10話

 夜がすっかり更けた頃、澪は静かに目を開けた。


 部屋の窓の外には、街灯の淡い光と虫の声が交錯し、どこか遠くで犬の鳴き声がかすかに聞こえた。隣室からは父のいびきが断続的に響いてくる。母の足音はない。きっと今日も、寝室の奥で静かに目を閉じているのだろう。


 澪は、息を殺して身体を起こす。あらかじめ準備していたリュックを背負い、引き出しに隠していた財布と、祖母からもらった小さなペンダントを胸元に押し当てた。


 音を立てないよう、そっと扉を開ける。


 ──ごめんね。お母さん。


 心の中でだけ呟く。けれど、その言葉に応える声など、最初から期待していなかった。


 玄関の鍵はすでに開けてある。抜き足差し足で靴を履き、扉を開けようとした、そのとき。


「どこに行くつもりだ?」


 ──声がした。


 低く、冷えた声が、すぐ背後から降ってきた。


 振り返ると、そこには父が立っていた。寝巻きのまま、腕を組み、瞳の奥に怒気を宿して。


「まさか、おまえ……逃げようとしてたのか?」


 澪は返事ができなかった。


 声が出ない。呼吸が浅くなる。喉の奥が急速に締まり、息が通らなくなる感覚。


「おい、黙ってないで答えろ!」


 怒鳴り声が夜を裂く。その声に身体が震える。脳裏に、過去の記憶が一斉に蘇ってきた。


 ダイニングでの睨みつける視線。成績表を破られた音。間違えた箸の持ち方を責められた晩ごはん。


「お父さんの言うことを聞いておきなさい」と呟くだけの母の横顔。


 すべてが、澪の中で逃げろと叫んでいた。


「やめて……来ないで」


「ふざけるな! 親に向かって──」


「いやっ!」


 澪は叫び声とともに、玄関を飛び出した。父の手が肩を掴もうとした瞬間、全身の力を振り絞って身をよじり、夜の路地へと駆け出した。


 道に飛び出した途端、街灯の明かりが眩しく目に刺さった。


 脇道へ、裏通りへ、ただひたすらに走った。誰もいない住宅街を、靴音だけが響いていく。


 途中、リュックがずり落ちそうになっても、気にする余裕はなかった。


「はっ……はっ……!」


 次第に呼吸が乱れ始める。視界が揺れる。心臓の鼓動が耳をつんざくほど響いてくる。足がもつれ、何かに躓いて転びそうになる。


「……っ、はぁ、はぁ……」


 もう、走れない。

 もう、逃げられない。

 息が……できない──。


 澪はその場に膝をついた。両手を地面につけ、頭を抱え込む。けれど、肺に空気が入ってこない。喉が締めつけられ、酸素が入るべき隙間が閉ざされたままだ。


「た、すけ……」


 声にならない声がこぼれる。視界が、暗くなっていく。


 そして、彼女は地面に崩れ落ちた。


 * * *


 静かな部屋だった。


 かすかに草の匂いが混じった風が、窓の隙間から吹き込んでいる。


 カーテンが揺れていた。


 澪は、ゆっくりと目を開けた。けれど、その目に映るものが、どこか知らない世界のように思えた。


 天井は白く、壁紙には小さな花の模様。カレンダーには見慣れない人の名前が書き込まれている。


「……どこ?」


 彼女の声は掠れていた。のどの奥が乾いて、身体が思うように動かない。


 カーテンの隙間から、やわらかな陽光が差し込んでいる。それが何月何日なのかさえ、彼女にはわからなかった。


「……あなた、目が覚めたのね」


 扉の方から、誰かの声がした。白衣の女性が、そっと近づいてくる。


「ここは大丈夫。もう怖くないわ」


 女性は、やさしく微笑んだ。


 けれど澪は、その人を知らなかった。いや、それ以前に──


「わたし……」


 自分の名前が、出てこなかった。


 頭の中に、空白が広がっていく。


 思い出そうとしても、思い出せない。


 昨日、誰と話していたのか。

 どんな学校に通っていたのか。

 家族が、いたのか──


「わたし……だれ……?」


 震える声が、空間に消えていく。


 その瞬間、女性の瞳がわずかに揺れた。


「大丈夫よ。名前は……澪。あなたの名前よ」


「……みお……?」


 その音だけが、心の奥に、ぽつんと落ちていった。

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