第三話 気持ち悪い

「…遅すぎる。」


白宗は寝具に座り、舞婀の代わりとして来るはずの使用人を待っていた。しかし部屋を訪れたのは昼食を持ってきた給仕のみ、待てども待てども使用人は来ない。そして給仕は皇族を見たり会話したりすることが許されていなかったため、そこで状況を尋ねることも出来なかった。


やや不安を抱きながら、おそるおそる部屋の外に出て、台上の食事を取り部屋に戻った。朝食の桑とは打って変わって、昼食は饅頭だった。中には甘塩っぱい餡が詰まって、朝と比べれば最高の美食…だが…



「舞婀…」



孤独。物心ついた時から…ずっと側には彼女がいた。彼の人生にとって彼女がいない食事というのはあり得ない事態だった。一人では外の光を浴びることも、入浴も…何もしたことがない。方法がわかっていても、隣で指示してくれる彼女がいなければ為せる気がしない。


日が沈み始め、不安は少しづつ恐怖へと姿を変えていく。あの時間、北独の者の糸繰りの時間が近づく。



(嫌だ…嫌だ嫌だ嫌だ…!)



もし護衛の者がいないことが奴らにバレたら、一体何をされるのか。ひっそりと部屋を逃げ出すことも考えた。しかし、その様を誰かに見つかったら、まして北独の者に捕まったら。皇帝の権威は?自分の身の安全は?



保身…恐怖…焦燥…混乱。

時の流れが加速するように感じ、暗くなっていく部屋に意識が飲み込まれる。いつしか頭の中が真っ暗になり、意識の曖昧なままに寝具にへたりこんでしまった。これからのことを考える気力も湧かずにただ時間に身を任せてしまった。そして、その時が来た。




「殿下。」


(!!!)


あの男だ、あの男が来た。野獣のように乱暴で、獰猛で、気持ちの悪いあの男が。部屋の戸の先には…奴がいる。

彼は簾の中の寝具に潜り込み、ただ何もいうことができずに縮こまる。汗が服に滲み、体が凍えるように震えて止まらない。


(待て…予が許可を与えない限り…奴は糸繰りを出来ないはずだ。この場で拒否さえすれば…)


彼は布団からソロソロと音を立てぬように、体を起こす。そして、拒否の意を伝えるために、弱々しい足取りで簾を抜けようとしたその時であった。


「入りますよ。」


その言葉を聞いた途端に、全身が硬直した。直後、「ギィ」という戸の開く音が聞こえた。彼は頭の中でまとまっていた思考が吹き飛び、恐怖の一色に支配された。


「ひっ…!」


「拒否さえすれば」という考えがどれだけ楽観的であったか、ひしひしと思い知らされた。彼は転がるように寝具に倒れ込み、簾の奥のぼんやりとした人影をただ見つめる。奴はこちらに迫ってきて、その薄い布越しにいるのだ。


「殿下?」

「いらっしゃいますよね?」


奴の一言一言が心の支柱を揺さぶり、そしてへし折ろうと迫ってくる。もう許してくれと、彼は涙を溢しながら必死に頭を横に振る。簾という最後の防壁は今にも破られようとし、そしてそれを失えば彼を守るものはなにもない。そのあまりの無力感に、殺されてしまうのではないかとすら思えた。


簾の隙間に指がかかった。


「あぁ…くるな…やめて…」


心臓が止まりそうなのを必死に動かして、息を漏らすような弱い言葉が吐かれる。


「おねがいします…こないで…」


彼が、命乞いを始め、泣き声を漏らしたその時だった。


「『やめて』と言いましたか?」


奴は簾の外から、確認するように話しかけてきた。力の抜けたような、軽い口調で。


「…今日は糸繰りをしたくないのでしょうか?」


「………え。」


絶望の中に、微かな一筋の光明が見えた。

彼は奴の問いに本能的に言葉を返す。


「…したく…ない。」


まるで幼児のような情けない声だった。その声の後、部屋は静まり返り、時が止まったかのような感覚を覚えた。沈黙を破るように、奴は言葉を返した。


「本日の糸繰りを見送る…ということでよろしいですね?」


再度、確認するような言葉。


「ああ、今日は…したくない。」


「………」

「了解しました。それではまた明日会いましょう!」


足音が遠ざかり、戸が開き、閉まる音。彼が簾の隙間から確認してもやはり奴はもういない。男は冗談かと思えるほど、軽く、簡単に帰ってしまった。そしてそのまま、奴は帰ってくることはなかった。


