第二話 桑
翌朝、侍女に体をゆすられ白宗は目を覚ました。朝食の時間だ。彼女に手を引かれ簾を抜けると、隣の部屋へとぼとぼ歩き始めた。
彼女が椅子を引き、それに腰を乗せる。
そして目にしたのは、皿の上の山盛りの桑の葉。皇帝一族は子供の時に、この桑の葉を食べる。そうすることで蚕の血を引く彼らは、絹糸を産み出す体に成長出来るのだ。
「…」
なんとも言えない…ジッとした目つきで彼は皿を見つめる。いくら虫の血を引くと言えど、やはり感性は人間のソレである。
彼が食べしぶるのを見て、侍女は横から顔を出した。
「いつものアレを致しましょうか?」
その言葉を聞くなり彼は「顔を赤く」して桑の葉を食い始めた。
「いらん。あんな赤子の飯のようなモノを食う気はない。」
残念そうな表情を浮かべる彼女の横で必死になって箸を動かすが…やはりダメだった。桑の葉は漢方のような苦味と、砂利のようなチクチクとした歯応えが最悪の食い心地で食えたものでなかった。歴代の皇帝もこの「桑問題」に悩まされ、それに付随した体重の低下や栄養失調に苦しんでいた。彼らの足跡を踏み、時期皇帝の白宗もついに桑の葉に白旗を上げた。
「…やってくれ。」
「了解しました。」
意味ありげに満足そうな顔を浮かべた。
彼女は彼の前に身を乗り出すと、三本の指を使って桑の葉を数枚掴み上げた。そしてそれを…口の中に放り込んだ。
モシャモシャ…モリ…モリ…
目を瞑り、丁寧に丁寧に歯で葉をすりつぶしていく。口の中で「体液」と混ぜ合わせ、それはペースト状に蕩けていく。
そして、一分ほど経った時。
彼女が何も言わぬまま、トントンと自身の口を指で指した。これが「完成」の合図だ。
白宗は頬を紅潮させ、僅かに顔を背けた。しかし彼女はその臆病な姿勢を許さない。彼の顎に手を添えると、クイとこちらに向けさせしっかりと目を合わせた。数秒の沈黙の後、彼は覚悟を決めたように彼女にうなづいた。
すると、彼女によって強く抱きしめられ、薄い布の奥に秘めたその豊満な胸が彼の胸に押し付けられた。幼い彼には強すぎる「柔らかな刺激」。下半身のそれが硬くなるのを感じた。その衝撃が全身を貫くのも束の間…二人の唇が触れ合った。
「んっ…」
口と口が繋がった瞬間。
にゅる…と彼女のぬめついた舌が彼の口の中に侵入した。舌先がチロチロと触れ合い、彼は目を見開いてその快感に身を震わせる。彼女の舌は逃れようと暴れる彼の物を捕まえ、二頭の蛇のように絡み合って離れない。唾液が間を渡り、みだらな水音が響く。しかし、この熱に溢れた接触も単なる前戯に過ぎない。
次に、口の中に生暖かい…トロリとした物が流し込まれる感覚が。それは彼女の唾液と共にミキサーにかけられた桑の葉のペースト。しかし、あの不快な食感は消え失せ、スルスルと食道を通過していく。しかもただ食いやすくなっただけでない。
(…甘い。)
アクを感じる苦味しかなかったあの桑が、彼女の口内を通った後には果糖や餅米のような柔らかな甘味へと変化していた。食いやすい…という次元を超え、むしろ唾液が溢れ、もっと食っていたくなるような幸福がズクズクと脳に刺さる。
「…んはっ」
完飲。頭を溶かすような甘さと、興奮…そして舌の触れ合う快感。全てが喉を通り過ぎた。
「いかがでしたか?」
彼女は目線を合わせるようにしゃがみ、彼の口を麻布で優しく拭きながら尋ねる。
「…美味であった…有難う。」
「お役に立てて光栄です。」
「変に意地を張りなさらず、最初から私を頼りなさるほうが良いと考えます。桑の葉を苦労して召し上がっていらっしゃった歴代の皇帝に比べたら…殿下がいかに恵まれていましょうか。」
「…そうだな。」
「お前をそばに置ける私は、確かに恵まれているかもしれないな、舞婀。」
軽やかな微笑みを受け、彼女も自然に頬が緩む。
舞婀、本名「
彼女は盆に乗せた皿を部屋の外にいた使いに引き渡し、座ったままの白宗の元へと速やかに戻って言った。
「本日は殿下のご要望に従い、北独の者と交渉を行って参ります。」
「…!」
「本当か!」
「しかしこれは外交の範囲でございます故、私の独断では事をなすことが出来ません。」
「一度、皇帝陛下(白宗の父)に申し上げ、そのご許可を頂いた上で彼らに掛け合うつもりでございます。」
「そうか、わかったぞ。」
「そしてそれにより恐らく…今日一日、私は殿下のお世話を致すことも出来ません。」
「なっ…!?」
「無論、私と位の近い他の使いを殿下にお付けします。本日の糸繰りはその者と…」
「待て!」
彼が椅子を強く引いて立ち上がる。彼の瞳は震えている、そして迫るようにして彼女の手を掴んできた。
「私は…『お前』に居てほしい。」
「お前がいなければ、私は恐怖に潰されてしまう。奴らの前でどんな屈辱を晒すかも知らん。」
