第13話 赤い指で編まれた記憶

公園は、あの日とほとんど変わっていなかった。


 


すべり台の塗装は少し剥げて、

ブランコの鎖は細かく軋んでいる。

けれど、空気の匂いや、木陰の風のやわらかさは、

十年前と変わらぬ時間の揺らぎを纏っていた。


 


ふたりで腰掛けたのは、

小さな丸いベンチだった。


夏でも冬でもない、不思議な季節の午後。

風は静かで、音のない記憶だけが舞っていた。


 


「……ここで、あやとりをしたよね」

糸が小さく呟いた。


 


「うん」

リサの声も、懐かしさに濡れていた。


 


記憶が、音もなくほどけていく。

糸の指に、赤い毛糸が絡んでいたあの午後。

リサが笑いながら、編みかけの形を変えていった。


 


「いつか……結婚しようね」

あの時、そう言ったのは、どっちだっただろう。


 


糸は、手のひらをじっと見つめた。

何も持っていないのに、

そこに“まだあの糸がある”かのように。


 


「……小さい頃さ、

 親のケンカばっかり見てたんだ。

 家に帰っても、誰も笑ってなかった」


 


リサは、糸の顔を見た。

けれど彼は目を合わさない。

ただ、過去のどこか遠い場所を見ていた。


 


「友達もいなかった。

 話し方がヘンだって言われて、

 気味悪がられてさ──だから、

 “喋らなくなった方が楽”だって思ってた」


 


「……そんなこと……」


 


「でも、リサだけは話しかけてくれた」

糸の声は、少し笑っていた。

でもそれは、涙の直前にある笑みだった。


 


「“糸くんの名前、運命みたいだね”って。

 “赤い糸の、糸だもん”って、言ったんだよ」


 


ああ、そんなこと……言った、かもしれない。

リサは胸を押さえた。

子供の無垢な言葉が、

彼の世界を変えてしまったなんて──


 


「それから、俺……ずっと信じてた」

「……?」


 


「リサと結ばれてる“赤い糸”は、

 俺だけが見えるんだって。

 他の誰も知らない秘密の糸。

 ふたりだけで、指に巻いた運命」


 


風が、ベンチの下を抜けた。


 


「運命って言葉は、魔法みたいだね」

「……そうかもね」

「……けどさ、」

「……うん?」


 


「魔法を信じてる人間って、

 信じてない人よりも──ずっと脆いよね」


 


リサは息を呑んだ。

糸が、少しだけ肩をすぼめた。


 


「だって壊れたとき、全部“自分のせい”になるからさ。

 魔法が解けたのは、信じる力が足りなかったから──って」


 


赤い糸なんて、どこにもなかった。

あやとりの糸は、

結んでも、必ず解けるようにできていた。


 


けれど彼は、

“あれを本物の約束だと思ってた”。


 


「……約束だったんだよ、リサ」


 


声が震えていた。

まるで、すべての感情をその言葉に込めているように。


 


「君と俺が、結ばれるって。

 俺は……そう信じて、生きてきたんだ」


 


リサの心に、

小さく、しかし深い罪悪感が沈んでいく。


 


あの言葉は、

笑いながら言ったただの遊びだった。

でも彼は、それを“人生の軸”にしてしまった。


 


無垢な優しさが、

誰かにとって“生存理由”になってしまうことがある。


 


それが、こんなふうに

誰かの首を絞めるほど重くなるなんて──

リサは、想像もしていなかった。


 


「糸……」


 


彼が、こちらを見た。

子供の頃のままの瞳で。


 


「君に、いなくなってほしくなかった。

 誰にも奪われたくなかった。

 だって……リサは、俺の“赤い糸”だから」


 


胸が苦しかった。

言葉が出なかった。


 


帳のような理性でもなく、

糸のような狂気でもなく──

ただ、自分の過去が他人の“呪い”になっていたという事実が、

リサの意識を沈めていった。


 


そしてその時、

リサの胸にひとつの言葉が浮かんだ。


 


──「私、約束を……返せなかったんだ」


 


無意識に、糸の手を握った。

彼の掌は、少しだけ震えていた。


 


そのとき──

風の中に、誰かの足音が混じった。


 


「リサッ!」


 


帳だった。


 


息を切らし、

怒りとも焦りともつかぬ目でこちらを見ていた。


 


