最終話 一年後

川のほとりで、舞婀はただ眠っていた。痛みや苦しみは少し前から感じなくなり、今は川の流れる音のみを感じて…また、それが不思議とだんだん心地よくなっていたのだ。今の彼女の脳裏には無色透明の水が流れ続けているような、清らかで澄んだ世界が広がっていた。彼女自身の意識もその流れの中にあり、息をすることもなく、その浮遊感に身を委ねる。ただぷかぷかと、何も苦しくはない。


ただし、何の負荷もない代わりに、彼女は体を動かすことができなかった。体は自分の意識から離れていき、周囲にある透明な物の流れに押されることしかできない。このままでいたら、時期にに考えることも出来なくなるだろう。

ただ…それも…悪くない。


「なりませんよ、舞婀。」


耳元に声が届いた。その瞬間、彼女の周りの透明な物は微かに固くなり、流れが弱くなった。


(誰の…声だっけ…)


「目を開けなさい、私の顔が見えませんか?」


懐かしい声。聞いたことがある。

その声の主人を探し、彼女はの中で目を開いた。体を起こそうと意識するだけで苦痛が戻り、すぐに先ほどまでいた心地よい流れの中に帰りたくなった。


「頑張って、私はここにいます。」

「目を覚まして。」


だんだんと…意識もはっきりしてきた。

(これはそうだ、もっともっと昔に出会った…)

(…もしや、皇后様でしょうか?)


「ええ、その通り。私は武宗の妻…あなたを自らの子供のように育てた者ですよ。」


彼女は現皇帝の皇后…今は亡き、白宗の母であった。彼女はかつてまだ若かった舞婀を養育し、その後白宗を産んだ時に亡くなったのである。舞婀は何故、死んだ彼女が自分と対面しているのか疑問を浮かべたが…それも辞めた。


彼女の声を受けて、舞婀の周りを取り囲んでいた流れはもはや止まり、固形の硬い板のようなものに変わっていた。寝そべっているのも辛く、体から血が抜け出る感覚さえ戻ってきた。それでも、彼女は必死に皇后の声に耳を傾けた。


「貴方はよく頑張りました。私の息子を救うために奔走し、そのために今は死に瀕している。」

「私はあなたに死んでほしくない。」


(…勿体無い御言葉でございます。)


「ほら、しっかり意識を持って。ちゃんと聞きなさい。」


(…はい。)


「貴方には伝えなければならないことがあります。話せるならもっと早くに話したかったけどもね。」


彼女は一つ息を吸うと、言葉を続けた。


「…私には一つ反省がありました…それは私の夫を信頼できなかった事。」

「私も侍女として貴方と同じように皇帝を一生を賭けて守りました。陛下をできる限り危険から遠ざけ、ずっと部屋の中に…そして彼を他の者とできる限り接近させなかった。」

「その結果、武宗は私に依存してしまった。」


(…)


「知っていますか?武宗は私が死んでから、一年ほど経って今の妻と再婚したのですが、彼は私の事を少しも忘れていなかったのですよ。」

「彼は私の事を思うあまり、国事に手がつかなくなった。そのままでは前を向くことが出来なかった。だから、形だけでも再び妻を迎えて、再び国を背負う覚悟を持ったのです。」

「結果は知っての通り、北独という外敵を招く事になった。」


彼女の口調がやや沈んだ。


「私が今から伝えるのは、貴方が目を覚ましてからの事についてです。」

「貴方は同じ轍を踏んではいけない。私の失敗を乗り越えて、白宗を助けてほしい。」


(承知しました。)


「それでは話を進めましょう。」

「あなたは白宗のわがままに悩んでいますね?」


(…はい。私は殿下に、自身の命を最優先にして欲しいと心から思っております。しかし殿下は私を気にかけて、思うように生きてくれない。)


「それは彼に窮屈な思いをさせているかも。」


(皇帝として生きるならば、多少の窮屈も耐えて頂かなくては…) 



「貴方は、少し白宗を甘く見ていませんか?」


(私が殿下を…ですか?)

(それは天に誓って有り得ません。殿下の命こそが最上であるが故に、私はそう感じるのです。)


「甘く見るといっても、『軽んじている』という意味ではありません。貴方は皇帝を完全なる神のように看做している…そんな気がします。」


(それは…)


「皇帝は人間なのですよ。人間は心に傷を負う。特に、愛する者を救えなかった時に心に残った傷は一生治らない。」


(それでも…彼の命が無くては…)


「ただ生きる事に意味はありません。人間らしく生きる事に意味があるのです。」


(人間らしく…とは。)


「苦しむ事を認めて生きる事です。」


『苦しむ事を認める』。

彼女の人生において、白宗に少しもさせてこなかった事であった。


(私は…殿下にそれを教えなければならない。私は…のもとに帰れますか?)


「貴方の心が望むなら。貴方の身体は既に白宗と、貴方のが救っているはず。」


(あの二人が…私をですか?)


