第7話 洗い流せない夜

その日私は、

ひとり、夜の道を泣きながら帰った。


 


足がふらついていた。

膝の奥が痛かった。

目の奥が焼けるように重たくて、

けれど──それ以上に、心が酷く沈んでいた。


 


「……糸、ごめんなさい……」


 


そう、何度も口の中で呟いた。

でも、声には出せなかった。

声にした瞬間、何かが“決定”してしまう気がして。


 


旦那のため。

帳と約束したあの条件を守るため。

“いじめをやめさせるため”──


 


そう信じていた。

信じたかった。


 


けれど──

私は、帳とホテルにまで行って、

 完全に“一線を越えてしまった”。


 


心がどうであろうと、

身体は彼のものになった。

記録も、記憶も、匂いも──全部、

もう“なかったことにはできない”。


 


帰宅してすぐに、私は浴室に飛び込んだ。

服を脱ぎ捨て、シャワーを強く浴びた。


 


水が熱いのか冷たいのかも分からなかった。

ただ、洗い流したかった。

 この肌についた、“他人の存在”を──


 


石鹸で何度も擦る。

髪を洗い直す。

指先まで確かめる。

痕がないか、鏡を見る。

赤み、咬まれた痕、湿度の違い──

全部、消さなきゃ。


 


「……糸が帰ってくる前に……」


 


私はひとり、

罪の儀式を済ませるように、

無言で髪を乾かした。


 


鏡の中の自分が、誰なのか分からなかった。


シャワーの音が止んだその瞬間、

玄関のドアが、そっと開く音がした。


 


私は動きを止めた。

バスタオルを握りしめた手に力が入る。


 


「……リサ? ただいまー」


 


糸の声。

いつも通りに明るい調子だった。

でも、その裏に、微かに何かが沈んでいた。


 


「お風呂……? めずらしいね、こんな早い時間に」


 


──扉越し。

洗面所のドアの前に、彼が立っている気配。


 


「……う、うん。

 ちょっとね、汗かいたから……外、暑かったし」


 


言葉が震えていた。

でも、止められなかった。


 


「そっかぁ……今日、どこ行ってたの?」


 


「……あの、ちょっとだけ、駅前まで」


 


「ふーん……誰かと?」


 


「ううん、一人。買い物……だけ」


 


沈黙。

糸はそれ以上、何も言わなかった。

だが、その無言がいちばん怖かった。


 


私は急いで髪を拭いた。

肌についた水を拭き取って、いつも通りのパジャマに着替えた。


 


鏡の前に立った私の顔は、

嘘をついた人間の顔をしていた。


 


扉を開けると、糸がそこに立っていた。

笑っていた。

でも──


 


その笑顔は、**“確認の笑み”**だった。


 


「そっか、おかえり」


 


「……ただいま」


 


手を伸ばせば、まだ触れ合える距離。

けれど私は、なぜか手を伸ばせなかった。


 


糸の目が、私の髪に触れる。

私の首筋に触れる。

洗い流したはずの“匂い”に──


 


彼は、何も言わなかった。


でも、たしかに

“何か”が、彼の中で芽をひとつ伸ばした音がした。


食卓の上には、

出来合いの惣菜と味噌汁。

何も変わらない、いつも通りの夜。


 


でも──

食器の音が、やけに大きく響いた。


 


「最近……どうなの? 会社」


 


私の声は静かだった。

でも、自分で驚くほど掠れていた。

“帳との取引”の成果を、確かめたかった。

それだけだった。


 


糸は箸を止めず、軽く笑った。


 


「ああ……うん、俺の思い込みだったのかな」


 


「……え?」


 


「嫌がらせ。されなくなったよ。

 みんな普通に話すし、無視もされないし」


 


その言葉に、私は思わず箸を握りしめた。


 


──帳が言っていたことは本当だった。

代償として、私は帳と関係を持った。

そして確かに、“旦那は救われた”──


 


でも。


 


糸の目は笑っていなかった。

むしろ、**“俺の思い込みだったのかな”**という台詞には、

奇妙な静けさがあった。


 


「よかった……じゃあ、もう安心ね」


 


「うん、リサがいてくれたおかげかな」


 


その言葉は甘かった。

でも、それは**“感謝”というより、“観察”に近かった。**


 


「リサ……最近、よく外出するよね」


 


私は、味噌汁を啜る音に自分の動揺を隠した。


 


「……うん、ちょっとね。気分転換」


 


「うん。大事だよ、そういうの。

 ずっと家に閉じこもってたら、息が詰まるもんね」


 


それは優しい同意だった。

けれど、糸の指先は微かに、食器を持ち直していた。


 


そして私は、気づいてしまった。

この人はもう、全部知ってるかもしれない。


 


でも──何も言わない。

 言わないまま、じっと、私の“次の嘘”を待っている。


食器を片づけていた手が、

糸の一言で止まった。


 


「ねぇ、リサ。

 子供の頃の約束、……覚えてるよね?」


 


