第10話 先回りする優しさ

タクシーが止まった。

見慣れた住宅街の、古い瓦屋根の並ぶ小路。


 


ようやく──帰ってきた。

そう思ったのに。


 


その瞬間、

視界の端に人影があった。


 


──帳。

スーツ姿のまま、

まるで散歩に来たかのように、実家の門前でこちらを見ていた。


 


にこやかに、

優しく、

まるで「おかえり」と言うかのように、手を軽く振って──


 


私は血の気が引いた。


 


「……嘘……どうして……」


 


声にならない問いかけを、

帳は笑顔のまま、

“模範解答”のように返してきた。


 


「携帯の電源切っただけで、逃げきれたと思った?」


 


私の足元が、ぐらつく。

風が吹いてもいないのに、

全身の感覚が揺れていた。


 


帳はゆっくりと歩み寄る。

敵意は一切見せない。

だからこそ、怖い。


 


「リサの実家、前から知ってたよ。

 “旦那と揉めたらここに逃げる”って、最初から想定してた」


 


その声が甘い。

まるで恋人にプロポーズするような口調で。


 


「だからさ。

 あのときリサの持ち物に、小さなタグ型GPSを仕込んでおいたんだよ」


 


私の喉が詰まる。

呼吸が浅くなる。


 


「今朝、移動先の信号を見て、確信した。

 “ああ、やっぱりここに来るんだな”って」


 


その瞬間、私は本当に理解した。


 


糸だけじゃなかった。

帳もまた──

“私という存在”の、すべてを所有する気だったのだ。


 


帳は、手を差し出した。

優しい目をしたまま。

「捕まえる」のではなく、「導く」ふうを装って。


 


「さあ、入ろうか。

 ちょっと話、しよう?」


 


私の足が、一歩も動けなかった。

ここは実家なのに、

もう“私の帰る場所”ではなかった。


「な、何言ってるの……ここは、私の……実家……!」


 


声が震えていた。

これは“逃げた先”だったはずなのに。

どうして、ここまで──


 


帳は、首をかしげながら、

それでも終始笑顔のままだった。


 


「うん、そうだよ。

 でも──もう、“俺たちの家”でもあるよね?」


 


「……は?」


 


「リサのお父さんとお母さんには、

 さっき、ちゃんとご挨拶しておいたんだ」


 


その一言で、世界が傾いた。


 


「え……」


 


「ほら、君──

 旦那にひどいことされてたでしょう?

 “身体を拘束された”って、言ってなかったっけ?」


 


私は一瞬、喉が凍りついた。


 


帳の笑みは、ゆるやかに深くなる。

まるで“正しい手続きを踏んだ聖人”のように。


 


「だから俺、“彼女は今離婚を考えていて、

 ご実家に一時避難させてもらえないか”って、説明したんだよ」


 


「ま、待って……そんなの、私──!」


 


「“彼女の意志です”って、はっきり伝えた。

 君、黙って頷いてただけだけど、

 ちゃんと“同意”って受け取られるからね?」


 


声は優しい。

でもその口調の奥に、

氷のような“既成事実の積み重ね”があった。


 


「ご両親、心配してたよ。

 “優しそうな方でよかった”ってさ。

 リサさんのこと、よろしくお願いします──って言ってくれた」


 


私は息を吸えなかった。


 


「ここ、もう“俺が許された場所”なんだ。

 だからね、リサ──」


 


帳の目が細くなる。


 


「“君の帰る場所”は、

 もう“俺のいる場所”以外には存在しないんだよ」


 


狂っていた。

でもすべてが整然としていて、

言葉に一つの乱れもなかった。


 


優しさで塗り潰された略奪。


 


「……帰ろう。

 俺たちの部屋へ」


 


差し出された手は、

温かそうで、血のように冷たかった。


「……うそ……」


 


崩れたのは、

膝よりも先に心だった。


 


目の前の帳が、

私の実家で、

私の知らないうちに、

すべてを“整えて”しまっていた。


 


「うそ……なんで……そんなこと……」


 


言葉にならない悲鳴を喉の奥で繰り返しながら、

私はその場に、足元から崩れ落ちた。


 


何もかもがぐらついた。

現実が音を立てて崩れていく感覚。

どこかから、自分の存在がこぼれ落ちていく。


 


でも──帳はすぐに受け止めた。


 


優しく。

 あくまで恋人らしく。

 この状況を“愛の悲劇”とでも言わんばかりの演出で。


 


「……ごめんね、リサ」


 


耳元で、あの声が囁く。


 


「でも……これしか、方法がなかったんだ」


 


その一言で、

私の意志は最後の支えを失った。


 


帳にとっては、これは“計画”だった。


 


私が逃げることも、

泣くことも、

混乱することも、

崩れることも──


 


すべて、予想の中に含まれていた。


 


「君が、もう糸のもとに戻らないようにするには──

 こうするしか、なかったんだよ」


 


私の肩を撫でる掌。

頭を抱き寄せる腕。

全部、“仕上げに入った猟師”のようだった。


 


「でももう大丈夫。

 これからは、俺が守る。

 何があっても、君を離さない」


 


