第11話 選ばせる檻

 


帳の手が、

そっと私の髪に触れた。


 


やさしく、

時間をかけて、

指の腹でなぞるように──


 


「ねぇ、リサ」


 


声が、ひどくやわらかかった。

囁きでもなく、命令でもなく──

ただ、“安心させるための音”として落ちてきた。


 


「……俺のやりかた、ちょっと強引だったかもしれないけどさ」


 


私は反応できなかった。

黙ったまま、

ただその指に撫でられ続けていた。


 


「でも俺──

 あいつみたいに、君を縛ったりはしないよ?」


 


その言葉は、

甘い鎖のように私の首筋をなぞった。


 


「君が自分で決めてくれるなら、

 俺はそれでいい。

 “そばにいてくれるだけでいい”んだ」


 


その声は、本物に近い。

けれど、どこか**“君が拒否しないと信じきってる者の甘さ”**が混じっていた。


 


「君の過去も、

 あの人との記憶も、

 何も責めない。

 ただ──これから先を、俺と歩いてほしいってだけ」


 


髪を撫でる手が、

頬に降りてきた。

私の顔を、軽く包み込むように。


 


「だからさ、もう苦しまないで。

 俺は、君をちゃんと“愛してる”よ。

 “壊したりしない”って、信じて」


 


やさしい。

あまりにも、やさしい。


 


だけどその優しさの奥に──

私は見てしまった。


 


「ああ、これは“信じてほしい”んじゃない。

 “信じるしかないようにしている”だけだ」


 


帳は、縛らない。

でも、選ばせない。

「逃げたら罰する」ではなく、

「逃げたら、全部自分のせいになるように」仕向ける男。


 


声を上げることすら、

もう罪に感じてしまうほど、

完璧な優しさだった。


帳の腕が、

そっと私を抱き締めた。


 


力は強すぎず、

だけど逃げられない。

まるで“優しさの形をした檻”のようだった。


 


「……リサ」


 


その声は、かすれていた。

いつもの滑らかさはなかった。

どこか、抑えきれないものが、溢れていた。


 


「俺さ……本当に、あの頃からずっと──

 君のことが好きだったんだ」


 


私は瞬きを止めた。

心臓が、苦しくなるほど強く打った。


 


帳の顔が、

私の肩に埋まっている。

それでも、彼の声は、胸の奥に届いた。


 


「……君が糸と結婚するって知ったとき、

 俺、笑って祝福したよ」


 


「……うん……」


 


「でも、結婚式の会場で、

 君があいつと幸せそうに笑ってたのを見て……

 俺がどれだけ苦しかったか、わかる?」


 


震えていた。

腕ではない。

彼の言葉が──心そのものが。


 


「君を祝福するために、

 君の手を掴まずに、

 あいつの隣に立たせたあの日から、

 俺は……ずっと、自分の心に嘘をついて生きてきたんだ」


 


彼の声が喉で割れた。

それは、愛の独白というより、

“喪われた時間の慟哭”だった。


 


「でも、今なら……言っていいよね。

 リサ、俺、君をずっと、誰よりも愛してる。

 君が誰と過ごしてきたかなんて関係ない。

 俺は君の全部が欲しいんだよ」


 


あまりに真っすぐだった。

計算も、監視も、支配も、

その瞬間だけは、

 “ただの一人の少年”の願いだった。


 


──それが、なぜここまで恐ろしいのか。

私は、答えが出せなかった。


 


でも、彼の声に、

少しだけ涙が混じっていたことだけは、

たしかに、感じた。


私は、言葉を選ばなかった。

むしろ、言葉が自分を選んで、

唇を震わせて流れ出たようだった。


 


「結婚してから……最初は、優しかったの。

 本当に、私を大切にしてくれて……」


 


帳は、黙っていた。

視線を外すことも、手を離すこともなく──

ただ、私の声を飲み込むように聞いていた。


 


「でも……“あやとり”って言って、

 最初はふざけてたのに……だんだん、それが……」


 


言葉が詰まった。

けれど、それでも私は話した。


 


「気づいたら、“あの赤い糸”で、

 本当に身体を縛られるようになってた。

 手首とか、脚とか……」


 


帳の眉がわずかに動いた。

けれど声は出さない。

その沈黙の方が、怖かった。


 


「動けないまま、

 “これが夫婦だから”って、

 言いながら……」


 


その先は言葉にならなかった。

でも帳は、もう十分に察していた。


 


静かだった部屋に、

彼の吐息がひとつ、重く沈んだ。


 


そして──


 


「……ふざけんなよ」


 


帳の声は低く、

初めて、怒りの熱を孕んでいた。


 


「それ……どこが“愛”なんだよ。

 あいつ、正気じゃなかったんじゃないか」


 


私は思わず顔を上げた。

帳の顔が、今までに見たことのないほど歪んでいた。


 