彼は悪夢でも見だ気分で、再び寝具に沈み込む。身体中が汗でびっしょりと濡れて、また涙で瞼が腫れた。どうにか体を拭きたくても、もう体を動かす体力が残っていない。


「…舞婀ぁ…舞婀ぁ…」


彼女は約束の時間になっても帰ってこなかった。しかし、だからといってどうすることもできない。彼は手を空中で何かを手繰り寄せるように動かし、彼女の名を何度も呼ぶ。しかし言葉は闇に消えていくばかりで、それが何かを返すことはなかった。疲労、恐怖…夜。

彼は生まれて初めて、一人で夜を過ごした。


———————————————2ページ目


翌朝、彼は陽の光の中で目覚めた。汗を纏って気持ちの悪い感覚。彼は棚を開けて清潔な布を取り出し、それをボトルの中の水と合わせる。それで丁寧に体を拭いていくと、当たり前だが体は綺麗になっていく。彼はその過程で昨夜のことも思い出しつつ、ある考えが浮かび始めた。


「案外一人でも…やっていけるもんだ。」


一人での就寝、一人での身支度、さらに異民族のあの男を追い返すことも、自分は一人でこなせた。次の敵は朝食の桑。


「不味い…が。」


先代達の超えてきたものを、自分も乗り越えるだけだ。別にこれ以外の飯を食えないわけでもなく、ただ日に一度不味い飯を我慢するだけなのだ。気づけば完食、あっけない試練だった。


「ふふ…舞婀が帰ってきたら…自慢しよう。」


彼女はきっと仕事に奔走しているのだ。自分はそれまで一人でも生きていられる。


日暮れ、またあの時間。

しかし今度の彼はただ恐れるだけではない。彼は今日、奴を部屋に入れさせずに追い返すつもりだ。


「殿下。」


戸の奥、わずかな距離の先にあの男がいる。彼は手に汗を握りつつも、目はしっかりと見開き、その向こうの男を見据えていた。


「…今日の糸繰りも断らせてもらう。」


吐いた言葉はやや震えていた。しかし、はっきりと喉から、力を込めて話しかける。彼はこの一日を通して以前とは見違えるほど自信を確立したのだ。もし奴が戸を開くのならば、面と面を向かってもう一度拒否の意を伝えてやる、そう言えるほどの自信を。


「左様でございますか。」

「それでは。また明日。」


またも男はそれで立ち去り、彼は戸の裏でほくそ笑んだ。所詮奴らは皇帝を前にしてどうこう言えるほどの力を持っていないのだ。もう奴らを恐れる筋合いはない。


———————————————3ページ目


舞婀が帰らなくなってから三回目の夜だった。

流石に彼女が遅すぎると不安に思いつつも、それでもやるべきことは変わらない。今日も変わらずやってくる北独の男を追い返すのみだ。


「殿下。」


来た来た、学ばない奴らめ。


「今日もだ、糸繰りは断らせてもらう。」


これで奴らはまた何もすることができず、手ぶらで帰っていく。それだけだ。それだけで終わる…はずであった。


「糸繰りを辞退なさいますね?」


「ああ。」


確認の言葉が返ってきた。どうせすぐに帰ることになるのだから、確認なんてせず早く帰ればいいのにと頭に浮かべたその時だった。


糸繰りを辞退なさいますね?」


思わず言葉に詰まった。奴の今の言葉は、今までの言葉とは何か重みが違った。この言葉の返答は…何かこの先の未来を左右しかねない、そんな気さえしてくる。

だが…返答は変わらない。


「ああ、断ろう。」


「………」 数秒の沈黙。


「了解しました。それでは。」


…やはり奴は帰って行った。結局いつもと変わらない、簡単な問答。しかしどこか引っ掛かるような気もした。特に奴の去り際、今までと違って『また明日』と奴は言わなかった。どういう意味があるのか、何か困惑ような気持ちを抱えながら、また彼は一人で眠りについた。



————————————————4ページ目




深夜、彼は弾けるような轟音によって目を覚ました。それは岩山が崩れるような、もしくは雷が落ちるような。さらに断続的に宮廷が大きく揺れるのも感じた。これは自身にも直接的に関わる危機が迫っていると感じ、彼は急いで立ち上がる。


彼は外の様子を確認せんと簾を抜け、戸に手をかけた。一人でこの部屋の外に足を踏み出したことはない。しかし、事態が事態だ。彼は意を決して戸を開いた…その時だった。




「こんばんわぁ…白宗でんかぁ…」



「ひぃっ…!」


髭面のあの男が舌を垂らして立っていた。彼は予想だにしていなかった光景に心臓を握りつぶされるような心地に襲われ、思わず飛び退き床に腰をついた。

とにかく、奴の顔はひどく歪んでいた。

目玉は張るように強く飛び出し、ぐるぐると回転して別々のところを見ている。さらに舌と不揃いな歯は曝け出され、空気を舐めるようにベロベロと口を動かしている。背を丸めて、犬のようにはぁはぁと息を切らしている。その姿はまさしく肉食の獣というほかなかった。


「でんかぁ…ずぅっっっと…アタシは待ってたんですよぉ…」


「やっ、やめろぉっ!くるなっ…!!!」

「予の命令を聞けっ…!」


座り込んだまま後ずさる彼に奴が迫り、その正面に立ちはだかると、彼は言った。


「でんかの糸繰りを我々北独がすることが和平の条件だったんだよ…それをでんかは三日も断っちゃったもんねぇ…」


「!?」

「お…おい、なんだ、だから何だと言うんだ!」


「契約は不成立。この国は滅ぼさせてもらいます。」


刹那、白宗の顔面を強烈な衝撃が襲った。


ドダンッ!!


