逆上がりは教わらない
三号
モノクローム・オン・ザ・クリーム
「ご飯出来てるよ、雄太」
師走の午後七時頃ともなれば、既に夜の寒気が部屋の中へ迫ってくる。そんなマンションのダイニングに置かれた、掠れ気味な木目調のテーブルへ奈子は出来たばかりの夕食を並べていた。キッチンは然程広いとは言えないが、三人で食事をする広さとしては、まず申し分ない。
今年の春から高校一年生になった奈子は学校から家に帰ると、市外へ勤めており帰りの遅い母親の代わりに夕食の支度をする事が習慣になってしまっている。尤も彼女としては、弟の面倒まで看ることは頼まれてはいない。しかし、彼女自身の面倒見の良さが手伝ってか、弟である雄太の世話も母親に代わって一手に担っている、そんな毎日だった。
今日の夕食は季節柄、というよりも十二月二十四日である事を意識したつもりは無いが、結果として何時もの食事と比べて洋風の度合いが高い。食後のケーキについては、奈子は土台になるスポンジは前日に買って用意してあり、今日は簡単なデコレーションをするだけにしていた。
「なんだかねえ、今日は碌な番組やってないな」
テレビのリモコンを右手に口に煙草をくわえながら、通勤でサラリーマンが読むかのように折り畳んだ新聞のテレビ欄を眺めて、奈子の母親である真由美は愚痴をこぼす。奈子がガスコンロで鶏肉を揚げた時に回したままの換気扇の下へ椅子を寄せ、腰を浅くかけて座っていた。帰宅して直ぐに、いつもの定位置へ移動したので化粧は落としておらず、煙草のフィルタには口紅の色が滲んでいる。
「ねえ雄太、そんな所で待っていたって今年はお父さん来られないんだから」
奈子は呼びかけに応じない弟に業を煮やすと、冬の冷たい水道水に塗れてかじかんだ手をエプロンで拭いつつキッチンを離れる。そして、普段よりも大きな足音を立てながら、玄関へ向かった。
「来られないんじゃない、来る気がないんだよ」
先程からチャンネルを目まぐるしく変えているブラウン管に映った画面を消すと、真由美は近くのクッションにリモコンを放り投げる。やや狙いから外れたリモコンは、電池のカバーが外れない程度の音を鳴らし、畳の上で二、三回ほどの回転をしてみせた。
その呟きが奈子の耳に届いたのか、或いはそれとは関係がないのか。玄関へ向かう敷居で奈子は立ち止まると、
「ねえ、お母さんも叱ってよ」
と母親を半身で振り返った。
「叱るって言ってもさ、五年も前に別れた旦那が、まあ律儀な事にクリスマスイブだけは、馬鹿みたいにサンタクロースの格好をして毎年ここに戻ってきていたのに」
真由美は少し上を向くと目を眇めて、奈子が小さなときから嫌いな白い煙を、すぼめた口から換気扇へ向けて吹き流している。
「別の女と再婚したから、今年からはもう来れません、ってか」
煙草をアルミの灰皿に押し付けた。その手には、短くなった煙草が悲鳴をあげて折れ曲がるほどに力を込めていた。然しながら、それを感じることは、奈子には距離的にできなかった。
「そんな事、恥ずかしくて息子に言えるか。それは、あんたのお役目」
奈子は短い溜息をわざとらしく強めに吐いて、玄関へ向かう。視線の先には、体育座りをして壁に寄りかかっている弟の雄太が、顔を折り曲げた膝の間に埋めていた。
「いつまで、そこに居るつもりよっ」
声に出してから自分でも吃驚するほど声を荒げて奈子が叱ると、雄太は膝に顔を埋めたまま「お父さん、毎年来てくれてたじゃん、今年もきっと来てくれるよ」と呟く。
「もう……雄太も五年生なんだから、少しは聞き分けが良くなってよ」
「絶対に来てくれるよ」
「立ちなさい」と奈子は雄太の左手を強引に掴み引きずるようにして、その場から離れさせようとする。
「やだ、絶対やだ」
雄太は体中に力を込めて、座っている場所を動こうとしなかった。
「本当に、いい加減にしてよね」
キッチンからは「やめなよ、泣きそうだよ」と母親の声が聞こえた。実際に膝から顔をあげた雄太は、目を赤く腫らして泣いている。
「ほら、お母さんも怒ってるよ」
奈子は雄太に言ったが、真由美が「……あんたがね」と続けた言葉は、口にした本人でさえ言葉として発したかどうか定かではないほどの囁きだったせいだろうか、奈子の耳には入らなかった。
深夜、その日の食後に出されたケーキの残りを「甘いものは、肴にならんな」とぼやきながら晩酌を終えると、真由美はトイレへ向かう。廊下の途中にある玄関には、夕食前に雄太が座っていた同じ場所で、同じ体育座りで壁にもたれている奈子がいた。
「寒いよ、風邪ひくよ」
「わかってる」
暗い玄関に真由美は明かりを点けた。橙色の間接照明に照らされている、白い百合が数えるのを諦めさせるほど咲いているパジャマに薄手のカーディガンを羽織っている奈子を、腰に手をあてて真由美は見守る。奈子の肩は、寒さのせいで小刻みに震えているように見えた。
「どんなに待ったって、来やしないんだ」
「わかってる」
それだけ聞いて真由美はトイレへ行き用事を済ませると、奈子へ声もかけず視線を向ける事も無く照明だけを消して、足早に自分のベッドへ戻った。奈子は目の前を通り過ぎて行く母親の足音と、きっと言いたい事がある筈の気配を感じてはいたが、同じように顔をあげる事も無く一瞥もせずに、座ったままで冷たい壁にもたれていた。
結局のところ、気付いた時には奈子はそのまま眠ってしまい、翌日の明け方に目を覚ました。腰の高さくらいにある靴入れの上に置かれた置時計の針は、朝の四時二十六分を指している。玄関に置かれている靴は見慣れたものばかりで、その数は増えてもいなければ、減ってもいなかった。
いつの間にか自分の肩に毛布がかけられている事は、体を包む暖かさを感じていたので起きてすぐに気付いていた。その毛布は、奈子が弟の雄太と同じ年齢の頃、父親と一緒にデパートに買い物へ行った際に買ってもらった、少女アニメのキャラクタがプリントされているもの。以来、高校生になった今でも、頑なに使い続けている。
その毛布がくれる暖かさと、それ以外の何かに、少しだけ、もう少しだけ包まれていたかった奈子は、暫くはこうしていようと決めると、肩に掛かっていた毛布を頭から被りなおした。
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