声は静かだった。

けれど、その響きはまるで鍵だった。

私の心の奥底にしまっていた、ある“扉”を開けるための。


 


私は振り向けなかった。

でも──糸は構わずに続けた。


 


「まだ小学校に上がる前だったかな。

 君の家の裏の公園で、“あやとり”してさ──」


 


食卓の照明が、やけに冷たく感じた。


 


「“俺と結婚しよう”って言ったら、

 リサ、笑って『うん!』って言ったよね」


 


私は息を呑んだ。

もう何年も昔の話だ。

けれど、糸の語り口は、まるで昨日のことのようだった。


 


「……あれ、本気だったんだよ」


 


そして──

その笑顔のままで、糸は言った。


 


「リサが他の誰かとくっついたら、

 “壊してやる”って、俺──言ったの、覚えてる?」


 


その言葉の瞬間、

背中が冷たくなった。


 


「……冗談だったでしょう、それ……子供の──」


 


「ううん。俺はずっと本気だったよ」


 


糸は、ゆっくりと立ち上がり、

私の背後へと近づいてきた。


 


「“俺の奥さんになる”って、リサが言った日から、

 他の誰にも渡すつもり、なかった」


 


その声は甘かった。

けれど、その甘さは、傷口に砂糖を塗るような狂気。


 


「もし裏切られても──

 俺、リサを“手放す”ことだけは、しないから」


 


手が、私の肩にそっと触れた。

その優しさが、

逃げられないという確信を、私に刻みつけた。


 


「ねぇリサ。

 今でも、あの赤い糸──繋がってるよね?」


 


私は、答えられなかった。


 


でも、もう糸は私の“沈黙”を、

“肯定”として受け取る準備ができていた。


食後の静けさが、

まるで息を潜めるように部屋に沈んでいた。


 


その中で、糸がぽつりと呟いた。


 


「……あやとり、しようか」


 


私は心臓が跳ねるのを感じた。


 


その言葉はもう、“遊び”じゃない。

“絆”でもない。

あれは、縛る儀式。


 


「……ごめん。

 私、今日ちょっと体調悪くて」


 


そう言った瞬間、

糸の表情がぴたりと止まった。


 


数秒の沈黙。

空気が重くなる。


 


「……え? どこか痛いの?」


 


声が、低く、急に近づいてくる。

私は椅子の背にもたれて身を引いた。


 


「頭? お腹?

 吐き気ある? 熱測った?

 寒気? 脈拍早い?」


 


「ち、違う、そういうんじゃなくて……」


 


「顔、色が悪い。ねえ、手貸して? 脈見るから」

「い、糸……! だいじょうぶ、ほんとに……!」


 


けれど糸は止まらない。

過保護、というより“検査”のように、

私の顔、額、手の甲、首筋へと次々に手を伸ばしてくる。


 


「身体が拒否してるのかな。

 “俺との時間”が、苦痛になってきてるんだとしたら……」


 


「ちが──!」


 


「……リサ、どうして“触られるのを嫌がる”の?」


 


その一言で、私は凍った。

彼の目が、静かに、深く、

まるで医師のように、

 “嘘”と“裏切り”の兆候を探していた。


 


「ねぇ……何か、隠してない?」


 


その声は優しい。

でも、“知ってる者”の声だった。


 


「俺、リサのためなら、何でもするよ。

 心配で、もう……頭がおかしくなりそうなんだ。」


 


手首がそっと、けれど逃れられない強さで掴まれる。


 


「ほら。“赤い糸”、

 忘れたなんて言わないでよ。」


 


私は、

目の前の“夫”が、

かつての少年のまま──

でも、“もう完全に壊れている”と知った。


糸は、手を放さなかった。

けれど、その手に力はなかった。

ただ、そこに**“意志”だけが乗っていた。**


 


「……リサ。

 もし何かあったら、すぐ言ってね」


 


私は目を伏せた。

彼の声はあまりにも優しかった。


 


「水でも、薬でも。

 ……夜中でも、仕事中でも、

 リサが望むなら、何でも持ってくるから」


 


その言葉に、私は喉の奥が詰まった。

頷けなかった。

でも、泣くこともできなかった。


 


「君の体が、少しでも楽になるなら……

 俺、どんな手間でも惜しまないよ。

 ……君のこと、世界でいちばん大切だから」


 


ああ、やめて。

そう思った。

そんなふうに優しくされると──

 私はもう、“最低の裏切り者”にしかなれない。


 


「……ありがとう……でも、大丈夫」


 


「そう? ほんとに無理しないでね。

 ……今日は、ゆっくり休もう」


 


そう言って、糸は私の額に手を添え、

熱を測るふりをして、微笑んだ。


 


その笑顔が、なぜか一番、痛かった。


 


彼は、知らないふりをしてくれている。

気づかないふりをして、

私を“妻”として守り続けようとしている。


 


──でも、私は、

もうその“守られてる場所”にふさわしくない。


 


罪悪感が、

温かい手のひらよりも重く、

胸の奥に沈んでいった。

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