第8話 眠れる裏切り者

夜──

リサは、疲れたように眠っていた。


 


寝息は静かだった。

でもその眠りは浅く、どこか逃げるような夢を見ているようだった。


 


最近、出かける頻度が明らかに増えていた。

体調不良を言い訳に、あやとりを拒んだ日。

駅前に行ったという日。

「買い物」と言いながら、何も買っていなかった袋。


 


そして──今日の、不自然なほど早い入浴。


 


それだけでも、もう十分だった。

でも──


 


俺は、見た。


 


シャワー上がりに、彼女の首筋に、

一瞬だけ見えた赤い痕を。


 


キス痕。

咬まれたような、それでいてかすかに指で触れたような痕。


 


あれは俺がつけたものではない。

俺が知ってる“リサの肌”じゃなかった。


 


胸の奥に、

静かに、音もなく、何かが落ちた。


 


そして今。

俺の視線は、リサの枕元に置かれたスマートフォンに向かっていた。


 


カバーは閉じられていた。

でも画面は表に伏せられていた。

“見られたくない”ときに人がする仕草。


 


俺は手を伸ばさなかった。

いや──“まだ”伸ばさなかった。


 


リサの寝顔を見つめる。

まぶたが震え、小さく寝返りを打った。


 


可愛い。

愛している。

世界のすべてよりも、大切な存在だ。


 


──だからこそ、


 


裏切りだけは、許されない。


 


俺たちは“赤い糸”で結ばれている。

あやとりで遊んだあの日から、

その糸は、“輪”ではなく“結び目”になった。


 


そして結び目は──絶対に、ほどけない。


 


スマホを見たら、全てが決まる。

でも今夜は、まだ見ない。


 


優しさを装ったまま、

 “リサが告白するのを待つ”ことにしよう。


 


そうすれば、俺は──

“悪い夫”には、ならずに済むから。


 


……まだ、今なら。


その瞬間だった。

部屋の静寂を破るように、

──ピコン、と短く震える通知音が響いた。


 


リサは微かに寝返りを打った。

けれど、目を覚ます気配はない。


 


俺の指は──

気づけば、リサのスマホに触れていた。


 


震えは止まっていた。

画面にはロックがかかっている。

だが、通知だけは、はっきりと読めた。


 


《隠目 帳:会いたいな、またリサの顔が見たい》


 


その文字が、

俺の視界に焼き付いた。


 


胸の奥で、

何かが──確かに、音を立てて壊れた。


 


静かだった。

心臓の音すら、遠く感じた。


 


帳。


 


あいつは、俺の上司だった。

表向きは穏やかで、いつも冷静な男。


 


──でも、

まさか。


 


いや。

そうだ。

そうだったのか。

そういうことだったのか。


 


リサの増えた外出。

無理をして入った風呂。

触れようとすると逃げる肩。

目をそらす視線。


 


全部、全部、

繋がってしまった。


 


あいつに……

あいつにリサを、奪われた。


 


指が、自然とスマホを強く握った。

でも、叩き割りはしなかった。

怒鳴り声も上げなかった。


 


俺の中にある愛は、

そんな衝動的な破壊では終われない。


 


だって、リサは──“俺のもの”だから。


 


誰にも渡さないと、

昔、笑いながら言ったことがある。


 


今、その言葉は、

一片の冗談も含まない現実として、

 俺の全身に刻まれていた。


 


帳。

隠目 帳──

あんたが俺の世界を壊したなら、

俺もあんたの“すべて”を壊すしかない。


 


そして──

リサも、そのままでは済まない。


 


だって、“裏切り”は愛の対義語じゃない。

 “裏切り”は、愛を永久に閉じ込める手段だ。


 


静かにスマホを戻した。

リサはまだ眠っている。


 


その寝顔を見つめながら、

俺は**“この物語の終わらせ方”を考え始めた。**


 


気がつけば──

俺は、リサを縛っていた。


 


両手首を、

あやとりに使っていた、あの赤い紐で。


 


ゆっくり、丁寧に。

ほどけないように、でも血が止まらないように。


 


リサはまだ眠っている。

薬は使っていない。

ただ、今日の疲れと罪が、彼女の意識を深く沈めているだけ。


 


俺の手は、震えていなかった。


 


愛している。

本当に、愛している。


 


だから──

“正さなきゃ”いけない。


 


リサは、きっと道を間違えた。

ふとした気の迷い。

寂しさか、弱さか、

あるいは──帳のような男の甘言に揺らいだだけ。


 


だとしたら、

俺がリサを“元に戻して”やらなきゃ。


 


「……俺の奥さん、だよね?」


 


そう呟きながら、

俺は彼女の手の結び目をなぞった。


 


優しい手つきだった。

痛くしない。傷つけない。

ただ、“動けなくする”。


 


そして、

再び俺のものにするために。


 


