砂の女の悪戯
多分、世界の半分は気障な嘘で成り立っていて、もう半分はちょっとした言い訳で出来ている。それらから残った、霧雨の雨粒みたいにささやかなものがたとえ本当の正しさだったとしても、そんな正しさなんかには誰も気が付かないで毎日を生きているのだと思う。少しだけ角度を変えて言えば、僕らは嘘とちょっとした言い訳の国境を行ったり来たりしているだけにすぎないのだ。
だからと言って、僕らが自らの意思で嘘を撒き散らかして、全ての物事に、まるでファミリーレストランで席に着けば出されるコップに入った水みたいにして言い訳を添えている、というわけでもない。僕らはなるべく正直に生きようとし努力している。もちろん、そうしていない人もいるだろうけれど、そこまで僕が面倒を見なくちゃいけないなんて義理はない。僕らは、あるいは僕と僕を取り巻いている世の中の人の大半は、呼吸をして心臓を動かして血液を体内に循環させて手を差し伸べて足を交互に動かしているのと同じように、嘘を並べたり言い訳を繰り返したりしながら駱駝みたいにゆっくりと歩いているのだ。男だとか女だとか、または年齢だとか性格だとか足の長さとか唇の形の良さなんて、駱駝の瘤が一つか二つかの差くらいの違いしかない。別になくなったって構わないんだ。
厭味みたいに眩しい太陽が真上に届きそうになった頃に、僕は家を出た。自転車に乗って近くにある市立公園へ向かう。公園の北側にある東屋のベンチに座りながら安部公房の『砂の女』を再読していた。男が捕らえられた砂の村の、縦穴の奥底に建っている崩れかけた家から脱出した彼が、誘蛾灯に群がる我みたいにして村へ戻ってしまい結局捕まって穴の底の家に連れ戻されるところまで読んで本を閉じた。僕だったら男のような失敗はしないだろうと思った。そもそも昆虫採集のために砂丘を目指すなんてことはしないからだ。何事も始めさえ間違えなければ、たいていは上手く行くというのが僕の持論だった。そして、何も始めなければ失敗なんかしやしないというのが、僕の座右の銘だ。ただ、男と暮らしていた女が、僕にはとても魅力的にみえた。どうして、あそこまで日常性に埋没出来るのだろうかと不思議だった。もし彼女に会えるという保障があるなら、僕は昆虫採集に砂丘へ行ってみるのも悪くないかもしれないと思う。
本を閉じて顔を上げた頃には日差しが柔らかくなっていた。僕は公園を出て、駐輪場に止めてある自転車に乗った。そして駅へ向かい、駅前の蕎麦屋で干乾びた座布団みたいな油揚げがのったきつね蕎麦を食べてから、駅前の商店街を抜けて、国道の陸橋下の横断歩道を渡って、僕が通っている高校へ自転車を走らせた。走らせたというよりも、ペダルを一回漕いで惰性で進み、それから止りそうになると再びペダルを一回だけ漕ぐといった、例えば十三階段を上がるときの死刑囚の歩みに似ているような進み方だった。勘違いしないで欲しいのは僕が学校へ行きたくないというわけではなくて、単純に死刑囚という属性を取っ払ったところにある十三階段を上がるときの歩み、という行為だけが僕の自転車の漕ぎ方と似ているということであり、加えて言えばいつも僕がこんな自転車の漕ぎ方をしているというわけではない、ということだ。
正門から校内へ入り、一旦、自転車を止めて、四角いチーズケーキみたいな校舎を見上げる。見上げた校舎の窓硝子にはいつもカーテンが閉じられていたり、閉じられていなかったりの二通りしかパターンがないはずなのに、今日は色のついた折り紙で造ったような飾りが貼り付けられている窓硝子があれば、暗幕が張られて暗くなっている窓硝子、そして色付きのビニールテープで懸命に文字のようなものを書こうとしている窓硝子ばかりだった。それらの向こうには、僕の同級生や下級生が慌しく立ち回っている。彼らがいるのは教室の中だけじゃなくて、僕の目の前にも、正門から見える中庭にも、同じようにして足早に動いている。彼らのうち大半は、普段は校内で見慣れない荷物を抱えて歩いていた。まるで文化祭の後片付けのようにも見えるし、実際のところ今日は文化祭で、僕が登校したのは時間的に年に一度の文化祭が終了している頃なのだから間違いではなかった。校舎とテニスコートの間にある駐輪場へ自転車を停めて、僕は中庭へ向かった。確か僕のクラスは中庭で出店をしているはずだった。いったい何を売っていたのか知らないけれど、多分祭りの夜店と似たり寄ったりのものじゃないだろうかと思う。それほど夜店について詳しいわけじゃないけど、的屋にでもならないかぎり誰も詳しくなんてないだろうから文句は言われないだろう。