彼は床に頭を打ちつけ、その衝撃に震えた。痛みを探るように手を鼻に添えると、べっとりとした感覚が掌に広がる。鼻からは濡布を絞ったような多量の出血が起こっており、そのパニックに潰され息を吸うこともできず溺れるような気分がした。


彼はその男に殴られたのだ。生まれて初めて浴びたというものの衝撃が頭の中を駆け巡った。


「ひ…な、なんで…」


「ふぅ…権力を持って生まれた存在を暴力でねじ伏せるのは堪らなく気持ちがいい…」

「もうあなたを守る存在はないんですよ。国の権威も、侍女のあの娘も…」


「…ッ!」

「お…お前、舞婀に何かしたのかっ!」


「ただ殴りつけて寝かせただけですよ。国をもらったら犯すんだから殺すわけないでしょう。」


「お前…お前ぇっ!!!」


彼は怒りに顔を歪ませ、目の前の男に怒鳴りつける。しかしどれだけの怒りを持っても、暴力という現実の前に彼はねじ伏せられる。


彼はそのまま襟首を掴まれ、頬に強烈な張り手をされた。頭が丸ごと吹き飛んでしまうような威力を感じ、顔中に染み渡った痛みに目を潤ませた。


「もう一発!」


パンッ!


彼は衝撃と共に叩きつけられ、床に倒れ伏す。ただ顔面を襲った痛みに震えて、もがくことしかできない。


「はぁぁぁ…でんか…私の歪んだ愛を許してください…」


男は白宗に覆い被さると、彼の顔面を握り潰すように押さえつけ、もう片方の手でがっちりと彼の体を抑えた。彼は盛りのついた犬のように、白宗の首筋に舌を這わせる。


「やめろぉっ!離せ、離せっ…!」


「でんか…でんか…」


べろっべろっ…ジュルル…


舌が欲望のままに動き回り、彼の清らかな肌を汚していく。首筋から鎖骨…果ては脇の下まで舐め回し、唾液が身体中をドロドロに濡らしていく。


(気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!)


彼は必死になって手で奴の顔面を押し返した。しかし、細枝のような腕の力では決して奴を追い返すことはできず、無力にも彼は押し潰される。奴の毒牙は彼の禁断の領域にも踏み込もうとしていた。


ガバッ…


彼の服を強引に捲り、その胸を晒した。恐怖によって鳥肌が立ち、さらにその乳首も硬く尖っていたのだ。その様は男の情欲を煽り、その攻撃を誘ってしまった。奴の舌が胸に迫る。彼はそれだけは回避しようと必死に身を捩り、泣き叫びながら抵抗した。


「誰か…誰か…」

「舞婀あぁっ!!!」


恐怖に支配され、濁った叫び声が響きわたる。そして奴の口が彼の胸に吸い付く…その瞬間であった。




ザシュッ…男の首元に何かが喰らい付いた。


「ぐきゃあああああ!!!」


奴は激痛に堪らず絶叫し、白宗を放り出し手を振り回して体を揺する。しかし首元のそれは離れず、さらに八本の脚を巧みに使って奴に絡みついたのだ。男は苦痛に歯を食いしばり、自分を拘束するものを腕力に頼って剥がそうとするが、それも叶わない。

十数秒後…奴は泡を吹き始め、白目を剥き…やがて顔面から倒れ込んで再び動くことはなかった。


白宗ははだけた服を手で直しながら、暗闇の中に立ちはだかるその人物をよく見つめた。サラリとした黒い長髪…鋭くも奥ゆかしいその目つき…。少しずつ姿が顕になり、その正体が分かった途端、彼は目を見開いた。

それは、彼が最もよく知る彼女。


「舞婀…!」

「舞婀!!!」


彼は彼女の胸に飛び込み、必死に抱きしめる。彼女は微かに微笑みを返し、それを迎え入れる。


なぜ彼女は北独の拘束を抜け出せたのか?どのようにして髭面の男を一瞬にして倒してのけたのか?この八本の足は何なのか?

その答えを先に示しておこう。 


彼女もまた、虫の血を引く特別な人間なのだ。

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