9話

 翌日の昼前、文芸部室には、夏の光がやわらかく差し込んでいた。窓の外では蝉の声が断続的に響き、扇風機の緩やかな回転音が部屋にゆるやかな時間を運んでいた。


 遼はいつもより少し早く部室に来ていた。澪からの「ちょっとだけ話せるかな」というメッセージが、心の奥をやさしく揺らしていたからだ。


 ノックの音もなく、静かに扉が開く。


「……こんにちは」


 その声に顔を上げると、そこには制服姿の澪がいた。肩まで伸びた黒髪が、光を透かしてきらめいている。彼女は、昨日よりも少しだけ笑っていた。


「やっぱり、いた」


「うん。なんとなく早く来たくなって。」


「ふふ……そんなに私と話したかったの?」


「まあ、ちょっとだけ」


 そんな軽口を交わせることに、遼はどこかほっとしていた。何かを抱えていそうな澪の表情に、不安を覚えていたのだ。でも今日の彼女は、穏やかに見えた。


 二人はいつものように並んで座る。机の上には、昨日のままのスケッチブックが置かれていた。


「……今日は、描いてみようかな」


 澪がそう言って、鉛筆を手に取る。遼は、その仕草を黙って見守った。


「ねえ、遼くん」


「うん?」


「ここって、なんでこんなに落ち着くんだろう」


「たぶん……音が少ないからじゃない? 人も来ないし。何かに邪魔されない時間って、貴重だと思う」


「そっか……」


 澪はふと、目を細めて笑った。その笑顔は、どこか懐かしくて、それでいて遠かった。


「もし、今この時間が、ずっと続いたらいいのにね」


「うん。……それは、思う」


 遼はそう答えながら、どこか胸の奥に棘が刺さったような違和感を覚えていた。


“ずっと続いたらいいのに”


 その言葉の裏に、何かがある気がした。


「……遼くん」


「うん?」


「わたしね、小さい頃から、いつもちゃんとしなきゃって思ってた」


「ちゃんと?」


「学校でも、家でも。誰かを怒らせないように、嫌われないように、間違えないように……。でも、本当は、わたし、全然ちゃんとなんかじゃなかった」


「澪……」


「だからね、あのとき、遼くんが「絵、好きなんだね」って言ってくれたとき、すごくびっくりしたの。誰かが、わたしの好きに気づいてくれたの、初めてだったから」


 遼は、その言葉を静かに受け止めるしかなかった。何もできなかった自分を、思い知らされるような気がして。


「わたしね、たぶん……遼くんのそばにいると、自分がちょっとだけ生きてていいって思えるの」


「……そんなこと、初めて聞いた」


「言わなかったからね。……言っちゃいけない気がしてたの」


「でも、いま言ってくれた」


「うん。だからね、今日、来てよかったって思ってるよ」


 その言葉に、遼は何も返せなかった。澪の言葉ひとつひとつが、胸の奥に沁みていくのがわかった。


 気がつけば、澪はスケッチブックに小さな絵を描いていた。


 それは、文芸部室の窓から見える、夏の木洩れ日だった。柔らかい影が差し込んで、机の上に淡い模様を落としていた。


「……ねえ、遼くん」


「ん?」


「この絵、欲しい?」


「え?」


「……あげる。わたしからの、プレゼント」


「……うれしいけど、どうしたの、急に」


「ううん、なんとなく。今日は、ちょっとだけ、そういう気分だったの」


 そう言って澪は、ページを破り、丁寧に四つ折りにして、遼の手にそっと握らせた。


 その温度が、いつもよりあたたかく感じられたのは、なぜだったのだろう。


「じゃあ、そろそろ帰るね」


「もう?」


「うん。……ちょっと、準備しなきゃいけないことがあって」


「そっか。また、来れる?」


「……うん、またね」


 言いながら、澪は扉の前でふり返った。そのとき、彼女の目が、ほんの一瞬だけ揺れた気がした。


「……遼くん、ありがとう」


「え?」


「ううん、こっちの話。じゃあね」


 そう言って、扉の向こうへと去っていった。


 遼は、その背中に「また明日」と声をかけようとして、やめた。


 なぜだか、今日の澪には、それが似合わないように思えたのだ。


 * * *


 帰宅した遼は、リュックからあのスケッチの絵を取り出していた。


 澪がくれた、夏の木洩れ日。その光景は、どこか現実よりも優しく、あたたかかった。


 ふと、遼は自分のノートを開いた。


 以前、澪に見せたあの詩の続きが、自然と浮かんできたのだ。


 青い風が、誰かの名前を連れてきた

 影ににじんだ、午後の木洩れ日

 それは、ぼくの知らないさよならだったのかもしれない


 ──まさか、そんなはずはない。


 遼はそう思いながら、窓の外を見つめた。


 けれど、どこか胸の奥で、小さな違和感が疼いていた。


 それが、最後の言葉だったのだと気づくのは、もっとずっと先のことになる。

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