第20話
先週末の、一ノ瀬さんとの足湯カフェ。そして、帰り際の、あの頬への感触……。
『ただの等価交換の記録』
彼女はそう言っていたけれど、俺の心の中では、あの出来事の音は、全然「記録」として処理しきれずに、ずっとリピート再生され続けている。
昼休み、俺は陽菜とオフィスの近くのパスタ屋でランチを共にしていた。
「ねえ、蓮。なんか今日、フォークの進みが悪い音だけど、どうしたの? もしかして、週末に何かロマンチックな協奏曲でもあったとか? ワルツでロンドでカルテットな感じ?」
陽菜は、俺の表情の微妙なノイズを敏感に察知して、ニヤリと笑う。言葉のチョイスからして、一ノ瀬さんのことを意識しているのは確実だろう。
「いや、ロマンチックかどうかは……。実は、週末に一ノ瀬さんと出かけて……その、ヘッドホンのお礼だって言って……」
俺は、言葉を選びながら、先日の足湯カフェでの出来事、そして帰り際の頬へのキスと、彼女の「等価交換の記録」という言葉までを、ぽつりぽつりと陽菜に話した。
陽菜は、パスタを巻く手を止め、目をキラキラと輝かせている。
「ええーっ! ちょっと! それって、もう、完全に……えっ!? 最大限の愛情表現だってば!」
「え、愛情表現……? でも本当にいつもと変わらないクールな感じだったし、『それ以上の意味もそれ以下の意味もない』って、はっきり言ってたよ。事務処理完了、みたいな感じ」
俺がそう反論すると、陽菜は「はぁ……」と大げさなため息をついた。
「蓮ってさ、仕事のロジックは完璧なのに恋愛に関しては、そう絶望的に読解力がないわけ? いい? 女の子がね、特に一ノ瀬さんみたいなガードの固そうな子が、ただの『お礼』でいきなり頬にキスなんてすると思う?」
「……海外育ち?」
「あー、あるある――ってなるわけなくない!?」
「可能性としてなくはないけど……」
「じゃ、日本生まれ日本育ちと仮定して。前提を置いて。仮説を組み立てて」
「は、はい……でも、一ノ瀬さんだしなあ。普通の人とはちょっと違う気がするし……『普通』を物差しにするのもなぁ……」
「そこよ! そこが彼女の可愛らしさであり、攻略を難しくさせてるわけ! けど、『等価交換』なんて言葉で必死に自分の行動をカモフラージュしてても、その行動自体がもう、雄弁に『あなたの音、気になってます』って歌ってるようなものじゃない!」
陽菜は、熱っぽく語る。
「彼女、わざわざ蓮が疲れてるのを見越して、足湯カフェなんて癒やし効果の高い音の場所を選んだんでしょ? しかも下見まで。それって、ただの『ついで』や『義務の履行』でできることじゃないよ。もっと……こう……そう! 愛! 愛だよ愛!」
「そう……なのかなあ」
俺が弱音を吐くと、陽菜は呆れたように、でもどこか楽しそうに笑った。
「まあ、その不器用な音の掛け合いが、あんたたちなりのプレリュードってことなんでしょうけどね。とにかく! その『等価交換の記録』は、彼女からの『次の楽章に進んでもいいですよ』っていう、控えめなファンファーレなの! 自信を持って、その音をちゃんと受け止めなさいよ!」
「陽菜、その言い回しがちょっと楽しくなってきてるよね? イジってるよね?」
俺がジト目で陽菜を睨むと陽菜は舌をちろっと出して「えへへ」と笑った。
◆
夜になり、少しだけ緊張しながら「月読」のドアを開けた。
カウンターの向こうには、相変わらず眠たげな瞳の一ノ瀬さんと、穏やかな微笑みを浮かべた桜井さんがいた。
「いらっしゃい、佐伯君」
桜井さんが、いつもより少しだけ楽しそうな音の声で俺を迎えてくれた。
一ノ瀬さんは、俺を一瞥しただけで、特に何も言わずにコーヒーの準備を始める。その横顔は、いつも通りクールで、先週末の出来事などまるで存在しなかったかのような、そんな静かな音。
やはり、陽菜の言うような「ファンファーレ」の音は、どこからも聞こえてこない。
俺はいつもの席に座り、内心の動揺を悟られまいと、努めて平静を装った。けれど、桜井さんの目は誤魔化せなかったらしい。
「あらあら、なんだか今日の佐伯君と聖玲奈はいつもと音の響きが違うみたいね」
コーヒーを俺の前に置きながら、桜井さんがくすくすと笑う。
「え……そ、そうですか?」
俺は思わずどもってしまった。
一ノ瀬さんは、ぴくりと眉を動かしたが、すぐに無表情に戻り、「……薫子さんの耳のフィルターが、今日は変なだけ」と、冷静に答えた。
「そうかしらねぇ」
「ん。私たちはいつも通り。だよね? 佐伯さん」
そう言いながらも、彼女はいつも首にかけているヘッドホンの位置を、ほんの少しだけ、神経質そうに直した。