中庭では既に後片付けが終わろうとしていた。それぞれこの日のために製作した屋台や飾りを解体して、それを目が覚めた後の夢を思い出そうとする子供みたいにして見下ろしている人もいれば、目もくれずに片付けに精を出している人もいた。どちらかというと、僕はセンチメンタルに浸って役に立たない人間よりは実際的に働いている人間のほうが好きだ。僕がそういった人間になれるか、あるいはなりたいかは別にしてだけど。そして中庭の中で一段高くなっている半円状のステージでは、人の世話をするのが好きでたまらなくて、それこそが生きがいという珍しい人種の集まりである生徒会だとか文化祭実行委員たちが後夜祭の準備をしていた。
僕のクラスのテントが張られていた場所には、果たして何を売っていたのか僕に知らせたくないかのように飾りも機材も全て解体されて、必要なものは返却して他のものは焼却炉へと運ばれた後のようだった。幾つか残った荷物を律儀に中心にした円を描いて、何人かのクラスメートが談笑している。その談笑も僕が近づいてゆくと立ち消えになった。彼らは僕を、岡山県の山中にある、おどろおどろしい伝説が残る村へ着いたばかりの名探偵のような気持ちにさせた。僕と彼らの隙間にしばらくの沈黙が降りてきた。沈黙は、ホームに電車が到着して客が乗降をして扉を閉めて、間の抜けた音楽を合図に発車するだけの時間だけ続いた。それから彼らのうちのひとり、確か名前を榎戸さんといった僕の立派なクラスメートであるはずの女の子が、沈黙に耐えかねて僕へ声をかけてきた。
「もう、文化祭、終わっちゃったよ。最後まで手伝ってくれなかった」
榎戸さんは申し訳なさそうに下を向いて言った。僕は、彼女がどうしてそんなに申し訳なさそうな顔をするのか疑問だったけど、それを口にするほど分別がない人間じゃなかった。榎戸さんは、今度は顔を上げて続けた。
「まあ、あなたがそうしたいなら、私たちはどうもしないけど」
あなたと、私たち。そこには一見すると白くて細いビニールテープで仕切られた曖昧な境界に見えるのに、本質的には「あなた」と「私たち」を決定的に分隔てるものが感じられた。文化祭が始まる前まではまがりなりにも僕の事をクラスメートとして認識していた彼らも、どうやら僕を部外者として扱うように決めたようだった。おそらく、さっきの談笑は僕の事を部外者とするか否かの会議だったかもしれないし、それともただの雑談だったのかもしれない。僕にとってはどちらでも良かった。
「先生は?」
訊いた僕に対して、榎戸さんはまるで手話をするように手と顔を使って、わからない、といった表情をした。それから後ろに固まっていたクラスメートを顧みると、その中の男子のひとりが宙を指差した。指先にとんぼが止ったら絵になったかもしれない。彼が指差した方角には空気があって中庭に植えられた銀杏があって、その先に校舎があった。僕が通っている高校の校舎は北校舎と南校舎に別れていて、その二つを玄関と図書室と中廊下がある細長い建物が繋いでいる。彼が指差したのは南校舎の二階のあたりで、窓硝子と壁を隔てたその先には職員室があるのだった。つまり、彼は先生が職員室にいると言いたかったらしい。わざわざ口に出して伝えないということは、おそらく僕のクラスでは手話が流行しているんじゃないかと思う。
「わかった、ありがとう」
