いまは緑色の芝生

三号

いまは緑色の芝生

 母が他界したのは湊川文子が実家へ帰省した二日後だった。元気とは言えない母親と最後に交わした言葉はどのようなものだっただろうか。珍しく玄関まで湊川を見送らず布団で寝たままだった母親を見捨てるようにして帰った自分は、果たしてこの先に何食わぬ顔をして生活をする資格などあるのだろうか。自分が母を殺したのも同然ではないのか。湊川はあの日以来、自分に問い続けている。


 良かった今日は暖かくて、と湊川は言葉を色のない微風にのせた。

 年が明けて間もない、肌に触れる一月の空気が彼女から暖かさを取りあげる冷たい日だった。見上げれば数えるばかりの雲があるだけの晴れ渡った冬の空である。市営霊園の芝生墓所で墓石の前に佇む湊川は、見上げた冬空から視線を落とす。地面に敷き詰められた芝生の緑が目に焼き付いた。

 自分は今見ている景色を一生忘れることはないだろう。

 否、忘れてはいけない、忘れるなどは許されないことだ、と湊川はそのように心へ刻む。

 霊園内の芝生墓所は墓石同士の間隔が十分に取られており通路も広く、相当数の人数が居ても窮屈を感じることはない。ただ、いま墓石の前に居るのは湊川ひとりだった。

「明日からしばらく寒くなるから、その前に」

 途中で途切れた言葉の続きは、寒空を鳥が飛び往くまでの間、聞こえなかった。

 午後の陽光をを反射する墓石に湊川は視線を戻す。

「入れてあげられてよかった」

 湊川は膝を曲げて、刻まれた墓碑銘と視線の高さを合わせた。

 先に駐車場へ向かった家族に聞こえていたとしても構わなかったし、そもそも彼らに返事を期待しているものではない。

 応えて欲しい人は湊川の世界からいなくなってしまった。

 彼女としては独り言を口にしているつもりはなく、今しがた小さな壺に入って納骨室へ収められた母へ話しかけていた。

 きっと暗いだろうし、季節によれば汗ばむこともあれば凍えることもあるだろう。だが湊川が汗を拭いてあげることも、毛布をかけてあげることもできない。もう手が届かない。せめて言葉だけは届いて欲しい。

 できるなら、願うなら、お願いだから、返事をして欲しい。

 覆水は盆に返らないし、先に後悔を立たせることもできない、いつだって取返しのつかないことは、決定的な何かが起こった後に気付いてしまう。解っていたのに知っていたのに、どうしていつも自分はこうなのだろうか。

 気付かなければいけないことを見過ごしていた。母の言葉が伝えたかったことを汲み取れなかった。

 後悔、などという短い言葉で表現できるものだろうか。

「なにも見えていなかった、お母さんのことを、お母さんの言葉に眼と耳を、もっと心を傾けていたら。励ますのではなく心配して寄り添ってあげたら、いま別の未来があって、お母さんは私と笑いながら話をしていたのかな」

 白、黄、紫、赤と桃色の仏花に囲まれた墓石は、今日は彩られている。ただ、花はいずれ枯れてしまうだろう。その寂しさに自分は耐えられるだろうか、湊川は目蓋を閉じる。

 こうしていても、今になっても現実味がない。というよりも信じたくない、信じられない。

 いま湊川の目の前に、時間を巻き戻すことができる魔法を授けてくれる天使が現れたとしたら、どれ程の対価を求められたとしても手に入れるだろう。たとえ現れたのが悪魔だったとしても、湊川は取引をするだろう。


 斎場で住職の読経を耳にしていても挨拶をする喪主の姿を目にしていても、大切な母がもう居なくなった実感が湊川にはなかった。現実を受け入れられないのか、身体と心で母の死を感じることができない。まるで自分が質の悪い演劇の壇上にいるような感覚が受けとめられず、通夜に来てくれた行政機関に奉職している友人の敦賀不由に相談をした。相変わらず愛嬌のない表情をした敦賀は「そういうものだ」と小声で口にした。

「近しい人が死んだ初めのうちは、衝撃を直接的に受け入れないよう、防壁、みたいなものを心の中に作るらしい。だから見えているものが現実的ではない。目の前で起きていることが実感できない。人によっては目前の遡りようのない事実をフィクション、創作物のようにして受けとめて心の負担を減らすこともあるそうだよ」

「そうなのかな、でもいろいろと考えてしまうの。ああすれば良かった、別の選択をしていれば母はまだ生きていたのじゃないかって」

「考えることは悪いことではない。ただ、いまは考えるべき時ではないかもしれない。坊さんのお経も木魚もそれは宗教的には意味のあるありがたいことなのだろうけど、私にはさ、訳分かんないものを聞いていることで頭の神経鈍らせて、深く考えさせないようにしてるのだと考えてる。心に防壁を作って、フィクションとして目に映し、儀式で思考を鈍らせて、きっとそれらは哀しみを受け入れる準備期間をつくっているのだと私は思うよ」

 ではいつになったら、どれくらいの時間をかければ母の不在を受け入れられるのだろうと湊川は問う。

「人の死というのは、その人が居た生活の中にあると思ってる」

 答えた敦賀は湊川に一礼をしてから、焼香へ向かった。


 敦賀が教えてくれたことは恐らく正しいだろう。

 きっと、部屋の中にあるずっと先の予定が書かれているメモ書きと来年の賞味期限が書かれた浅漬けの素を目にして、母はもっと生きていたかったのだと涙が止められなくなる。

 浴室の窓が最後まで閉まらず、こんな隙間風の寒い浴室でお風呂に入っていたのか、なぜ言ってくれなかったのか、否、なぜ自分は気付いて直してあげなかったのか、耐えきれない重みの後悔を繰り返すに違いない。

 経年劣化で壊れた窓枠や網戸の留め具と、テーブルの上にある修繕説明会の資料を自分は関連付けたことがあるか、手に取って見たことがあるか、母に寄り添って考えれば分かったはずだ。

 肉を食べることが苦手だった母が医師の勧めで食べるようにした冷凍庫にあった豚肉は、これからも生きていく希望ではなかったか。

 止まったままの時計、閉まりの悪い台所の水栓、外れないように紐で縛った物干し竿、きっと言いたい希望や伝えたい願いはあって、本来それらは言葉にしなくても十分に湊川に伝わっているべきだった。

 母の想いを受けとめることができなかった。

 湊川は部屋の中を歩きまわり、母と過ごした日々の残影を目にして、ふすまを開けてまだ母の温もりが残っていると信じたい畳まれた布団に触れて、箪笥の引き出しを開けて母がよく使っていた調理器具を手にして、台所の逆さに置かれたコップが視界に入れば注いだ麦茶を差し出されたことを思い出し、悲鳴のような大声で憚りもなく遠慮もせずに泣くのだろう。

 そのときは一人でいようと湊川は心に留めた。今後、誰かに話すこともない。湊川にとってみれば、母の不在を受け入れるためにはきっと悲鳴を上げて涙を流さなければならないし、それは孤独と共にあるべきだと思うから。


「ごめんなさい、本当に」

 墓石に右の掌を添えて、湊川は何度したか覚えていない謝罪の言葉を口にする。謝罪の相手は母なのか、母を一人で残していくことを心配しながら世を去った父に対してなのか、湊川自身にも分からない。

「また来ます。何か持ってきて欲しいものはある?」問いかけに応えがないことは知っている。だけれども声をかけずには湊川はこの場を離れることができなかった。「新しいお花と、お菓子を少し。そうしようね」言葉にしながらゆっくりと湊川は立ち上がる。墓石を見つめながら数歩だけ後ろ向きに歩く。そして先に墓前から立ち去った家族が既に乗っている車に向けて歩き始めた。

 芝生は緑色で、空は青色。

 湊川は色のない今を生きている。

 自分の過去と未来は何色に染まっていくのだろうか、湊川はもう少し時が移り変わればイメージできる予感がしていた。

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