第9話 尋問
「──違うの……これは……!」
私の声はかすれていた。
痛みはなかった。
けれど身体の隅々まで、“罪”の感覚が充満していた。
赤い糸。
子供の頃、笑いながら指を絡めた、あの懐かしい糸。
でも今は──
檻だった。
「違うって……何が違うんだよ」
その声が落ちた。
深く、低く。
氷のように静かな絶望を帯びて。
私は、思わず口を閉ざした。
糸は、笑っていなかった。
微笑んでもいなかった。
ただ、目を細め、じっと私を見ていた。
「……俺が知らないところで、他の男と会って。
スマホにメッセージが届いて。
“会いたい”だの、“キス”だの……」
彼の言葉が、
静かに、しかし確実に、私の首に巻きつくようだった。
「それでも、
“違う”って……何が?
俺の知らないところで、
どこまで“違う”ことしてたんだ?」
「っ……ちが……!」
「嘘つくなよ」
瞬間、空気が締まった。
怒鳴っていない。
なのに、怖かった。
「俺、リサのこと信じてた。
ずっと、ずっと、子供のときから──
“リサは俺のものだ”って、そう思って生きてきた」
手が、私の頬を撫でる。
優しい、けれど冷たい。
「それを、こんな形で裏切るんだったら──
せめて、“本当の理由”を言えよ。」
私は泣きそうだった。
でも、泣く資格なんてなかった。
「愛してる。
だから、許すために、聞いてるんだ。
お前が、なにをしたのか──ちゃんと、全部話せよ」
糸の声が震えていた。
怒りではない。
“信じていた何かが壊れてしまった声”だった。
けれど、同時にそれは、
リサの最後の自由を剥ぎ取る声でもあった。
「あなたのため……だったの……」
震える声で、私は絞り出した。
胸が詰まる。
喉が焼ける。
でもそれでも、私は“許される理由”を探していた。
──その瞬間。
「リサ?」
怒鳴り声が、
叩きつけるように響いた。
思わず身体が強ばる。
手首の赤い糸が、皮膚に強く食い込む。
「君は、自分が今、何を言ってるのか分かってるの?」
糸の声が、割れていた。
怒りというより、
“信仰を裏切られた者の悲鳴”。
「俺のため?
俺のために──
他の男と会って、キスして、身体を許して、
それが“俺のため”だって?!」
「ちがっ……私は……!」
「何が違うんだよ!!」
その一言が、
部屋の空気を完全に変えた。
糸は、今までと同じ顔をしていた。
けれどその目は、“もう二度と戻らない人間の目”になっていた。
「それは君が、
自分の罪を消すために勝手に作った言葉だろう?
俺のため? 誰が頼んだ?」
「でも……あなた、苦しんでて……!」
「だから裏切った?
だから俺を“救うふりをして他の男に抱かれた”のか?」
私は息ができなかった。
頭が真っ白になった。
言い訳は、もはや何の役にも立たなかった。
「君がしてたのは“慈善”じゃない。
あれは“裏切り”だよ。
しかも──“最悪の形のな”」
糸は一歩、こちらに近づく。
まるで、
今から“本当のリサ”を取り戻しにくるような足音で。
「でも大丈夫」
彼の声は低くなった。
優しくさえあった。
けれど、
その響きはまるで──“儀式のはじまり”だった。
「……君が自分で戻れないなら、
俺が、君の中から“帳”を消すだけだよ」
その言葉は、
許しでも、怒りでもなかった。
ただの“宣告”だった。
「やめてよ……やめてってば……!」
私は声を上げた。
恐怖と怒りと、なにより現実を取り戻したい一心で。
喉がひりついた。
「ねぇ、そもそも……なんで私は縛られてるの?
ねぇ、糸……これ、こんなの──普通じゃないよ!!」
涙がにじんでいた。
悔しさでも、恐怖でもない。
“信じた愛がここまで歪んだ”という絶望の涙。
けれど、糸は動じなかった。
表情ひとつ変えずに、
静かに、まるで優しく話しかけるように答えた。
「……“普通”って、なに?」
私は言葉に詰まった。
糸の声は穏やかだった。
だからこそ、その怖さが骨の髄にまで沁みた。
「“普通”って、他人と比べるときに使う言葉だよね?