とだけ礼を言って、僕は彼らの前から踵を返した。途端にざわつくような声が背後から聞こえたけれど、僕は振り返る必要を感じなかったのでそうしなかった。そのまま玄関へ向かい、下駄箱に入っている踵がつぶれていて、入学以来洗ったこともないから元の色の記憶を失ってしまった上履きに履き替えた。爪先を保護しているゴムは、僕が所属している学年を示す臙脂色。僕は、本当は黒とか群青色が良かった。こんなところにも社会から押し付けられる矛盾があるものだ、と入学早々、二番目に嫌な気持ちにさせられたのを憶えている。一番目は、この学校の校技だという剣道の胴着と面と竹刀を買わされたことだった。きっと僕の高校は棒切れを持たせたら近所の高校の中では喧嘩が一番強いんじゃないか、と嬉しそうに話題にしていた同級生がいた。彼にとっては喧嘩が強いということがひとつのステータスなのかもしれない。それなら生徒全員にスタンガンでも持たせたほうが良いだろうね、と僕はそのときに考えてしまった。多分、剣道に必要な道具一式をそろえるよりも安上がりじゃないだろうか。
ノックをしないで職員室の引き戸を開けた。文化祭当日ということもあって、職員室にいた先生の人数はそれほどでもなかった。というよりも実際は彼女の他に先生と呼べる人は一人としていなかった。因みに僕は教頭のことを先生だと思っていなかったので、窓際の席に座って午後の陽気にまどろみ、髪の毛の薄くなった頭部で舟を漕いでいる教頭のことは、この際無視することにして、彼女が座っているデスクへ向かった。彼女はデスクの上に広げた、僕にとっては意味の無い書類か何かへ、ボールペンを右手に握って必死になって、僕にとっては意味の無い記入をしていた。彼女が使っているボールペンは大学時代に付き合っていた男から貰ったものだということを知っているのは、この学校に何人の生徒がいて職員がどれだけの人数働いているのか知らないけど、おそらく僕だけだ。彼女はその男と別れてからもボールペンを使い続けている。「未練があるわけじゃないし、彼のことを忘れられないからじゃないのよ」と彼女は言っていた。僕には未練と忘れられないことの差が良く解らなかった。きっと僕の知らない理由があって、その二つの間にはマリアナ海溝くらいの深い溝があるに違いない。結局、僕が背後に立つまで彼女は僕に気が付くこともなくボールペンを器用に動かして、書類に空いていた穴を埋める作業に没頭していた。
「先生、遅れました」
僕はそれほど間を空けずに声をかけた。すると彼女は、猟銃の音に驚いて一斉に枝から飛び上がった鳥たちのように、背中の半分まで伸びた黒髪を振り乱して僕を振り仰いだ。幽霊か妖怪か、ヨーロッパ風に言えば魔女か吸血鬼か、つまり本来ならそこにありえないようなものを発見してしまった専門家みたいな表情だった。高校の生徒が職員室に入ってきて教師に声をかけることがそれほど驚かなくちゃいけないことだったなんて僕は知らなかったし、校則にも書いてないし、幼稚園でも小学校でも中学校でも、いま僕がいる高校でも教えてくれたことがなかった。きっと市立図書館の中にある誰も立ち寄らなさそうな一角の棚に「職員室で無闇に教師へ声をかけてはいけません」といった内容が書かれている分厚くてハードカバーで箱に入っているような本が置かれているのだろう。その光景を想像して、僕は少しだけ息を漏らして苦笑いした。
「……なにが、可笑しいの?」
「いえ、先生がとても驚かれたものですから。あ、そうそう、遅れました。例によって遅刻です」
彼女は腕時計に目を落としてから「遅刻、って時間じゃないわよね」と僕を見ないで言った。彼女はいつか職員室にかけられた壁掛時計を信用していたら授業に出るのに遅れてしまい、学年主任から手ひどく叱られたことがあると言っていた。それ以来、自分の腕時計を毎朝テレビの時間と併せて、職員室の壁掛時計は見なくなったらしい。
「しかも、文化祭の当日に遅刻してくるとは考えもしなかった」
「文化祭の日には遅刻しちゃいけないんですか?」
「……文化祭の日に、も、よ。もう書いたの? まだみたいね、さっさと書いてきて。で、そのまま出て行かないで戻ってくること」