「なりません。彼ら騎馬遊牧民との交渉は極めて危険が高く、私以外の者には任せられません。」
「他の誰よりも…お前が大事なのだ。」
「私は違います。宮中の誰も私にとっては替えの効かない存在。」
「彼らを裏切れません。」
彼女の目は少しも揺るがない。その様を見て、白宗は自分の願いがあまりに子供っぽく甘い物だと恥じ、顔が熱くなるのを感じた。
「…お前は…立派だよ。」
「わかった。行ってこい。ただし、必ず私の就寝までには帰ってくるんだ。」
「ふふ、了解致しました。」
彼女は白宗を抱えて簾の中に戻すと、深く頭を下げて退出した。戸が閉まり、彼は布団の中に身を潜めた。
———————————————2ページ目
宮の最上階。金箔と高級な布で飾られた、最も荘厳で巨大な一室。
「入りなさい」
清水のような、透き通った声だった。
舞婀は足を踏み入れ、その男と出会う。
「ご無沙汰していました、武宗皇帝陛下。」
彼こそが現皇帝「武宗」。白宗の父であり、舞婀を彼の侍女に推薦した者である。
彼はやややつれていた。
しかし、床に浸るほどの長い白髪の柔らかさや艶は、まるで十代の若者のように脂が乗っている。その尊顔は生娘のように清く嫋やかで、
「本当に久しぶりだね、舞婀。」
「昨日のうちに送ってくれた文書で大体の経緯は把握しているよ。北独との交渉だね?」
「はい。ご子息、白宗殿下きってのお願いでございます。」
「…そうだよな。白宗には…謝りきれないことだ。私の責任だ。」
彼は机にもたれかかり、頭を垂らして目を細める。その苦痛に満ちた表情はどのようにも表せなかった。
「北独との交渉を許そう。必要であれば私もその場に出向き、君の味方となる。」
「御心遣い感謝致します。」
「しかし、それはご辞退申し上げます。皇帝陛下の力は絶対であるべきです。私ごときの隣に立ってはなりません。」
「なるほどな、わかったよ。」
彼は軽く笑う。彼女の態度は皇帝から見ても素晴らしい物であったからだ。例え他民族相手であっても、皇帝こそが頂点であるということを決して疑わない国への忠誠。彼女のその気概は周りにいるものにも自然と希望を与えていた。
「そうだ。いつか話そうと思っていた大事なことがあった。」
「実は北独には秘密に、国に新たな都を作っているのだ。彼らの支配の及ばない遥か南方にな。」
「…!」
「既に城塞や国を回すための道路も完成している。そして将来的にはお前や多くの民をそこに移し、皇帝には白宗を即位させる。」
「国の北部を奴らに渡してしまうかもしれないが…それでも国の全てを渡すわけにはいかない。」
「…陛下は。」
「私か?」
「…私はここに残るよ。北独を招いたのは私の責任だからな。皇帝と都を手に入れれば、奴らは南方の小さな都のことなど気にかける必要はないからな。」
「それに、私は彼らを恐れていない。私が本当に恐れるのは国の全てを奴らに明け渡すことだよ。」
「陛下…」
「…承知しました。その時が来たら、私が先頭に立ち民を率います。必ず…必ず殿下と国は守りますので…」
「心強いよ。」
彼の前に彼女は跪き、それを褒めるように武宗は頭を撫でる。二人の関係は白宗の生まれる前から、十数年の長く重厚なものだった。いつかおとずれるだろう別れの時を互いに覚悟し、そしてわかれた。
舞婀は許可の降りた北独との交渉のため、同じ階を移動する。そして皇帝の部屋の真反対、これまた巨大な一室へと足を踏み入れようとした…その時だった。
「待ちなさい。」
北独の者と思しき男たちが彼女を囲った。見たところ地方の豪横らしき者も数名。直後に彼女は服の中に隠した刃物に手を伸ばす、最大の警戒を伴って。
「私は皇太子殿下の侍女、舞婀夏巫と申します。殿下の糸繰りの業についてお話をさせて頂きたく、参上しました。」
冷静に、業務的に言葉を発する。
「舞婀殿、平静を取り繕わなくて結構。随分警戒していらっしゃいますね?」
「私たちは少しの間、一緒にいて欲しいだけですよ。」
「そうそう、別にあなたを特別乱暴したい気もない。ただ…あなたがちょっと邪魔なだけ。」
「!」
後方から異様な気配を察知。しかし迫り来るそれを察するには遅すぎた。
ドゴッ…
彼女の後頭部に鈍重な衝撃。目を見開いたまま、糸がプツリと切れたように、彼女の体は崩れ床に倒れ伏した。
「数日だけだ、奥の部屋に軟禁しとけ。」
ピクピクと弱い痙攣を起こし、彼女は動かなくなった。脇を抱えられ、引き摺られるように別室へと連れていかれる。
武宗も舞婀も…誰も予期していなかった最悪の事態がここから巻き起こる。白磐の侵略の本格的な開始だ。
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