真花

 真夜中に電気がついて、1Kの狭い部屋が照らし出された。その明るさに目を覚ました。しかめた視界に冬子ふゆこが映る。俺に跨ってその手には包丁が握られていた。嘘だろ。喉を刺された。灼熱の痛みと金属の冷たさが同時に俺を襲う。やめてくれ、言おうとしても声が出ない。体に力を入れるより早く何度も刃物が喉を通過する。痛い。息が出来ない。血の匂いが鼻に満ちる。傷は致命傷に成って、俺はもう体を動かすことも出来なくて後ろ向きに穴に落ちるように意識が遠のいて行く。死ぬ? これで終わり? 冬子の顔が見えない。弟と妹と三人で河原で水切りをした映像が最期に浮かんだ。

 だが次の瞬間、俺は冬子の横に立ち、冬子を眺めていた。冬子のふもとには俺が横たわっている。血だらけで身動きひとつしない。こんなに滑らかに幽霊になるものなのか。喉も痛くないし体は軽い。

――冬子。

 呼んでみたが冬子は反応しない。冬子は俺の喉から包丁を抜き、そっと俺の顔の横に置いた。刃はぬらりと赤い。冬子の息は上がっている。髪はしっかりと一つにまとめられていて振り乱したようには見えない。返り血がパジャマにべっとりと大きな花みたいだ。冬子は両腕をだらんと下げて、俺に乗っかったまま俺の顔をじっと見ている。

 俺はどこで間違えたのだろうか。幽霊にならなければならないことなんてしていない。不安にさせるようなこともしていない。重過ぎると言うこともないはずだ。俺達はとても上手くカップルをやっていた。将来を考えてもいい頃合いだった。階段を二人でずっと昇って来ていた。何も踏み外していない。

まさる、これであなたは私だけのもの、ずっと、ずっと」

 こんなことしなくたって冬子のものなのに。冬子は俺の顔を両手で包んで慈しみ深い目で見詰める。そんな目で見られたことはこれまでなかった。背筋に青い痺れが走る。俺は冬子の本体を本性を知らないでカップルをしていたのかも知れない。冬子は俺の顔を覗いたまま動かない。

「勝、ごめんね。痛かったよね。でももうきっとその向こう側にいるよね」

 そうなんだが、ここに立っている。俺はちょっと移動してもっと冬子の顔が見やすい位置に立つ。そこからだと喉の傷が見えない。見えないからと言って事実が変わることはないが、隠されただけでも緊張が少しだけ和らいだ。

「私は勝の分まで生きるから。……あれ? でも勝はいないのか」

 冬子は手を離して、キョロキョロと左右を見回す。俺はここにいるが見えていない。横たわっている方が俺の全てだ。冬子はわなないて、さっき俺の顔に触れていた両手で自分の顔を挟むように掴む。

「勝がいない未来なんて、あっても意味がない」

 その結論に凶器を手に取る前に到達して欲しかった。今の俺ほど手遅れな人間はいない。俺は自嘲的に笑った。やってしまったのは冬子で俺ではないのに、まるで自分がやらかしたかのように鼻と頬で笑った。冬子はそのままの格好で荒く息を繰り返して、視線を動かない俺に落とす。

「なんてことを」

 俺は冬子を見ている。ただじっと見ている。冬子は小さく叫んでから頭を抱えて震え出した。目が闇を呑んだみたいに深く黒い。その瞼がゆっくりと閉じていく。

「私が悪い。私が悪い。私が」

 悪い。間違いなく悪いのは冬子だ。俺は無垢の被害者だ。

「どうしよう。……勝、いない、どうしよう」

 冬子の目から涙が溢れる。ひと粒、ひと粒、大粒の涙が頬を伝う。それはダイヤモンドよりも輝いていて、犯した罪の対極にある純真さを孕んでいる。流れ落ちた涙が俺の喉に落ちて、まるで命を与えるみたいに傷口から吸収されて行く。だが俺は生き返りはしない。冬子はそれ以上言葉を発さずにただ泣き続けた。俺はその姿を見ていた。この涙を見るために俺は生まれ、死んだのかも知れない。それが身勝手な行為と後悔によって搾り出されたものであっても、輝きに嘘はない。俺は敬虔さと不遜さを混ぜた気持ちになった。冬子を抱き締めたい。これまでで一番抱き締めたい。だが、出来ない。涙を拭うことも出来ない。

 冬子は涙を流し続け、ときに、勝、と俺の名前を呼んだ。俺は、冬子、と応えてみたり、黙ったままだったりした。俺は涙の煌めきだけに心を奪われ続けた。冬子は俺に乗ったまま泣き続け、涙が俺に落ち続けた。

 流れる涙を俺は見ていた。

 永遠に輝けばいいのに。


(了)

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