「ま……まぁ。そうだね。すこぶるいつも通りだよ。いつもストリートって感じかな」
俺がそう言うとぽかんとした顔で二人が見てきた。
「佐伯さん、今のっていつも通りの『通り』をストリートに訳したってこと?」
安易なボケの説明を求められる時ほど辛いことはない。苦笑しながら頷く。
「あらあら。佐伯くんも全くいつも通りじゃないわね。ちなみに聖玲奈はずーっと上の空で今日は食器を5個壊したわ」
「5個!?」
「そうなのよぉ。しかも、前に壊したのはバイト初日にお皿を1枚だけ。だからすごく珍しいの。急にポンコツになったアルバイトと、急に面白くないオヤジギャグを言い出す常連さん。一体全体何があったのかしらね」
桜井さんはそう言いながら俺たちを優しく見守るように、微笑んでいる。
「……そうだわ、今日は特別に、二人に合うかもしれないハーブティーを淹れてあげる」
そう言うと、桜井さんは店の奥から数種類のハーブが入ったガラス瓶を取り出してきた。
「……お節介ティー」
一ノ瀬さんはぶっきらぼうにそう言ったが、その声にはいつものような拒絶の響きはなかった。むしろ、桜井さんの次の言葉を待っているような、そんな静かな間があった。
桜井さんは、にっこりと微笑むと、手際よくハーブをブレンドし始めた。店内には、爽やかで、どこか少しだけ甘い香りが漂い始める。それは、今まで「月読」で嗅いだことのない、不思議な音の香りだった。
桜井さんに促され、一ノ瀬さんは俺のテーブルにやってきて正面に腰掛けた。
やがて、二つのカップに注がれた琥珀色のハーブティーが、俺と一ノ瀬さんの前に置かれた。
「はい、どうぞ。『心の琴線に触れる音』とでも名付けましょうか」
桜井さんの言葉に、一ノ瀬さんが小さく鼻を鳴らしたのが分かった。
俺はそっとカップを手に取り一口含む。温かくて、優しい味がした。花の香りと、何か柑橘系の爽やかな後味が、心地よく喉を通っていく。
「美味しいです。なんだか、心が落ち着く香りですね、これ」
俺が素直な感想を言うと、隣の一ノ瀬さんも、小さな声で「……まあ、悪くない」と同意した。
桜井さんは満足そうに頷く。
「よかったわ。たまには言葉にせずに、お互いの心を探ってみるのもいいものよ」
桜井さんは意味深な言葉を残して、一ノ瀬さんに「店番よろしくね」と言いそっとカウンターの奥へと消えていった。
残されたのは、俺と一ノ瀬さん、そして二つのハーブティーのカップだけ。
気まずいような、でもどこか温かいような、不思議な沈黙が流れる。
俺は、何を話せばいいのか分からず、ただカップの湯気を見つめていた。
先週末の出来事が、ハーブティーの香りとともに、また鮮明に蘇ってくる。
一ノ瀬さんは、ハーブティーを一口飲むと、ふと、俺の方を見た。
その瞳は、いつもの眠たげな光とは違う、何かを探るような、それでいてどこか柔らかな光を宿していた。
「……足湯、楽しかったね」
「あ……うん。すごく。本当にありがとう」
「……ん。こちらこそ」
彼女はそれだけ言うと、視線を外して俺に横顔を見せるようにじっと誰もいないカウンター席の方を見つめだした。
その横顔はいつもより少しだけ、ほんの少しだけ、穏やかな音を奏でているように俺には感じられた。
「足湯だけじゃなくて、行きも帰りも楽しかったよ」
そう言うと一ノ瀬さんが勢いよく俺の方を向いた。
お互いに何も言わず、視線だけで通じ合おうと試みる。行きというよりは帰りのことを言いたいだけなのだが、それはお互いに口にしない。
一ノ瀬さんは顔を真赤にしているので多分、通じているはず。恥ずかしそうに俯き「……ん。こちらこそ」と言ってカップを口にする。いつものように気だるそうで、視線は一点を見ているがどことなく口元がニヤけているように見えた。
あのキスは「等価交換の記録」なんかじゃきっとない。そう信じたい俺の心が生み出す、ただの希望的観測なのかもしれないけれど。
このハーブティーの温かさが、その希望をそっと後押ししてくれているような、そんな気がした。
桜井さんの言う「言葉にしない音」を俺はもう少しだけ聴き取れるようになりたい、と、そう思った。
「そういえば……一ノ瀬さん」
「何?」
「一ノ瀬さん、生まれと育ちはどこ?」
「埼玉生まれ埼玉育ち。どうしたの? 急に」
「気になっただけだよ」
俺が笑いながら誤魔化すと一ノ瀬さんは不思議そうに首を傾げた。
埼玉なら、出合い頭や別れ際に頬にキスをする習慣はないだろう。
―――――
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