第22話
深夜の『月読』の店内は空気もどこかゆったりとしている。
俺がテーブル席で読書に耽っていると、店のドアがカラン、と音を立てて開き、真っ昼間に活動する太陽神のようなドタバタ感で橘さんがやってきた。
「やっほー! 薫子さん、聖玲奈。佐伯さんも、こんにちはー!」
ヴァイオリンケースを隅に置き、橘さんは賑やかに挨拶をする。
「……『こんばんは』の時間だよ」
一ノ瀬さんが、眠たげな瞳をほんの少しだけ橘さんに向け、いつものように低いトーンで言う。
「時差ボケしててさぁ……ヨーロッパはまだお昼だから」
「ん。演奏会どうだった?」
「バッチリ! 向こうの人の感触も良かったし、来年には留学もいけるかも」
「ん。良かったね」
そんなやり取りを微笑ましそうに見ていた桜井さんが、ふと何かを思い出したように手を叩いた。
「あら、ちょうどよかったわ、みんな揃って。実はね、新しいケーキを試作してみたの。よかったら、試食して、この子の名前を一緒に考えてくれないかしら?」
桜井さんはそう言って、奥の厨房から、見た目にも美しい、淡いピンク色のムースケーキを運んできた。ベリー系のソースが繊細な模様を描いている。
「わー! 美味しそう! 私、そういうの考えるの、得意中の得意!」
橘さんが、目を輝かせてケーキに飛びつかんばかりの勢いだ。
一ノ瀬さんは、やれやれといった風に小さくため息をついた。
「……別に、私はどうでもいいけど。変な名前になったら、私は絶対に復唱しないから」
桜井さんが苦笑しながらも、小さなホワイトボードとペンを用意する。
「佐伯さん、今のって絶対にフリだよね? 変な名前でボケろってことだよね?」
「確かに。一ノ瀬さんが『ハピハピマジカルラブリーラテ』って言ってるのは見てみたいかも」
橘さんと悪ノリしてそう言うと一ノ瀬さんは「はぴっ……はぴっ……」と恥ずかしそうに顔を赤らめていた。
◆
こうして『月読新作ケーキ命名会議』が、やや強引に、しかし和やかな雰囲気で始まった。
「じゃあ、まずは橘ちゃんから、何かいい音、あるかしら?」
桜井さんに促され、橘さんは自信満々に胸を張った。
「はいはーい! えっとね、『恋する乙女のときめきベリー
橘さんの提案に、俺と桜井さんは顔を見合わせて微笑むしかない。
一ノ瀬さんは、眉間の皺をさらに深くして、「……ただ派手で装飾過多なだけの名前。聴いてるだけで胸焼けがする。却下。ケーキの繊細な味が死にそう」と、一刀両断。レビューや感想におけるその言葉の切れ味は、相変わらずだ。
「えー、ひどいなあ聖玲奈は! じゃあ佐伯さんは?」
橘さんに話を振られ、俺は目の前の美しいケーキを眺めながら、少し考えてから答えた。
「ええと……そうだなあ、見た目も味も優しそうだから……『木漏れ日のアリア』とか!」
自分では、まあまあいい線をいったと思ったのだが。
「んふっ……! 佐伯さん、なんかピュア。でも可愛いじゃん」
橘さんが笑顔でコメントをくれる。
一ノ瀬さんは無表情なまま「佐伯さんっぽいね」と言ってニヤけた。
そして、肝心の桜井さんにはあまり刺さっていない様子。俺は少し肩を落とした。
「じゃあ最後。一ノ瀬さん」
一ノ瀬さんはしばらく黙って、目の前のケーキの淡いピンク色をじっと見つめていたが、やがて、本当に小さな、聞き逃してしまいそうな声で呟いた。
「……『
その、意外なほど洗練されていて、どこか奥行きを感じさせるネーミングに、俺と橘さんは思わず息を飲んだ。
「ケーキの名前としては感性が爆発しすぎてる気がしないでもないけどねぇ」