全国のどこの学校にもあるのかどうか調べたことは無いけれど、少なくとも僕の高校には遅刻をした場合に名前と遅刻した時間、それから遅刻をした理由を書かなくちゃいけない記入簿みたいなものが職員室に置かれている。しかも嫌がらせみたいに教頭たちが座っている近くの窓際に置かれていた。ある一定の何かしらの効果を狙ってそこに置かれているのはまず間違いない。でも、その効果があるのも初めの数回だけで、僕のように紙が無くなって足さなくちゃいけないほど遅刻している人間からしてみれば、近くにいるのが教頭だろうと普通の先生だろうと、あるいは異常に背丈の高い観葉植物だって同じことになってしまうのだった。僕は記入枠の中に名前と、彼女の真似をして腕時計で確認した時間と、それと遅刻理由のところには「砂の除去が忙しかったから」と書いた。砂の女が住む村では、毎日砂の除去を夜に行わないと村が砂に埋もれてしまう。だから作業しやすい夜に砂の除去をして、そして昼間は疲れ果てて寝てしまうのだ。僕がそういった村に住んでいるかもしれない可能性だってゼロじゃない。そんなふうにして、僕が書く理由をあながち嘘だなんて極めつけない心の寛容な先生が一人くらい存在することを期待して、いつも頭をひねって理由を書いている。結局のところ期待は裏切られて、僕の心は失望と黒いペンキで塗りつぶされてしまう。
僕は、表紙に記入簿と書かれた忌まわしいファイルを閉じて、彼女の席へ戻った。戻ってくること、なんて指示されなくてもそうするつもりだった。そもそも、こんな人気の無い職員室から黙って出ようと思ってもすぐに見つかってしまうことだろうと思う。
「ちょっと、そこに座って」
彼女が指定したのは彼女の隣に席を構えている先生の席で、僕はその先生のことがあまり好きじゃない、というか積極的に嫌いだったから、席の上を軽くはたいて埃とかその他もろもろの何ものかを落とすのを忘れなかった。それから飼育されている兎みたいに従順に座った。
「君さ、文化祭の準備もなにもかも、参加してなかったでしょう。わたしが何も知らなくて、君に対して全く怒ってないとでも思ってるわけ?」
「いいえ、とんでもないです。怒っているだろうな、とは予想してましたよ」
「……わたしに怒られても、そうね、君には痛くもかゆくもないわよね。ただ他の子たちは呆れてるよ。高校生活の、しかも最後の、三年生の、大事な行事じゃない。思い出に残るじゃない。なんで手伝いもしないで、しかも当日に遅刻してくるわけよ。解んない、わたしにはちょっと君が何をしたいのか解らない。どうなの、いま君は何をしたいの?」
「率直に言っても良いですか?」
彼女は僕を凝視していた。まるで目を逸らせば僕が消えていなくなってしまうかのように睨みつけていた。僕は女性の怒った顔が嫌いじゃなくて良く誤解されることがある。つまり僕はわざと女性を怒らせているのではないかと。彼女は僕の問いに対して言葉に出して応えず、中庭で会ったクラスメートたちの真似をして、右手の掌で僕を促すようなポーズをとった。意外と、僕のクラスで僕に手話でしか話しかけない流行の発信源は彼女なのかもしれなかった。
「いま、そうですね、煙草が吸いたいです。先生の煙草を一本貰えますか? あと、それとライターも貸してください」
「……ふざけないで」
「素直に言ったのに。それともベッドの中でしか煙草は貸せないとか」
突然、職員室で空気が破裂した。実際のところ空気が破裂した音は聞いたことなんてなかった。だからどれくらい似ているのか自信があるわけじゃない。でも、きっと、戦闘機が音速の壁を越えたらこんな音がするんじゃないか、っていう音が職員室の中に響いた。具体的に言えば、彼女が自分の机の上を平手で叩いたのだった。
「もう一度言うわ、ふざけないで」
彼女は怒ったときにそうするように、唇をそれほど開かずに口の中でくぐもった声で僕に言った。そのとき僕の座っている場所から見える教頭が船を漕ぐのをやめて、いまにも目を覚ましそうになっていた。僕の視線に気が付いた彼女も教頭を振り返った。それから椅子を鳴らして立ち上がった。僕の手首を乱暴に握った。僕が「どうしたんですか」と訊くと彼女は「こっちに来なさい」と例の声音で僕を見ずに言った。僕は彼女に手首を握られたまま腰を上げざるをえなくなって、引き摺られるようにして職員室を出た。廊下を世界で初めて発見された宇宙人みたいにして腕を持たれたまま連行されてしまった。彼女はどこへ僕を連れて行くのか口にしなかった。それでも職員室を出るとき、葡萄の房みたいに壁にかかっている鍵の中から一つを手にして、それから階段を上に上がり始めたころには、多分屋上に連れて行かれるのだろうと予想した。僕の予想は間違いじゃなかった。
