第14話 赤い糸
玄関の鍵を回す音が、やけに大きく響いた。
重く、乾いた音だった。
まるで、それが**“ここに戻ってはいけない”という警告**であるかのように。
靴を脱ぎ、居間に入る。
陽の落ちた部屋は、薄闇に沈んでいた。
そこに照明は点けられず──ただ、過去の気配だけが漂っていた。
「……リサ」
糸が口を開いた。
「……もう一度だけ、話をさせてくれないか」
その声には怒りも責めもなかった。
ただ、何かを諦めきれない人間の、
“最後の願い”のような弱さがあった。
リサは頷きも拒絶もしないまま、
キッチンテーブルの椅子に座る。
糸も向かいに座った。
沈黙。
時計の針の音が、やけに生々しく響く。
糸が口を開いたのは、それからしばらくしてからだった。
「……君を、失うのが怖いんだ」
その言葉は、どこか幼く、
傷だらけの少年の心がそのまま残っているようだった。
「たとえ、裏切られても……
君が、他の男と関係を持っていたとしても……
それでも、俺は、君を手放したくない」
リサの喉が痛くなる。
言葉が出せない。
代わりに、心臓が静かに軋んだ。
「君が苦しかったことは、わかってた。
でも、それよりも、
“君がいなくなること”のほうが、ずっと怖かった」
静かな声。
けれどその奥には、理屈の通らない感情の奔流が潜んでいた。
「だから、縛ったんだ。
あやとりだって言い訳して、
でも、本当は──俺の手で、君をつなぎとめたかっただけだった」
リサは、目を伏せた。
視線の先、木のテーブルの傷にさえ、心が逃げようとしていた。
「……糸。
私ね、ずっと“愛されてる”って思ってた。
でもそれ、違ったんだよね」
声は震えていたが、
どこか凪のような冷たさを帯びていた。
「壊れていったのは──
“愛されてた”からじゃない。
“所有されていた”からなんだよ。」
糸の顔に、はじめて言葉の刃が刺さったような色が浮かんだ。
けれど、否定の言葉は出てこなかった。
「君が他の誰かに触れたって、
愛したって、笑ったって……
全部、“君が俺から離れていく”って意味だった」
そして糸は、
ゆっくりと、自分自身に突きつけるように言った。
「だから──“いなくなるくらいなら、全部なくなった方がいい”」
それは、決して叫びではなかった。
怒鳴り声でも、嘆きでもない。
ただの事実のような声だった。
リサの背中に冷たいものが這い上がる。
呼吸が、浅くなる。
「糸……それは、もう愛じゃない。
それは、執着とか、依存とか……そういう──」
「違うよ」
糸が、静かに遮った。
「全部まとめて“愛”なんだよ。
俺の中では、もう、そうしか呼べないんだ」
リサは、言葉をなくした。
「リサが笑ってくれなくてもいい。
怒っていても、泣いていても、
“ここにいてくれる”なら、それだけで、意味がある」
テーブル越しに伸びた手が、
リサの手の甲に触れた。
「君がいなかったら、
俺は、俺じゃなくなる。
空っぽになって、消えていくんだよ」
ふっと、部屋の空気が変わった気がした。
まるで今、この瞬間から、
“生”と“死”が天秤に乗せられたような静けさだった。
リサは、言葉を出せなかった。
この家のどこかに、
“もう戻れない自分”が立っている気がした。
そして、ふたりの目が重なる。
糸の目は──
もう、かつての少年のものではなかった。
そこには、**「選択肢を持たない者」**の、
ひたすらに真っすぐな“狂い”が宿っていた。
雨が降っていた。
音もなく、細く、静かに。
まるでこの世界がもう、ふたりに何も言葉を与えないかのように。
リサは、荷物をまとめていた。
といっても、バッグひとつだけ。
思い出も、書類も、鍵も捨てた。
ただ──自分の“重さ”だけを持っていた。
玄関に手をかける。
扉を開こうとした瞬間──
「行かないで」
背後から、その声が落ちた。
振り返ると、
糸が台所の床に、崩れるように座っていた。
傍には、落ちたマグカップと割れたガラス片。
ミルクの白い液が、静かに床を這っていた。
彼は、泣いてなどいなかった。
ただ、“抜け落ちた何か”を抱えたまま、
リサを見ていた。
「行くよ」
「やめて」
「やめられないよ」
「俺がいるのに?」
リサは、ゆっくりと首を振った。
「……あなたは、“私”の中にいないの。
あなたは、あなたの中にしか、私を見てない」
雨の音が少し強くなった。
「だったら……」
糸が立ち上がった。
ゆっくりと、重力に従うように。
そして、リサの手からバッグを取った。
「だったら、君が消えるくらいなら──
俺も一緒に、いなくなる。
君が“離れる”くらいなら、俺たち、最後まで“同じ場所”にいようよ」
その言葉には狂気も悲壮もなかった。
ただ、**“選択肢を失った人間のやさしさ”**があった。
「……死ぬの?」
リサの問いに、糸は首を傾げた。
「“生きてるけど、何も感じない”よりは、ましだろ?」
雨の音が、世界を包んでいく。
「じゃあ、一緒に、いなくなろうか。
最初から、誰にも見つからないように──」
リサは黙っていた。
声も涙もなかった。
ただ──そっと、糸の手を取った。
それは「愛してる」という意味ではなかった。
「許す」でも、「戻る」でも、「選ぶ」でもない。
ただの、“もういいよ”だった。
ふたりは、部屋の奥へ戻った。
ベッドの上には、あの日の赤いロープが置かれていた。
「俺がほどくから」
「……うん」
「今度は、ちゃんと、最後まで一緒にいるから」
風が、雨の隙間から吹き込んだ。
窓が鳴る。
ふたりの吐息が、重なって消えた。
──そして、夜が降りた。
誰も見ていなかった。
誰も、騒がなかった。
ふたりは、世界のどこからも見えない場所で、
静かに、いなくなった。
翌朝。
玄関に残された靴は、一組だった。
ベッドには、
寄り添うように眠るふたりの姿があった。
けれど──
どちらも、呼吸はなかった。
手には、編まれた“あやとり”が巻かれていた。
子供の頃のように、
指と指を絡めるかたちで。
赤い糸。
それは、解けないまま、
ふたりの間に静かに残っていた。
遺書はなかった。
薬瓶もなかった。
ただ、安らかな顔で眠るふたりがいて、
誰にも説明できない“永遠”がそこにあった。
リサの手には、
一枚の折り紙が握られていた。
そこには、彼女の字でこう書かれていた。
「あやとりってね、ほどけるから終わりなんじゃないの。
本当は、ほどけない形で終わるのがいちばん難しいんだよ」
誰も、それを理解できなかった。
けれど、それでよかった。
なぜなら、これは──
ふたりだけの神話だったから。
──終。
赤い糸は解けない ×ルチル× @lutile_blackwing
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます