第6話:最後のお願い

また翌日の午後四時を少し回ったころ、松倉は灰間堂に続くあの路地に足を踏み入れていた。


商店街の取材をいくつか片付けたあと、昼食もそこそこにカメラを持ち替え、今日こそは取材をしてやると意気込んで向かった。


路地の入り口、電柱のそばに、昨日とまったく同じ格好をした少年が佇んでいた。

今日もまた、歩道の縁石に腰をかけ、目線だけをこちらに寄越している。


「よう。今日で3日目だよ、またな」

松倉は軽く少年に挨拶をして通り過ぎた。


「こんにちは。おじさんも大変だね・・・」

少年はまだ何か言いたそうに見えた。


灰間堂の門をくぐると、今日は、あの老婆が縁側に腰掛けていた。

風鈴の音とともに、ゆるやかに流れる時間の中、松倉に気づくと、彼女はにこりと笑った。


「今日もご苦労さま。昨日はありがとうね」


「ええ、無事に神社まで届けてきました。・・・で、今日は、さっそく取材を」


「ああ、その前に、もうひとつだけ頼まれてくれないかねえ」


「えっ・・・あ・・・」


内心ため息を飲み込んだ松倉だったが、文句の言葉は口にしなかった。


これまでの手紙と写真の件が、決してではなかったことを、なんとなく察していたからだ。


「お花を買ってきてほしいのよ。菊がいいわ。白いやつ。・・・お願いできるかしら?その後は取材を受けさせていただくわ」


「花ですか?・・・わかりました。買ってきます」


松倉は軽く頭を下げ、路地を出て商店街の花屋へと向かった。

その道中、例の少年の姿はもうなかった。


白菊を包んだ紙袋を手に、松倉はふたたび路地を戻る。

もう夕方に差しかかる時間帯、周囲には風がそよぎ、空気にわずかな冷たさが混じっていた。


灰間堂の前に着くと、老婆は目を細めて言った。


「それをね、あの電柱の足元に。・・・どうか、お願い」


松倉はハッとしたが、小さくうなずき、花を持って路地の入口に戻った。


そこは、先ほどと変わらぬ場所だった。


松倉が白菊をそっと電柱の足元に置いて背を向けた、その瞬間。


「お花、ありがとう」


背後から、小さな声が聞こえた。


振り返ると、少年がそこに立っていた。

いつもと同じ顔、同じ服。

だが、今日は初めて、彼が松倉を正面から見て微笑んだ。


「でも、・・・ジュースでも良かったかな」


少し照れたように呟いたが、言葉はそれだけだった。

少年の姿は、次の瞬間、風とともにかき消えた。


「・・・やっぱり、そういうことか・・・!」


松倉はしばらくその場に立ち尽くし、目の前にある白菊を見つめた。

不思議な安堵と、ほんのわずかな切なさが胸に広がっていた。


再び灰間堂に戻ると、老婆はもう縁側から立ち上がり、玄関先で待っていた。


「無事に届けてくれたんだね。ありがとう。あの子も、これで少し安心したはずだよ」


「・・・花を置いたとき、あの子がって」


「そう。ふふ。良かったわね」


松倉は返す言葉を失ったまま、ほんの一瞬、老婆の目をじっと見た。


考えや言いたいことがまとまらないまま少しあたふたと口を開く。


「さ、さて。じゃあ、いよいよ取材を始めましょうか」


松倉がカメラに手をかけた、そのときだった。


「・・・あ、その前に。もう一つだけ、お願いがあるのね」


「・・・まだですか?」


思わず素の声が出た。


「これで最後よ。お酒を持ってきてほしいの。高いものでなくていいわ。清酒で、できれば・・・やわらかい味のやつが、いいかしら」


「・・・酒・・・ですか」


「そう、お酒。わたしたちはね、昔っから、それが大好きでねえ」


わたしたちという言葉に、松倉の背中にうすく寒気が走る。


「・・・わかりました。用意します」


「ありがとう、松倉くん。ここまでよくやってくれたわね」


老婆が名前を呼んだことに、松倉は一瞬違和感を覚えた。

まだ名乗った覚えは、なかったはずだ。


松倉は灰間堂の門をくぐり、振り返って一礼した。


「では、お酒を持ってきます。・・・すぐ戻りますので」


「ええ、ちゃんと待ってるわよ」


縁側に腰をかけた老婆は、いつものように微笑んだ。

だがその目だけは、どこか遠くの景色を見ているようだった。


通りに出た松倉は、スマホを取り出して美橋に連絡を入れた。

コール数回で、けだるげな声が返ってくる。


「・・・おう、どした?何か用?」


「ああ、ちょっと頼みたいことがあるんだ。悪いけど、日本酒を一本持ってきてくれないか?飲みやすいやつ」


「は?酒?・・・もう飲んじまったから配達ならできねーぞ」