僕と彼女が屋上へ出るのを待っていたかのように、風がそよいだ。もしかしたら僕と彼女が屋上に出る前からそよいでいたかもしれない。しかし、僕と彼女が知らない風は、僕と彼女には相応しくなくて、いまこうして吹いている風こそが最適なもののように思えた。彼女は僕の腕を相変わらず掴んだまま屋上を進み、やがて貯水タンクがある付近に聳えているコンクリートで出来た巨大でルービックキューブみたいな建物裏に連れて行かれた。屋上の建物に裏も表もないけれど、強いて言えば他の生徒や先生たちに見つかりにくい場所、とでも言ったほうが正確で解りやすいだろうか。僕はその建物の壁際へ彼女に押し付けられた。
「あのさ、君ね、言っていいことと悪いことの区別も出来ないお年頃、ってわけじゃないんだから。しかも職員室で」
「先生が、素直に言えっていうから言ったんですけど」
「だから違うっていうの、わたしは勿論だけど、君にだって立場とか都合ってものがあるでしょう? そういうの、わきまえて」
「でも僕はあのとき煙草が吸いたかったんですよ。いまでもね。もし先生がいまここで僕に煙草をくれなかったら屋上から飛び降りをしてみるのも悪くないかなって考えてます」
「……馬鹿にしてる」
僕はそのまま彼女が掴んでいる手を振りほどいた。意外と力が入ってなかった。そのまま屋上の鉄柵へ向かった。近づいてから鉄柵を掴んで跨ごうとしたところで彼女の「わかったから」という声が、背中の向こうから聞こえた。彼女を見ると、貯水タンクの影の中にいる彼女は、まるで影の一部みたいだった。鉄柵から離れて僕も彼女と同じように貯水タンクの影の一部になってみた。影と同化するのはとても簡単で、それでいて心地よいものだということに生まれてから初めて気が付いた。
「相変わらず、どこからが不真面目で、どこまで本気なのか、良く解らないよね、君って」
「僕はいつだって真面目ですよ。周りの人が誤解してるだけです」
「それが解んないっていうの。まあ、いいや」と言って彼女がポケットからセーラムライトとライターを取り出して僕に手渡した。「未成年に煙草を渡して喫煙を見過ごす教師って……こんなところバレたら辞めさせられるだろうなあ。君さ、わたしが解雇されたら、養ってよね」
「高校生に向かって言う台詞じゃないですよ、それって。しかも先生がクビになるのと、僕が先生を養うことの間につながりが見出せません」
「ほら、また屁理屈。いやねえ」
彼女は天を仰ぐ振りをした。上を見ても、貯水タンクの馬鹿みたいに大きくて汚れてしまったクリーム色の物体と、それを支える錆びた鉄骨の向こうに見える青空、というのはいささか趣きに欠けるんじゃないかという気がした。僕が建物の壁に寄りかかるようにして座ると、彼女も僕の隣に座った。僕は体育座りを崩したような足の膝に腕を乗せた恰好で座った。彼女を見ていなかったので、彼女がいったいどういった恰好で座っているのか僕にはわからなかった。
「先生、『砂の女』っていう小説読んだことありますか?」
「知らないわね。わたし、数学教師だから」
僕は彼女に何も言わず彼女を見ることもなかった。そのとき校舎の下にある中庭から音が聞こえた。スピーカからラジオで聴いた事があるような歌が流れているようだった。そして生徒たちが騒いでいるように集合した声らしきものも耳に入ってきた。そういえば陽はすっかり傾いて、僕が公園で本を読んでいたときとは違う太陽みたいな色をして、屋上から眺める事が出来る山々に隠れようとしていた。そうやって一日のうちで出たり隠れたりすることが出来るのは羨ましい。だけど、それだって太陽自身の意思じゃないのだとしたら太陽よりも小さな存在の僕らには意思なんてないんじゃないかと思う。