次の瞬間、糸が立ち上がる。


 


──三人の運命が、再び交錯する。


 


それは、ほどけない糸が、

再び絡み合う音だった。


「リサ──!」


 


息を切らし、帳が駆けてきた。

手にはまだ、リサの髪留めが握られている。

落としていったそれを辿って、

彼はたどり着いたのだ──“ふたりの原点”へと。


 


「……あんたかよ」


 


糸がゆっくりと立ち上がる。

その声音には、怒りも、哀しみも、

そして深い“嫌悪”が滲んでいた。


 


「ここまで……つけて来たのか」


 


帳は一言も返さない。

ただ、リサを見ていた。

まるで“返してくれ”とでも言いたげに、

その瞳には、明確な**“奪還の意志”**があった。


 


「お前……リサに、何をした」


 


「言葉で縛ったのは、あんただろうが」

「物理で縛ってた奴にだけは、言われたくないね」


 


糸の拳が動いたのは、一瞬だった。

帳の頬に拳が食い込む音が、

静かな公園に不自然なほど響いた。


 


「やめてよっ!!」


 


リサの叫びも届かない。

帳がすぐに反撃する。

糸の肩を掴み、突き飛ばし、拳を振る。


 


「お前みたいなやつが──愛なんて語るなよ!!」


 


「……リサを俺から、奪うな!!!」


 


声が、風を裂く。

リサの足元が震える。

世界の中心で、

“ふたりの男が彼女を所有しようとする”叫びがぶつかり合っていた。


 


──そして、リサの心は音を立てて崩れていった。


 


「やめてよ!!やめてよ、やめてってばああっ!!」


 


その叫びが、すべてを裂いた。

彼女は、ブランコの柱にもたれながら、

その場に崩れ落ちた。


 


しゃくりあげる声。

泣きじゃくる声。

大人でも子どもでもない、

ただ“どうしようもなく壊れてしまった人間の音”。


 


「どうして、どうしてこんなことに……

 私が……私が……っ」


 


糸も帳も、動けなかった。


 


「二人とも……壊れてるよ……

 “私を守る”って言いながら、

 結局、自分のことしか見てないじゃない……!」


 


リサの嗚咽に、

空気が切り裂かれる。


 


糸が、膝をついた。

拳を握ったまま、

その手をそっと開いた。


 


「……俺、間違ってたのかもしれない」


 


低く、震える声だった。


 


「“君を離さない”って言えば、

 “君が笑ってくれる”と思ってた。

 “俺がそばにいれば、全部うまくいく”って……

 勝手に……思ってた……」


 


涙が、土の上に落ちた。


 


「君の苦しみよりも、

 君を“持っていたい”って気持ちの方が強かったんだ。

 それは……ただの、**“俺のための愛”**だったのに」


 


帳も、言葉を失っていた。


 


ふたりの男が、

それぞれのやり方でリサを囲っていたこと。

そのどちらにも、

“リサ自身の声”がなかったこと──


 


今、ようやく彼らは気づいたのだ。


 


「……じゃあ、どうするの?」

リサの声は、かすれていた。


 


「ここで終わらせるの?

 それとも、また“正しさ”や“愛し方”を押しつけ合って、

 私を引き裂くの?」


 


沈黙が、公園を覆った。


 


ブランコの鎖が、風に揺れた。


 


「私、誰のものにもならない」

「……でも、誰にもなにも与えられないのも、

 もう、いやなんだ」


 


その言葉に、

糸も、帳も、何も返せなかった。


 


そして、リサはゆっくりと立ち上がる。

ふたりを交互に見つめるその目には、

涙の痕とともに、**“まだ壊れていない何か”**が残っていた。


 


「私は私で、ちゃんと終わらせる」

「どちらかを選ぶんじゃなくて──

 私自身の“罰”を、自分で決める」


 


言葉の意味は曖昧だった。

でもその曖昧さだけが、

今の彼女を支える唯一の力だった。


 


風が、花壇の花を揺らした。

夕暮れが、あの公園に静かに降りてくる。


 


“子供の頃の約束”も、

“優しさの仮面をかぶった罪”も、

もう戻らない。


 


だけど、ここに確かに残ったのは、

三人の心に刻まれた、取り返しのつかない裂け目。


 


終わりが、

すぐそこに迫っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る