「ええ。白宗は彼女達に奇跡的に出会えたようです。」


(……………)


「色々多く語りすぎましたが、これで最後にします。」

「生きる事は苦しい。抱えなければならないものも、苦しんで負わなければならないものも多すぎる。」

「それでも、それを手放す解放感に負けないでほしい。苦しみを抱いて生きてください。」


舞婀は少しずつ、瞼を開く。月の光が眩しいほどに目にかかって、また目を閉じたくなった。それでも、自分の手から伝わる、彼の体温が無理矢理に彼女の目を覚ました。


「…舞婀…やっと…目を開けてくれたな…」


声を出すことも出来ない、体を起こすことも出来ない。横たわる彼女に、覆い被さるように彼は抱きしめた。目だけを回して周囲を確認すると、彼女は馬の引く車の中にいることがわかった。周囲には蜘蛛の足を持った女…舞婀の妹の二人も座っていた。


「…もう…大丈夫だからな。」

「もうお前に気苦労をかけさせないから…もうこれ以上何も求めないから…」

「予と共に…新たな都に行こう。何も恐れず…何にも傷つけられない、新たな都に…」


彼女は身体中の痛みをはっきりと感じながら、ただ片手だけを使って彼の頭を撫でた。



———————————————2ページ目



南都の朝日は北のそれよりも遥かに広大な世界を優しく暖めた。それは南の地形が、山や谷の少なく、陽を遮る物が少ない平坦なものであったからである。それゆえに、外の国からの防御という点で、北都よりも遥かに弱体化しているはずであった。


馬を駆けて迫り来るのは北独の兵士達。彼らは未だに南に逃げ延びた皇帝の息子を諦めきれないでいた。幾度となく襲撃を繰り返し、その度に白磐の兵士たちと鎬を削った。だがしかし、北独からしてその闘いは今までよりも険しく、そしてある部族の介入もありより困難なものとなっていた。


その部族の名は「烈奴」。かつて白宗に味方し、舞婀の命も救った東方の少数民族である。

歴史上において「烈奴」とは、東方世界における最強の傭兵集団として他の民族から永く恐れられてきた民族でもあった。この民族の誕生にはある神話がある。烈奴の祖となった男は、嘗て女の姿をした蜘蛛の怪物に見初められ、彼女と子を成したのだ。以来、この民族の女子は通常の四肢に加え、「毒牙」「糸」など様々な蜘蛛の能力を開花させてきた。


白磐の関所へと馬に跨った北独兵が攻め入るが…それを歯を見せて笑いながら、罠にかけた蜘蛛の女がいた。ジョロウグモと言った大型の蜘蛛である。

目に見えないほど極細の繊維、しかしその強度は弓の弦よりも丈夫であり、尚且つしなやかであった。それに気づかず突撃を行った兵士は、馬ごと大きく転倒したり、糸が首を絞めたり、もしくは首の骨を折ったり…ともかく、彼らは無策にこちらを攻めることができなかった。


逆にゆっくりと歩いて白兵戦を挑んだ兵士に対しては…地中から神出鬼没に現れる蜘蛛が食い殺した。トタテグモやジグモといった奇襲の天才種である。地中に潜み、地上に這わせた糸から伝わる振動で敵を察知した彼女らは、無防備に歩き回る敵兵を容易く牙で射止めることができた。


そして草原といった開けた地で彼らが開戦を望めば…機動力、戦闘力ともに最強とも呼べる蜘蛛が相手取った。ルブロンオオツチグモ、カメルーンレッドバブーンといった西方から集まった烈奴民族の精鋭達である。その巨体は敵兵を馬ごと余裕で組み伏せる膂力を備えており、剣で斬りかかろうが、槍で攻め入ろうがお構いなしに敵兵を牙と図太い脚でねじ伏せていた。


白盤の周囲全てを世界中の蜘蛛達が守護した。それはかつて受けた庇護の恩を返すため、そして舞婀夏巫という大国に嫁いだ同胞…ある者にとっては親族…を守るためであった。北独の兵はやがて予想のできない彼女らを恐れ、南の都からは手を引くことが余儀なくされた。


———————————————3ページ目


「殿下、おはようございます。」


彼女は簾の隙間から、髪を結いながら彼を見つめていた。まだ早朝であったから、彼女は着飾ることもなく軽装で彼の前に姿を現す。


「おはよう、舞婀。」


彼は寝具から体を起こすと、彼女の後ろに回った。


「髪は予が結んでやる。そこに座れ。」


「はいはい。」


彼女は軽く微笑み、その命令を喜んで受ける。


 一年前、彼女は白宗に救われた時から、彼に対して目線を変えていた。彼女にとって彼は、ただ自分が守護する相手ではなく、対等な伴侶としても認めたのだ。

それは決して彼を侮っていたのではない。ただ彼は幼く、自分は強かったからである。強者は弱者を守るべきで、決して守られるべきでない。言葉を選ばずに言えば、「弱者は何もできるはずがない」と信じていたのだ。


確かに蚕とは、育て手が居なければ生きていけない、生物として弱い種である。ただし、それはただ“生物として見た”場合である。

もっと視野を広げてみよう。私たちの世界において、中央ユーラシアを通る「絹の道」はかつて何百万人のの生活を支えただろうか。近代化を進める日本の経済をまず最初に支えたのは蚕を用いた養蚕業だ。現代においても、生命の尊さを教えるため、社会理解のため、小学生の教材として養蚕を用いる教育もある。

“弱い”ことと、それを“頼る”ことは両立される。


彼…白宗もそうだ。

彼は紛れもなく弱い。肌は繊細で、気も弱く、誰かの手が無ければ生きられない。だが、それに甘えることもしなかった。彼は「舞婀と生きる」という夢を持ち、そのために文字通り命を賭ける覚悟があった。だから、彼の生命には価値が生まれたのだ。


彼は彼女の柔らかくサラサラと解ける髪に触れ、優しく結い始めると、彼女の後頭部に残ったその傷口を、密かに隠したのだった。

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絹を産む少年 リバテー.aka.河流 @rivertee

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