でも、俺たちって──他人だっけ?」
その言葉に、背筋が凍った。
「俺とリサは、運命で繋がってる。
子供の頃から、ずっと一緒だった。
君が“普通の女の子”に戻っていくなんて、考えたこともなかったよ」
「糸……私は……」
「リサ、君は今、俺の前で“普通”を求めた」
糸がゆっくり、私の顔の近くに膝をついた。
目と目が合う。
距離はゼロ。
だけど、魂の距離は、最果てほどに遠かった。
「それって、“俺じゃない人生”を望んでるってことだよね?」
「ちがっ……私は、私はただ──!」
「じゃあ言ってよ。『愛してる』って」
「…………っ」
「言ってくれれば、全部ほどくよ。
信じてくれるって。
“俺だけを見てる”って、今この場で──誓ってくれるなら」
その瞬間、私はようやく理解した。
これは対話じゃない。
これは、“服従の確認”だった。
「やめてよ……こんなの……お願い、普通に戻ろうよ……!」
叫んだ。
懇願だった。
でも、糸は、静かに目を細めただけだった。
「……もう戻れないよ。
君が壊したんだ。
俺たちの“普通”を」
その声は悲しみに満ちていた。
でもその手には、
“愛という名の縛りを解く気配は、ひとつもなかった”。
──その夜、
私は糸にすべてを“許された”ような顔で、
すべてを“奪わせた”。
帳の痕を、
匂いを、
記憶を、
夢を。
どれも、
この愛には似合わないと知りながら。
糸の手は優しかった。
でも、優しすぎることが、何より恐ろしかった。
私は抵抗しなかった。
否、できなかった。
罪悪感が、
赦しを乞うように、
ただ身体を委ねていた。
そのとき、
私は何も言わなかった。
彼も何も問わなかった。
ただ、
“沈黙”だけが、
あの部屋に満ちていた。
そしてそれは──
告白でもなく、許しでもなく、
ただ“所有の確認作業”だった。
朝が来るのが怖かった。
夢を見るのが怖かった。
でもそれよりも、
今、自分が“何者であるか”がわからなくなるのが、一番怖かった。
事後──
私は動けずにいた。
天井を見つめていた。
まばたきの意味も、呼吸の意味も分からないまま。
ただ、頬をつたう涙が、
まだ私の中に“生きている部分”が残っていることだけを教えてくれていた。
心が何かを言おうとしている。
けれど言葉にはならなかった。
愛していたはずの人に、
赦してほしかったはずなのに。
それなのに──
「私は、自分をどこに置いてきてしまったんだろう」
隣で、糸がすやすやと眠っていた。
その寝顔は穏やかで、子供のようで。
まるで世界に何の疑いも持たぬ者の安堵に満ちていた。
……満足したのだろう。
これで、
帳の痕も、私の罪も、
彼の中では“消えた”のだ。
けれど──
私の中では、
“焼きついた”。
声に出せば壊れてしまいそうだった。
でも沈黙のままでは、私が壊れる。
指先が震えていた。
爪が、自分の腕の皮膚をかすかに掻いた。
そうでもしなければ、
“私の感覚”がまだ残っていると信じられなかった。
この夜は終わらない。
朝が来ても、
この沈黙は、“私の中で続いていく”。
朝だった。
だけど光はまるで、
昨日の闇の続きのように、重く、冷たかった。
隣では、糸がまだ眠っていた。
安らかな顔。
まるで“すべてを赦されている者”の寝息。
けれど私は、
もうそれに付き合うことができなかった。
静かに、
本当に静かに、
私は布団を抜け出した。
足元にあった、古い旅行カバンを取り出す。
物音を立てないように、
少しずつ──“私”をひとつひとつ、詰めていった。
下着、通帳、薬、スマートフォンの充電器。
手元にあった現金。
思い出はひとつもいらなかった。
ただ、
“明日”というものを持ち出したかった。
喉の奥に、何かが引っかかっていた。
心臓がずっと早鐘のように打っている。
でも、止まれなかった。
「もう無理……もう限界……」
声にはならなかったけれど、
身体のすべてがそれを叫んでいた。
私はこの部屋から、
この関係から、
“糸”という名の檻から、
逃げなければならなかった。
彼が目を覚ましたら、
私はもういない。
そうでなければ、次は“本当に私がいなくなる”と分かっていた。
タクシーの車内。
走る景色はぼやけて見えた。
目の奥が重たく、
昨夜の記憶が、皮膚の裏に貼り付いているようだった。
逃げてよかった。
それだけは間違いじゃない。
だけど──
安堵と後悔が、同じ速度で胸を裂いていた。
「実家に……帰るだけ。
それだけ……なのに」
口の中で何度も繰り返す。
意味のない呪文のように。
ふと、スマートフォンが震えた。
──通知音。
心臓が跳ねる。
時間は朝の8時34分。
もう糸が目を覚ます頃だ。
私はおそるおそる画面をのぞいた。
[隠目 帳:大丈夫? 眠れてる?]
鼓動が一気に早くなる。
なぜ、このタイミングで。
なぜ、今、連絡してくるの。
私はスマホを伏せた。
でも、目をそらせなかった。
──帳。
糸よりも冷たく、
糸よりも巧妙に、
私の心を縛った男。
……自由になりたい
でも、どちらの鎖も、まだ私の名前を知っている。
タクシーは、高架を越えていく。
太陽は昇っていた。
でもその光すら、
どこか牢獄のようだった。
スマホを伏せた。
何もなかったふりをして、
窓の外に視線を向けた。
けれど──
また震えた。
再びの通知音。
音はさっきよりも鋭く聞こえた。
手の中のスマホが、
まるで命を持った何かのように、熱を帯びていた。
おそるおそる画面を開いた。
[隠目 帳:どこに行こうとしてるの?]
──その一文で、
全身の血が冷えた。
「……なんで……」
声が、喉から零れた。
窓の外はまだ朝の街。
ただの道、ただのビル、ただの風景。
なのに、
この文章が意味するのはただ一つ。
「帳は、私の移動を“見ている”。」
スマホの位置情報──
アプリ?
監視アカウント?
それとも……私が、何か渡してしまった?
思い出そうとした瞬間、
胸が締めつけられた。
糸に縛られた夜の記憶が、
皮膚の下から滲み出すように蘇る。
──糸だけじゃない。
私を所有しようとしていたのは、
あの人も、同じだった。
帳のやさしい声。
言葉で縛る支配。
“君のため”“守るから”という仮面。
「……逃げられてない……」
車内は誰も喋っていなかった。
けれど、私は誰かに耳元で囁かれているような感覚に襲われていた。
「どこに行こうとしてるの?」
ただの一文。
それだけで、
「自由」の幻想が瓦解した。
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