「ねぇリサ……俺、君のこと、ずっと待ってたんだよ。

 たった一度の約束、ずっと信じてたんだよ……」


 


縛られた腕が、わずかに動く。

リサが、うっすらと眉をひそめた。


 


「……リサ? 起きる? 大丈夫。怖くないから」


 


手首に通された糸の結び目は、

ただの紐ではなかった。


 


それは、

“壊された誓い”を、もう一度結び直すための鎖。


 


「──これでまた、君は“俺のリサ”に戻るだけ」


 


俺の声は、微笑んでいた。


 


そしてその微笑みは、

どんな凶器よりも確かな“檻”だった。




──暗闇だった。

静かな、ぬるく湿った夜の底。


 


リサは、そこに立っていた。

足元は見えない。

風もない。

ただ、なにかが“這う音”だけが聞こえていた。


 


シュル……シュル……


 


ぬめった感触が、足首に絡む。

声を上げようとしたその瞬間、

それは喉を締めるように、ぐるりと巻きついた。


 


黒い蛇。


 


それは一本ではなかった。

無数に枝分かれし、

リサの足、腕、腰、胸、そして──喉元へと、じわりと這い上がってくる。


 


そのとき、

その蛇が喋った。


 


「リサ……愛してるよ……ずっと……見てた」


 


甘く、低く、耳元に吐息がかかる。

帳の声だった。


 


「キスの味、忘れてないでしょう?

 次は君からしてくれるって、言ったよね?」


 


だが次の瞬間、声が変わる。

冷たく、優しく、どこか哀しみを帯びた調子──糸の声。


 


「ごめんね、リサ。

 痛くないようにするから。

 君を“綺麗なまま”閉じ込めたいだけなんだよ」


 


蛇の目が光る。

それは赤くも青くもない。

ただ、“こちらをじっと見つめる人間の目”だった。


 


「おまえは俺のものだろう?

 裏切られても、君を手放す理由にはならないんだよ」


 


蛇が笑った。

口のないくせに、

その笑いは、皮膚の下に入り込んできた。


 


「二人の男が、君を愛してる。

 一人は甘い檻。もう一人は柔らかい縄」


 


リサは震えていた。

でも声が出せない。

目を開けても、まだ夢の中だった。


 


「どちらかを選ばないなら──

 両方のものになればいいだけだよ、リサ」


 


その言葉と同時に、

黒い蛇が胸元まで絡みついた。

皮膚を撫でるように、喉元を、唇を這う。


 


優しい。

愛してる。

怖い。


 


──悪夢だ。


 


目が覚めたい。

でも、目を覚ませば現実がそこにある。


 


そして現実は、

この夢より──もっと、恐ろしいのかもしれない。


 


「──ッ!!」


 


私は叫んでいた。

はっと目を覚ましたその瞬間、

身体の感覚が“ありえない現実”に触れた。


 


両手首、

足首、

胸、腹、太もも──

全身に、赤い糸が絡みついていた。


 


それは夢で見た黒蛇とは違う。

もっと細く、もっと滑らかで、

もっと……“現実的”だった。


 


「な……なに、これ……っ」


 


喉が震える。

言葉にならない。

身体は完全に固定されているわけではない。

けれど、“解けないように、解けないふうに”結ばれていた。


 


「あやとり」の結び目──けれどもう、遊びではない。


 


私が叫んだ音に、

背後からゆっくりと声が降ってきた。


 


「……おはよう、リサ」


 


──糸。


 


振り返れない。

けれど、声の温度でわかる。

それは優しさではなく、“確信と支配の温度”だった。


 


「怖かった? 夢、見てたんだよね」


 


「どうして……こんな……」


 


「だって君、もう俺のこと抱きしめてくれないし、

 触れられるのも嫌がるし、

 目も合わせてくれなくなったから……」


 


糸はゆっくり、

私の前に座った。

穏やかな顔で、

まるで“心配している人”の表情で。


 


「だから、俺のこと思い出してもらおうと思って」


 


「…………っ!」


 


「これ、ほら、あのときの“あやとり”と同じ結び方だよ。

 覚えてる? 小指と小指で、こうやって……」


 


私の指を、優しく持ち上げようとする。

でも、私は震えて拒んだ。


 


糸は、かすかに目を伏せた。

それは怒りではない。

悲しみの演技の奥にある、“正しさ”への執着だった。


 


「……やっぱり、君、変わったよね。

 俺が何も知らないと思ってる?」


 


その声は、まだ静かだった。


 


「帳、だよね。

 リサのスマホに、あいつから通知が来てた。

 “また会いたい”──って」


 


心臓が止まりそうだった。

喉が乾いて、唾が飲み込めなかった。


 


「もういいよ。

 君がどこに逃げようと、

 俺が“本当の君”を取り戻すから」


 


糸の手が、頬に触れた。


 


優しく、

柔らかく、

──檻のように。

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