「いい。歩きでいい。・・・近くだから、悪いが頼むよ」


「どこにだよ。なんか怪しいぞ。嵌めようとしてねーだろうな?」


「してねえよ!商店街脇の灰間堂って場所なんだけど・・・」


「へ?そんなとこ知らねーよ。何それ、CD屋か?」


「いや、違う。大通り前の通りの角のとこに俺が立ってるから、そこまで来てくれ」


「ったく、面倒くせぇーな。わかったよ、貸しだからなー」


通話を切り、松倉はふうと息をついて辺りを見渡した。

夕方の斜陽から夜の闇に変わり始めている。通りには誰の姿もない。


約15分後、向こうの道の端から、法被姿の男がふらりと機嫌よく現れた。


「よー、待った?わざわざ持ってきたけど、俺は配達サービスじゃねーんだぞ?」


「ごめん、助かったよ。ありがとな、美橋」


「んで、どこなんだよ、例の灰間堂ってやつはー?」


「そうだ。こっちの路地の奥だ。案内するよ」


二人で並んで歩きながら、松倉はふと、電柱の足元に目を向ける。


白菊が、そっと風に揺れていた。


「おー・・・花だー?なんでここに。誰かの命日か?」


美橋が首をかしげる。


「・・・かもしれないな」


「なんかジュースとかのがいいんじゃねー?」


「・・・っかもしれないな」


短くそう答え、松倉は歩を進める。

そして、二人は並んで、路地の奥へと進んだ。


だが。


「な・・・ない・・・?」


松倉は、目の前の光景を疑った。


そこにあったはずの灰間堂は、無惨な姿をさらしていた。


そこにあるのは、壁が崩れ、屋根が抜け落ちた古びた廃墟だった。

ついさっきまで、老婆が腰掛けていた縁側も、ぽっかりと空虚な空間になっていた。


「・・・なんだこりゃ。これが灰間堂なの?お前、ここで取材してたのか?」


美橋が、目を細めて廃墟を見渡す。


「さっきまで・・あの縁側で話してたんだ。・・・いや、確かに、いたんだよ」


松倉の声に迷いはなかったが、現実とのギャップに思考が追いつかない。


そのときだった。

ポケットの中でスマホが震えた。

画面を見ると、萩原からだった。


「・・・もしもし?」


「あ、松倉?ちょっと気になって調べてみたんだけどさ、灰間堂って店、ネットにまったく情報がないんだよ。今見たら貰った掲載リストにも名前がない。マジで謎なんだけど」


「・・・そうか。いや、そりゃそうだよな」


「いや、そんなことある?そこに本当に誰かいたの?」


「・・・ああ、いたんだよ。確かに。・・・いや、たぶん、な」


「また変なことに首突っ込んで巻き込まれてない?ま、今さらだけどさ」


「ああ。そ、それは・・・大丈夫だ」


通話を切る。

風が吹き抜け、草木がわずかに揺れた。


美橋が松倉の顔をじっと見たのち、袋をガサガサと探りながらつぶやいた。


「・・・ま、いいんじゃねえの?お前が頼まれたってんなら、渡してやろうぜ」


袋の中から、日本酒の瓶が取り出される。


「ほれ」


「ああ・・・ありがとう」


松倉は瓶を受け取り、崩れた縁側の跡にそっと置いた。

小さな音を立てて、瓶の底が石に触れる。


ふと、あの老婆の声がよみがえる。


「ありがとう、松倉くん。ここまでよくやってくれたわね」


松倉は静かに目を閉じ、頭を下げた。


「・・・どうか、届きますように」


そうつぶやくと、松倉は踵を返し、美橋と並んで歩き出す。


路地を抜けて通りに出たところで、美橋が言う。


「で、今日はお前の奢りでいいよな?」


「・・・はぁ?」


「だって、酒代も配達料ももらってねーじゃん」


「あの距離で配達料取るなって」


「いやいや、こういうのは気持ちだろ。わかりやすい形で頼むわー」


「ちっ。・・・はいはい、わかったよ。奢るから、好きに飲め」


「やりぃー、松倉の金で飲む酒が一番うめーからなー!」


「あー、うるせえよっ。もう俺も今夜は飲むぞっ!」


二人は夜の町へと消えていく。


その背中には、まだ少しだけ、かすかな風の気配がまとわりついていた。


あの路地も、少年も、灰間堂も、老婆も何だったのだろうか。

答えはわからない。


それでも松倉の声は、どこか楽しげな調子に響いていた。

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【酔異奴霊】灰間市緑葉地区東町商店街 くすみ @KSMTK

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