橘さんがニヤニヤしながら一ノ瀬さんをいじる。
「べっ……別にアイディアを出してるだけだし! 大体、橘は幼稚な名前だし、佐伯さんは無難だし、私が攻めるしかなかったじゃん! 同じ方向から出しても面白くないし!」と早口で弁明した。
でも、その白い首筋が、ほんのりと赤く染まっているのを、俺は見逃さなかった。
それは、彼女のクールな仮面の裏側から、ふと漏れ出た、彼女自身の持つ繊細で美しい音の一片のような気がした。
「シジマねぇ……闇金?」
橘さんがボソリと呟く。
「や、それはウシジマ」
一ノ瀬さんがフンッと鼻を鳴らして答えた。
「味噌汁に入れると美味しいやつね」
「や、それはシジミ」
今度は俺が言うと一ノ瀬さんはまたもや即答した。
「えぇと……ゼブラ?」
戸惑いながら桜井さんも乗っかる。
「や、それはシマウマ……薫子さん、ちょっと遠いよ」
一ノ瀬さんは呆れた様子でそう言った。
「そもそもシジマってどう書くの?」
「静かに寂しい……こんなやつ」
3案とも採用はなさそうだったので遊びの時間に入る。
一ノ瀬さんがホワイトボードの前に立ち、自分の案である『静寂』と書こうとした。
しかし、桜井さんが用意したホワイトボードは下側が埋まっており、最上部は彼女にとっては少しだけ高かったらしい。彼女はつま先立ちになって、懸命に手を伸ばしている。その姿は、普段のミステリアスな雰囲気とは少し違い、どこか健気で、可愛らしい音を立てていた。
「代わりに書こうか?」
小さな声でそう尋ねると、一ノ瀬さんの肩が、びくり、と小さく震えた。
彼女は、驚いたようにゆっくりと振り返る。
そこには、本当に至近距離でお互いの顔があった。
彼女の大きな、吸い込まれそうな瞳が、驚きと、それから……ほんの少しの戸惑いの色を浮かべて、俺を真正面から捉えている。
背後から感じる俺の気配と、すぐ耳元で聞こえた優しい声に、彼女の心臓が、普段とは違う、少しだけ速いテンポの音を刻んでいるのが、こちらにも伝わってくるようだった。その緊張感が、まるで静かな部屋に響く弦楽器のピッツィカートのように、俺たちの間に響いた。
「……な……」
彼女が何かを言いかける前に、橘さんの「あー! 二人とも、何その、楽譜に書けないような、甘酸っぱい音!」という、いつものようにデリカシーのない、しかしある意味では的を射た大声が、その微妙な空気を打ち破った。
一ノ瀬さんは、ハッとして俺から勢いよく距離を取り、顔を真っ赤にして橘さんを睨みつけた。
「う……うう……静粛に! シジマなの! シジマ!」
テンパった一ノ瀬さんは理由もわからずシジマと連呼していた。
◆
後日、メニューを開くと『ムースケーキ』が追加されていた。
「……ご注文は?」
一ノ瀬さんがいつものローテンションな接客で尋ねてくる。
「ブレンドコーヒーと……この『
ムースケーキを指さしながら言う。
「ん。『木漏れ日のアリア』ね」
「めっちゃいじるじゃん」
「それはお互い様」
二人でニヤリと笑う。
「一ノ瀬さん、子供にもユニークな名前をつけそうだよね」
ふと思ったことを言ってみただけなのだが一ノ瀬さんは「こっ、子供!?」と顔を赤らめる。
「まっ、まぁ……佐伯さんに任せちゃおっかな……」
何で俺に……と言う間もなく一ノ瀬さんは首筋まで赤くしてカウンターの方へ行ってしまった。
───────────
新作始めました。
『コインランドリーでいつも並んで読書をしているクーデレ美少女が取引先の副社長だった』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます