
白衣の女性──児童相談所の職員である岸本奈々は、やわらかく微笑みながら、澪の背に手を添えた。
二人の目の前には、小さな建物が佇んでいた。鉄製の門には“児童保護一時施設・つばさの家”と刻まれた看板がある。塗装の剥げかけた外壁と、明るい色合いの花壇。そこには子どもたちの描いた絵が、掲示板に並んでいた。
澪は、何も言わずにその景色を見つめていた。いや、正確には見てはいたが、焦点が定まっていない。彼女の視線はどこかを通り抜け、現実の縁にかかっているようだった。
「大丈夫。無理に何かを思い出さなくていいの。いまは、ただここにいることだけで、充分なのよ」
奈々の声には、言い聞かせるような響きがあった。それは誰かへの許しであり、同時に自分への祈りでもあるかのように。
施設の中は、思ったよりも静かだった。無機質な事務的な匂いではなく、どこか子どもたちの生活の匂い──洗濯洗剤の香り、木製の床にしみ込んだ夏の風、遠くで誰かが笑う声──が混じっている。
廊下の奥から、がっしりした体格の男性が現れた。年のころは四十代半ば。作業着のようなラフな服装に、日焼けした腕が頼もしさを感じさせた。
「おー、来たな。待ってたぞ」
男性は笑った。口元には無精ひげ、けれど目は優しかった。
「赤松慶吾さん。こちらの施設の生活指導員で、子どもたちのお世話をしてくださっています」
奈々が紹介すると、赤松は片手をあげて言った。
「まあお世話っていうか、一緒に生きてる、って感じだな。よっ、よろしくな」
「……」
澪は、視線を床に落としたままだった。名前を呼ばれても、自分のことを話されていても、その事実が他人事のように感じられてしまう。
「そっか、まだ調子悪いのか。無理すんなよ。ここじゃ、何も無理しなくていいからさ」
赤松の言葉は、まるで空気に染み込むように、ゆっくりと澪の輪郭をなぞった。
それから、澪はひとつの部屋に案内された。6畳ほどの個室。シンプルなベッドと机、窓からは中庭が見える。誰かが植えたひまわりが、そよ風に揺れていた。
「気が向いたら、出てきてもいいからな。みんな優しいやつらばっかりだ」
赤松はそう言って、部屋をあとにした。
ドアが閉まる音。外から響く子どもたちの笑い声。それを聞きながら、澪はベッドの端に腰を下ろした。
──わたしは、誰?
その問いが、頭の中で何度も響く。
名前を与えられた。「澪」という名前。
でも、それが自分のものだという実感はなかった。ただ、その音が、どこかで聞いたことがあるような気がしただけだった。
「澪さん、ごはん、食べられそう?」
扉の向こうから、女性の優しい声がした。澪が顔を上げると、茶色いエプロンをつけた若い職員が、そっと覗き込んでいた。
「……少しだけ」
言葉は、自分の口から出たのに、どこか遠い場所で響いているようだった。
食堂では、数人の子どもたちが、輪になって食事をしていた。年齢はまちまちで、小学生から中学生くらいまで。澪が入ってくると、ひとりの男の子がじっとこちらを見た。
「ねえ、新しい子?」
小さな女の子が声をかけてきた。おさげ髪に、大きな瞳。無垢な好奇心と人懐っこさに満ちている。
「うん……たぶん」
「たぶん?」
「……ごめん、よくわからないの」
女の子は、少しだけ首をかしげてから、「そっか!」と笑った。
「じゃあ、いっぱい話そうね。あたし、ユウ!」
「……澪」
その名前を口にした瞬間、胸の奥に小さな波紋が走った。
ユウは嬉しそうに頷いて、澪の手を引いてテーブルに誘った。カレーの匂いが漂っていた。澪はスプーンを手に取る。一口、二口。味は、覚えていないけれど、温かかった。
食後、赤松が声をかけてきた。
「ちょっと外、散歩しようか。中庭、気持ちいいぞ」
澪は頷いて、靴を履いた。赤松の足音は大きく、でもその歩調は澪に合わせてゆっくりだった。
「お前さ、自分のこと思い出せなくても、べつに困らねぇんだよ」
「え……?」
「俺もな、昔、いろいろあってさ。あのとき全部忘れてぇって思ったことある。でも、忘れられなかった。だから逆に、忘れられるってのは……一種の才能かもしれねぇな」
「才能……」
「まあ、なんにせよ、ここにいる間はただの澪でいい。お前が桜でも楓でもナナでもよかったんだけどな、澪っての、いい名前だろ?」
「……うん」
言葉が胸に落ちた。初めて、自分が肯定された気がした。
赤松は、最後にぽつりと言った。
「この先、お前が何を思い出すか、わかんねぇ。でもな、どんな過去があったとしても、ここでのお前は守られてるってことだけは、信じてくれよな」
──その言葉が、澪の心に、そっと灯をともした。
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