「“夫婦だから”って、そんなのただの言い訳だろ……

 お前が黙ってたの、俺、知らなかったから……っ」


 


拳が震えていた。

でも私を抱く手は、まだ優しかった。


 


「“大丈夫”なんて、もう言わなくていい。

 お前をそうやって縛ったあいつ……

 今すぐでも、ぶっ殺してやりたい」


 


私は首を横に振った。

「そんなことしないで」と言うよりも、

“もう誰かが壊れるのは嫌だ”という願いだった。


 


帳は、深く息を吐いた。

怒りを飲み込んだまま、私の肩に額を預けた。


 


「……俺が全部壊したいのに。

 “あの頃のままの君”に、何ひとつできなかったくせに」


 


その声は、

まるで怒りと、後悔と、愛が全部入り混じった、

一人の男の心の“なれの果て”のようだった。


帳の手が、私の頬をなでた。

指先は温かく、

震えることもなく、

まるで人を諭す医師のように整っていた。


 


「リサ──」


 


名前を呼ぶ声が、

胸に染み込むように落ちてくる。


 


「君が話してくれたこと……

 それはね、“普通の愛”じゃない。

 “夫婦の愛”でもない。」


 


私は目を伏せた。

帳の言葉が、正しいのはわかっていた。

でも、“正しさ”がこんなに苦しいものだなんて、思いもしなかった。


 


「……じゃあ、何?」


 


絞り出すようにそう聞いた私に、

帳は、静かに答えた。


 


「DVだよ。」


 


その言葉は、

柔らかくも冷たいナイフだった。

傷口を広げるのではなく、

“意味”を深く刻み込む刃。


 


「愛と暴力はちがう。

 “束縛”は愛じゃない。

 君の同意がないのに手を縛るなんて、

 “支配”って言うんだ。そうだろ?」


 


私の頬に触れていた帳の手が、

少しだけ強くなった。


 


「君は、我慢してた。

 “あの人も辛いから”って、

 “結婚したから”って……」


 


「……うん……」


 


「でも、そんなの──虐待される側が自分を責める構図だよ。

 本当は、全部、あいつが間違ってたんだ」


 


私は唇を噛んだ。

でも言葉は何も出せなかった。


 


帳の手が、私の頭を引き寄せる。

髪を優しく撫でながら、

耳元で囁いた。


 


「……君がもう、二度と“間違った愛”に戻らないように、

 俺がちゃんと、君の“正しさ”になってあげるから」


 


──やさしい。

あまりにも、正しすぎて。


 


けれどその正しさが、

“私のなかの曖昧な愛”までも、完全に抹消していくことに

 私はまだ、気づけなかった。



◆―糸視点


朝。

いつもの時間に目を覚ました。


 


となりに、リサがいるはずだった。

柔らかい気配と、淡い吐息。

ほんの少し緊張を残した、寝姿。


 


……なのに、

今日は何もなかった。


 


「……リサ?」


 


寝室を出る。

廊下に、キッチンに、洗面所に──

リサの影が、どこにもない。


 


彼女のスリッパがない。

化粧道具もない。

スマホも、バッグも──


 


「……え?」


 


ふと、寝室に戻る。

ベッドの下をのぞく。

押入れを開ける。

クローゼットの扉を引く。


 


──そこに、彼女の服はなかった。


 


「なんで……どうして……」


 


言葉が、喉からこぼれ出た。

乾いた空気に溶けるだけで、何の答えも返ってこない。


 


テーブルの上のスマートフォン。

発信履歴、LINE、SMS。

全部、何の反応もない。


 


「……繋がらない」


 


糸の手が、震え始めた。

それでも何度も、

何度もリサの名前をタップし続ける。


 


──圏外。

──留守番設定。

──“この電話番号は現在ご利用になれません”。


 


「っ……ふざけんな……!」


 


初めて、声を荒げた。

壁を叩いた。

爪が食い込み、指先が赤くなる。


 


「なんでいないんだよ……っ……!!

 リサ……君は……俺の……」


 


言葉が途中で潰れた。


 


彼女が“荷物ごと消えた”という事実。

それは、「自分が完全に支配していたはずの世界」に、

 突然穴が空いたことを意味していた。


 


そして、その穴は──

ただの“不在”ではなかった。


 


「……誰かに……?」


 


声が低くなる。


 


「まさか……まさか、“帳”?

 いや……違う、違う、でも……」


 


脳内で、リサの表情が反芻される。

あの日の微かなよそよそしさ。

入浴を急いだ理由。

見せたくなさそうにしていたスマホの画面。


 


全てが“伏線”だったのだとしたら──

 自分は、何も見ていなかったのか?


 


「……どこにいるんだ、リサ……っ」


 


言葉の奥に、涙はなかった。

あるのはただ、

**“失ったものを取り戻すために暴走し始めた狂愛の熱”**だった。

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