優しい声。

安定した体温。

──けれどそのどれもが、地獄の素材で編まれていた。


 


立ち上がれなかった。

泣きたかったのに、

もう涙も出なかった。


 


私の居場所は、

 もはや“私の意志”で決められるものではなかった。


「リサ! 大丈夫かい!? どうしたんだい──!」


 


玄関から両親が飛び出してきた。

母はパジャマのまま、

父は手に新聞を持ったまま。


 


その姿が一瞬、

私の中に“現実”を取り戻させそうになった。


 


でも──

私は、もう立てなかった。


 


帳が私を抱えたまま、

まるで舞台に立つ俳優のように、

完璧に「夫」の顔を作り上げていた。


 


「すみません……びっくりさせてしまって。

 昨夜から疲れてるみたいで……」


 


「……すこし、倒れただけです……」

私はそう言った。

唇が勝手に動いていた。

もう、自分の声ですら他人のもののようだった。


 


「リサは、少し体調が優れなくて……

 でも大丈夫です。僕がちゃんと看ますから」


 


母が心配そうに顔を覗き込む。

でも、帳がすっと身を引き、

「大丈夫ですよ」と、

まるで我が子を守るように、私を抱き直した。


 


「ご心配をおかけしました。

 今日は、少しだけお部屋をお借りしてもいいですか?」


 


「え、ええ……もちろん……」


 


父の声が揺れる。

だがその疑念も、

帳の完璧な“夫”の仮面に掻き消されていく。


 


──そのまま、私は帳と共に

実家の一室へ運ばれた。


 


見慣れたふとん。

古びた本棚。

私が十代の頃まで過ごしていた部屋。


 


だけど──

いまそこにあるのは、

“帰ってきた私”ではなく、

 “帳が連れてきた、帳の所有物としての私”だった。


「へぇ……ここが、リサの部屋なんだ」


 


その言葉は、

感嘆のようであり──

祝福にも、終末にも似ていた。


 


帳は部屋の中心に立ち、

何もかもを“見る”のではなく、

“確認”するように目を走らせていた。


 


「……良い匂いがするね」


 


その声に、私は肩をすくめた。

どこか無意識に、逃げ腰になる。


 


「君の匂いだよ。

 ベッド、枕、本の紙、空気。

 全部、君の時間が染み込んでる」


 


言葉の響きは穏やかだった。

だがそこには、

“盗んだものを慈しむ”者のような執着が滲んでいた。


 


帳は、ふとベッドに腰かける。

柔らかく沈んだマットレスに、

手を添えながら、ふっと笑う。


 


「ここで泣いたこともあるんだろうな。

 誰にも言えなかった秘密も、ここにあるんだよね」


 


彼の目がこちらを見ていた。

けれどそれは、「今の私」ではなく、

 “過去の私ごと所有しようとする目”だった。


 


「……帳さん、もう……やめて」


 


私の声は震えていた。

だが帳は、それすらも宝物のように受け取る。


 


「リサが何を言っても、俺は君を愛してる。

 “愛してる”って言葉じゃ足りないくらい、

 君の全部が欲しいんだ」


 


語尾は熱を孕んでいた。

けれど熱ではなく、

“冷たい欲”に満ちていた。


 


「君のこの部屋で、

 君の時間を、記憶を、習慣を──

 全部、俺の中に染み込ませたいんだ」


 


帳の笑顔がゆっくりと深まる。

そしてその笑顔は、狂気の境界を越えていた。


「糸と──何があった?」


 


それは、

あまりに静かな声だった。


 


帳は、部屋の空気ごと温度を変えた。

笑っていない。

いつもの調子も、甘さもない。


 


──真顔。

それだけで、私は呼吸を詰まらせた。


 


「……どうして、今……それを……」


 


「話してほしいんだ」


 


彼は、真っすぐ私を見ていた。

でもその瞳は、

“知りたい”というより、“確認しておきたい”ようだった。


 


「君がどうして、

 あいつに縛られて、

 “それでもそばにいたのか”──俺には、それがどうしても解せない」


 


言葉が冷えていた。

怒ってはいない。

でも、どこか**“自分を差し置かれた焦り”が滲んでいた。**


 


「……私は……」


 


喉がひりついた。

帳の視線は静かで、揺るがなかった。


 


「君は、あいつの何を“愛”だと思ったの?」


 


「……それは、わからない……

 でも、あの人には……昔の私がいたから……」


 


「それって、義務感?」


 


帳の声に、微かに苛立ちが混じる。


 


「情? 罪悪感? それとも“あやとり”の呪い?

 ──君は、あいつのどこに、価値を見てたの?」


 


「……そんなふうに言わないで」


 


私は言った。

震えながら。

だけど、心のどこかで、

「言われたくない」よりも「見抜かれたくない」気持ちの方が強かった。


 


帳は、長い沈黙のあと、

椅子に背を預けた。


 


「……あいつに何されたか、全部聞いても、

 “俺が許すかどうか”は、リサ次第だよ」


 


静かに落とされた言葉。


 


その声の奥にあったのは──

 本当の目的を、まだ隠している男の“計算された冷静さ”だった。

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