第六話 一人
流れに流された果てに、遥か南東へと辿り着いていた。彼女はただ流れに身を任せただけではない。イオウイロハシリグモは元より水辺での活動を頻繁に行い、小魚すらも捕食対象とする蜘蛛である。その為負荷を軽減しつつ、河の流れを使いこなし、効率よく下流を進めたのだ。
彼女は這い上がるように、腕の力だけを使って岸へと上がった。髪と濡れた砂がベタリと顔面に張り付き、前が見えない。
「舞婀…しっかりしろ…!」
白宗は彼女の背の脚に抱えられ、水上に保護されていた為、河の流れに被害を受けなかったが…彼女の傷は水中で悪化していた。水に触れていたせいで血液はスルスルと体から抜けていき、体温の低下が著しく衰弱させた。
「………でんか。」
白宗は包みを破ると、弱々しい声を出した彼女を確認する。ピクリとも動かない体。手で押しても、ただ肉が揺れるだけ。
「…逃げてください。」
「嫌だ…嫌だ嫌だ!」
うつ伏せに倒れる舞婀の体を引っ張る。しかし、一切動かすことができない。次に彼は彼女の体を僅かに浮かせて、その下に体を潜り込ませようとするが、それも出来なかった。
「頼むから…動いてくれ…!」
「不可能です、非力なあなたでは。」
「何故そんな冷たいことを言うんだよ…!」
どれだけ努力しても、彼の力では動かない。
無力のあまりに体が震えて、吐き気がしてきた。だが、彼はもう以前の彼ではなかった。自分が、他の力を借りなければ生きられない弱い生物だと自覚していた。
「わかった…予が…助けを借りてくる!」
「…!」
「やめなさい…もう、どの村が敵の手に落ちているかもわかりませんよ…!」
「止めれるものなら止めてみろ!」
「予は絶対にお前を助けるからな!」
「待って…!お願い止まって!」
「行かないで!!!」
言葉使いも乱れ、必死に声を出す。死にそうな体の全ての力を込めて、体を僅かに起こすと、彼の手を取った。
「お願いします…私のことは置いて行ってください…!もう我儘が通る状態じゃないんです…!」
「あなたの命で…国の未来が大きく変わるんですよ!」
「だったら尚更だ!お前のいない世で…予が生きていけると思うか?」
「お前と予は…もう同じ命なのだ。」
裸足のまま駆けていく白宗…彼女は手を伸ばしてももう止められない、届かない。
「あぁ…あ…あ…」
闇夜に消えていく彼を、ただ弱った瞳で見届けてしまった。
————————————————2ページ目
(痛…い…)
ただでさえ繊細で切れやすい、彼の足の裏。裸足で走る森の中は彼の足にいくつもの傷を与えていた。しかし、その足を止めることはない。彼女と共に未来を生きたい…そのわがままを突き通すためには足を動かし続けなければならなかった。
砂利や小石、木の枝といったものは足を出血させ、隆起していたり、柔で沈みやすい地面は足に強い疲労を与える。舗装された宮殿の床とはまるで違う負荷が、次第に彼の気力を抉り取っていく。そして一度集中力も切れてしまえば…
グサッ…
「ッ…!」
右足全体が棒になってしまうような激痛。彼は堪らず前に倒れて、その足を庇った。急いで確認してみると、細く、しかし硬い…釘のような枝が足の裏に深く刺さっていた。
痛い、痛い、痛い。
全ての思考が滞り、脳内はソレに支配される。
それでも…それでも…
自分で怪我の処置などしたこともない。彼はその枝を力一杯握り、それを垂直にすっぽ抜く。たちまち、むき出しの筋肉がヤスリに擦り剥かれるような痛みと…止めどない出血。
ただ自分のために走っているなら、ここで止まってしまいたかった。
…だが。
「止まって…たまるか…」
片手で木を支えにしながら、ゆるゆると立ち上がり、また歩き出す。もう走ることは出来ず、片足けんけんで進むほかないのに、それでも諦められない。
実は…もう自棄の域に達していたのかもしれない。「間に合わない」とか、「助けが見つからない」とか。どれだけボロボロになって意地を見せたとしても、それで希望が叶うかどうかは全くもって保証されていなかったから。ただ、理屈を理由に歩くのをやめたくなかった。「もしかしたら」が力の源だった。
もしかしたら…
もしかしたら……
もしかしたら………
そのがむしゃらが、か細く、どこか怪しくも…それでも確かな奇跡を手繰り寄せた。
一秒に一歩、もはやその程度の速度で歩き続けていた彼に、音が聞こえた。
カタカタという不思議な足音。
楽しそうに談笑する女の声。
例えるなら「飛んで火に入る夏の虫」。引き寄せられるままに彼はその音の方向へと進んでいく。それが味方してくれるものか?自分を捕えようとするものか?それは賭けだった。
「だ…誰か…」
息吹のような、弱々しい声。彼は手を伸ばしながら、その集落と思しき所へ声をかけた。
その瞬間…彼の背後に何かが現れた。
「 WH AAR YU 」
耳元に吐かれた獣のような…濁っていて、そしてこちらを脅すような、震えた声色だった。彼はまさしく背筋が凍るような恐怖に身が棒になり、振り返ることも声を出すこともできない。空いた口は震えるだけで閉じることもできなかった。
さらに前方から、矢のような恐ろしい速度で何かが迫ってきた。ただ「殺される」と本能的に感じた瞬間…それは意外にも通り過ぎて、彼の背後にいた誰かに接触した。
気がつけば先ほどまでの殺気は収まり、彼は息を整えてその背後を確認する余裕まで生まれた。何も刺激しないように、彼は首だけを右に回転させ、さらに目をできるだけ右に回し、後方を確認した。
そこにいたのは…蜘蛛の脚を背中に生やした二人の女であった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます