第21話

 深夜、日付が変わった後。


「月読」の営業も、そろそろ終わりの時間を示す音が、壁の古時計から微かに聞こえてくる。


 最後の客が満足そうなため息の音を残して帰っていくと、店内には俺と、カウンターで静かにグラスを磨く一ノ瀬さんの二人だけになった。


 BGMのジャズも、今はもう止まっている。しとしとと降る小雨の音が、店の古い窓ガラスを静かに叩いていた。その音は、まるで世界の終わりに取り残されたような、不思議な安堵感を伴って店内に響いている。


「閉店だよね? 俺もそろそろ……お暇しようかな」


 俺がそう切り出すと、一ノ瀬さんはグラスを置く音も立てずに、こちらを一瞥した。


「……別に急かしてない」


 彼女は静かな声で言った。


「佐伯さんは深夜の静寂の邪魔にはならないから。むしろ、無音よりは多少の生活音が混じっていた方が空間の音響は安定する」


 彼女はそう言って、コーヒーの残りを自分のために小さなカップに注いだ。その仕草は、いつもよりさらにゆったりとしていて、まるで夜そのものが彼女の味方をしているかのようだ。


 二人きりのカフェは、どこか特別な空気に満ちていた。


 その、張り詰めた糸のような静寂を、無遠慮に切り裂いたのは、本当に、本当に突然の出来事だった。


 ブゥン、バタバタバタ……!


 店の少し開いていた裏口の扉の隙間からだろうか。黒くて、大きな影が、凄まじい羽音とともに店内へと侵入してきた。


 蛍光灯に誘われたのか、それは大型の蛾か、あるいは夏の終わりの大きな甲虫か。不規則に、そして力強く羽ばたきながら、まるでパニックを起こしたように店内を旋回し始める。


 その羽音が、深夜の静まり返った空間に、やけに大きく、そして何よりも不快に響き渡った。


「うわっ……なんだ、今の音……!」


 俺が思わず声を上げると、それまで静かにカップを磨いていた一ノ瀬さんが、驚くほど素早い動きでカウンターの内側から飛び出してきた。


 その顔は、一瞬で分かるほど青ざめている。


「…っ! な、何、今の、異質な羽音……! 予測不能な軌道……!」


 普段の彼女からは想像もつかないほど、声が上ずっている。その大きな瞳は、恐怖に揺れていた。


「ひいっ……無理……っ!」


 そして、羽虫がこちらへ向かって、低い唸りのような音を立てて飛んできた瞬間――


「きゃっ……!」


 彼女は、本当に小さな、しかし切実な悲鳴にも似た声を上げると、咄嗟に俺の背中に回り込み、ぎゅっと、力強く俺のシャツの背中を掴んだ。


「え、ちょ、一ノ瀬さん!?」


 俺の背中に、彼女の細い身体がぴったりと隠れるようにくっついている。顔をうずめているのか、声はくぐもっていて、何を言っているのか聞き取れない。


 ただ、背中越しに伝わってくる彼女の震えと、必死にしがみつく指先の力が、彼女の尋常ではない恐怖を生々しく伝えてきた。


 普段の、あのクールで、何事にも動じないはずの彼女が……。


「だ、大丈夫だよ、一ノ瀬さん。俺が、何とかするから……!」


 そう言いつつも、俺は内心、どうしたものかと焦っていた。目の前では、あの羽虫が、相変わらず不協和音を撒き散らしながら飛び回っている。


「うぅ……佐伯さぁん……早くぅ……」


 背中から一ノ瀬さんの指示とも懇願ともつかない、途切れ途切れの声が飛んでくる。


 俺は近くにあった雑誌を丸めると、それを武器に、羽虫との静かな、しかし必死の攻防を繰り広げた。

 彼女を背中に庇いながらなので、動きにくいことこの上ない。


 悪戦苦闘の末、ようやく羽虫を店の開いていた窓の方へと誘導し、叩き出すことに成功した。


 まるで、自分の役目は終わったとでも言うように、そいつは夜の闇へと消えていった。


「行った……かな? もう大丈夫だと思うけど」


 俺が恐る恐る言うと、背中の気配が、ほんの少しだけ緩んだ。それでも、彼女はすぐには離れようとしない。


「……本当に? もう来ない? 大丈夫?」


「うん。大丈夫。もう、どこかへ行ったみたいだ。……一ノ瀬さん?」


 一ノ瀬さんは、ゆっくりと俺の背中から顔を上げた。

 その顔はまだ青白く、呼吸も少しだけ荒い。大きな瞳は、不安げに揺れていた。


「……別に、怖かったわけじゃないし」


 彼女は、まだ少し震えの残る声で、しかし懸命に平静を装って言った。


「ただ、あの虫の出す不規則な音のパターンが、私の聴覚と致命的に相性が悪かっただけ。一種のアレルギー反応みたいなもの」


 そう言って強がるが、彼女の指先は、俺のシャツを掴んだまま、まだ微かに震えている。深夜の、二人きりの店内で見せた、普段の彼女からは想像もつかない、無防備な姿だった。


「そうだったんだ。……でも、もう大丈夫だよ」


 俺は、安心させるように、できるだけ優しい声の音で言った。


 一ノ瀬さんは、まだ少し不安げな表情で、俺を見上げている。その、いつもよりずっと頼りなげな、潤んだ瞳を見て、俺は……思わず、本当に無意識に、彼女の頭にそっと手を伸ばしていた。


 そして、ポン、ポン、と軽く二度ほど、彼女の柔らかな、色素の薄い髪を撫でた。


 一ノ瀬さんの体が、びくりと固まるのが分かった。

 彼女は驚いたように俺を見上げ、その大きな瞳が、さらに大きく見開かれる。


「……ん。まぁ……良いでしょう」


 彼女は、小さな声でそう呟いた。俺の手を振り払うでもなく、身を引くでもなく、ただされるがままになっている。


 俺の大きな手の温かさと、その優しいリズムにどこか安心してしまっているような、そんな不思議な表情をしていた。


 数秒後、我に返ったように、彼女はそっと俺の手を自分の頭から押し返した。


「……ありがと」


 顔を赤らめて俯きながら、彼女はそう言った。


 少し気まずいような、でもどこか温かいような、不思議な沈黙が、深夜の「月読」に流れる。


 一ノ瀬さんは、黙々と片付けを再開するが、その手つきは、心なしかいつもよりぎこちない音がしている。

 俺は、彼女の意外な弱点と、不意に見せた素直な反応に、胸の奥がくすぐったいような、それでいて何かとても愛おしいような、新しい音を感じていた。


「じゃあ、俺、そろそろ帰るね。今日は……その、お疲れ様」


 俺がそう言うと、一ノ瀬さんは、片付けの手を止めずに、でもはっきりとした声で答えた。


「……ん。おつかれ。佐伯さん、おやすみなさい」


 その声は、深夜の雨音のように、俺の心に静かに、そして深く染み込んでいった。


「うん、おやすみ」


 一ノ瀬さんという人間が出す「音」の、また新しい一面に触れた夜だった。

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