8話

 夏の終わりが、まだ遠いと思っていた。でも、澪のなかでは、もう始まっていたのかもしれない。終わりへの歩みが。


 その日、遼は何も知らないまま、文芸部の部室で彼女を迎えた。


「……遼くん、今日も、いると思った」


 ドアの隙間から顔を覗かせた澪は、どこか眠たげな目をしていた。けれど、それ以上に、その眼差しの奥にある深さが気になった。


 まるで、何かを決めてきた人の目だった。


「うん。最近はここが、いちばん落ち着くから」


 そう返すと、澪はふっと微笑んだ。その笑みが、どこか切なげだった。


 部室の机に並んで座ると、澪は小さなスケッチブックを開いた。


 だが、今日は描きかけのままだった。鉛筆も手にしていない。


「……描かないの?」


 遼がそう尋ねると、澪は一瞬だけ言葉に詰まった。


 そして、ぽつりと呟いた。


「……今日は、描きたくない、かな」


 それが、彼女の心の奥に芽吹いた“別れの兆し”であると、遼はそのとき気づけなかった。


 しばらくの沈黙の後、澪は鞄からスマートフォンを取り出した。


 少し迷うように画面を開き、ある名前をタップした。

 ──祖母、百合江。


「……いま、電話してもいい?」


「もちろん。どうかしたの?」


 遼の問いには答えず、澪はスマートフォンを耳に当てた。


 数秒のコールのあと、電話が繋がる。


『……澪? どうしたん、こんな時間に』


「……ううん。ただ、声が聞きたくて」


 その声色は、いつになく幼い響きがあった。


 百合江の明るくも落ち着いた声が、スマホ越しにふわりと部屋に広がる。


『……しんどいこと、あったんか?』


「ううん、大丈夫。……でもね、おばあちゃん、わたし……」


 少しの沈黙。そして、澪は静かに続けた。


「もう、決めたの。」


 遼はその言葉に、ハッと目を向けた。


 電話の向こうでも、百合江の声が一瞬止まったように思えた。


『……そうか。』


「こわいよ。でも、たぶん、このままじゃ、わたし……」


 そこで言葉は途切れた。


 代わりに、百合江がそっと言葉を繋ぐ。


『澪、あんたは、よう頑張っとるよ。十分に。……あとは、逃げる勇気だけや。逃げるってな、負けることやない。あんたが生きるための選択や』


 その声に、澪の指先がかすかに震えた。


「……ありがとう、おばあちゃん」


 電話を切ったあと、しばらくの間、ふたりは黙っていた。


 遼は何も聞けなかった。ただ、その背中が、かすかに震えているのを感じた。


「遼くん……」


「ん?」


「もし、わたしが急にどこか行っちゃったら、どうする?」


 その問いに、遼は言葉を失った。


「……何言ってるの、突然」


「ううん、なんでもない。……忘れて」


 笑いながらごまかそうとするその声が、あまりに脆くて。それでも、遼は深く追い詰められなかった。彼女の「なんでもない」に甘えてしまった。


 ──あのとき、気づくべきだった。


 * * *


 家に帰った澪は、静かな部屋の中で荷物の整理を始めていた。


 といっても、持ち出せるものは限られている。制服のまま、押し入れの奥から古いリュックを引っ張り出す。


 スケッチブック、文房具、数枚の私服、そして──小さなアクセサリーケース。


 開くと、ひとつのペンダントが入っていた。


 子どものころ、百合江が誕生日に贈ってくれたものだった。


「……ごめんね、お母さん」


 呟きは、誰に向けられたものだったのか。その場にいない母は、きっと何も答えてはくれない。でも澪は、それでもどこかで許しを請いたかった。


 怒ってほしかった。止めてほしかった。……でも、声は聞こえない。


 静かな部屋のなか、テレビの音が父の怒声にかき消される。


 ──わたしは、ここにいないほうがいい。


 そう、何度も繰り返しながら、澪はリュックのチャックを閉じた。


 その夜、最後にもう一度だけ、遼にメッセージを送った。


《明日、ちょっとだけ話せるかな》


 ──明日が、すべての最後になることを、彼はまだ知らなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る