「さっき、学校へ来る前に公園で読んでたんです。つまらない日常に苛まれてそうな男の教師、彼の唯一の趣味が昆虫採集で、採集する行為よりも新種を発見して名前を世に残したいような人でした。彼が、休暇をとって以前から目的としていた昆虫を探しに出かけます。着いたところは海に向かって砂丘があるようなところ。砂丘の手前には村があって、村は砂丘から流れてくる砂の弊害に悩まされてる。それで砂丘に近い家を防波堤みたいに犠牲にして村を護ってる。男は村に着いてから村の人間たちに捕らえられて、凄い深さの穴の中に建てられてる家へ幽閉されてしまうんです。穴が深すぎて縄梯子をかけてもらわないと地上に出ることも出来ないし、登ろうとしても砂が崩れてしまって地上に上がれないくらい深いんです。その家には女がひとりで住んでいて毎日、砂丘から流されてくる砂を、家の屋根とかから雪下ろしみたいにして取り除いてる。そうしないと家が潰されてしまうから。女はそんな日常を文句も言わずに生きている。男にはそれが不思議でならないんですね。こんなところに監禁同然の暮らしをして、村の存続の為に砂の除去だけをして、村から食料や水を貰って生かされているだけ。楽しみといっては男が来ることで楽になった仕事の合間に内職をしてお金を貯めて、ラジオと鏡を買うことだけ。男はそこで生活を始めて、はじめは脱出しようとして、実際に脱出して捕まったりもするんですけど、やがて女が暮らしている砂の除去だけをして生きている日常の中に埋もれていってしまう。でも、その村から脱出しようとする気持ちだけは持っていたんです。だけどね、ある日、男が手紙を託すための鳥を捕らえる罠の中に水が溜まっているのを発見するんです。砂ばかりの場所で、生きているだけで身体中だけじゃなくて口の中までも砂塗れになる生活では水が命なんです。その水を自分は自由にすることが出来る。男はそう考えた。その後、村から脱出する機会があったのに、男はそれを利用しないで村に留まる道を選ぶんです」
僕はそこまで喋ってひと息ついた。相変わらず彼女の方は見なかったけど、彼女が聞いているのは雰囲気でわかった。だから僕は話を続けた。
「日常性とかってなんでしょうね。僕らが朝起きて、ご飯を食べて、自転車に乗って学校へ行って授業を受けて、部活をする人もいれば帰って塾へ行く人もバイトをするやつだっているだろうけど、結局は家に帰って流れてる電波を捕まえただけのテレビをみて笑ったり泣いたりして食事をして歯を磨いてお風呂に入って寝て。そんな繰り返しと、本の中の女が砂を掻き下ろす生活と、いったいどんな違いがあるんだろうかって、ちょっとだけ、疑問に感じたんです」
「それは、わたしも同じだって言いたいのかしら。学校へ行くのが、仕事に変わっただけだって言いたいのかしら」
「いえ、だからですね、男が水を自分で確保できる方法があると知って、村から出ることを辞めたでしょう。僕らがこの生活から逃げ出さない理由って何だろうって。そういった水を確保出来たことや女にとってのラジオだとか鏡的なことって、喩えば今日の文化祭だったり、僕らがいつも愉しみにしているように強制されている何かだったり、のように思えませんか?」
「思えないわね、残念ながら。君の言いたいことは解るけど、あまりにも繊細過ぎるような気がするな、わたしには。それに、君は、そんなに繊細な、人間じゃなかったと、思うけど。わたしの勘違いかしら」
どうやら僕は誤解されやすい人間らしく、だからいつも苦労しているのだけど、このときも溜息だけついて、彼女から貰った煙草に火を点けて、貯水タンクに邪魔されて切り取られたみたいになっている空に煙を吹いてみた。煙はすぐに見えなくなって、青空から茜色に変わった空に混じってしまった。僕もいっそ空に溶け込んでしまいたい気分だった。だから、せめて、自分を地上に繋ぎとめておきたかったから、僕は彼女にキスをして、それから抱きしめた。
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