第6話 何もなかった日
──私に、拒否権はなかった。
帳の提案に、
頭では「おかしい」と思った。
でも、それ以上に、私は理解していた。
彼と会うだけで、
糸の職場の地獄も、
精神的な崩壊も、
止められる──
それが“取引”であると分かっていても、
“私は守る側に立てる”という錯覚が、
私に答えを出させた。
“別に、キスされただけだし──”
その言い訳は、心に静かに沈んでいった。
帳の手の温度も、
唇の触感も、
もう肌の上には残っていなかった。
私はその日、
何もなかった顔で、家に帰った。
部屋の空気は変わっていなかった。
でも、私自身だけが“別の物語”を始めていた。
しばらくして、糸が帰ってきた。
「ただいまー」
リビングに入ってきた彼が、ふと立ち止まった。
そして、穏やかに首を傾げた。
「……メイクしてるね。
どこか行ってたの?」
ドクン。
私の心臓が、
今までにない音で跳ねた。
「……ちょっと、買い物に」
「へえ。珍しいね。いつもすっぴんだったから、
ちょっとびっくりしちゃった」
糸は笑った。
いつもの笑顔だった。
でも──
彼の目が、一瞬だけ、ほんの一瞬だけ──
私の手元を見たような気がした。
赤くなった手首。
消えかけた痕。
私は、無意識に袖を引き下ろしていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
そのやりとりだけで、
私はもう、普通の妻には戻れないことを、
どこかで理解していた。
時計の針は、もう深夜をまわっていた。
糸は隣で眠っていた。
浅い寝息。規則正しい呼吸。
安心しきった顔。
私はただ、天井を見つめていた。
目を閉じれば、帳の声が耳にこだまする。
キスの感触ではなく──
彼の言葉の重さが、まだ胸に沈んでいる。
──そのとき。
スマートフォンが、音を立てずに光った。
《次、いつ会いましょうか?》
送信者:帳。
短く、淡白な文面。
顔文字も飾りもない。
けれど、その一文には確かに“圧”があった。
──これは確認ではない。
──これは、“命令”に近い。
選択肢があるように見えて、
実際には**“拒否すれば、旦那が潰される”構図**が既に立っている。
それを私は、誰に相談もできずに、
ただ画面を見つめ続けていた。
《都合の良い日時があれば、教えてください》
《もちろん、ご主人のシフトも考慮します》
淡々とした追撃。
言葉遣いに礼儀すらある。
だからこそ──脅しの輪郭は曖昧で、確実だった。
私は、画面を閉じた。
でも通知は消えなかった。
光だけが、暗闇の中に溶けていった。
隣で眠る夫の腕に、
私は静かに背を向けた。
◆―糸視点
──妻の様子が、おかしい。
確信ではない。
けれど、確実に“空気”が違っていた。
あの日。
上司の隠目帳が突然家に来たという、あの日から。
「ただ心配してたってだけ。
あなたの職場の様子、少し聞かれたけど──
大丈夫って、ちゃんと伝えたわ」
リサはそう言っていた。
言葉に違和感はなかった。
笑顔も、いつものままだった。
……でも。
あれから彼女は、よくメイクをするようになった。
外に出る頻度も増えた。
そしてなにより──目を見て会話する時間が減った。
糸は、すぐに責めなかった。
ただ静かに観察していた。
“リサは俺のことを好きだから”
“疑うのは、リサを傷つけることだ”
そう思いたかった。
けれど、その信頼が日ごとに軋む音を立て始めた。
──あの日から。
彼女は、時折スマートフォンの画面を、まるで罪人のように隠す。
笑っているのに、どこか目が合わない。
手首の痕は、前より増えていないのに、
なぜか──“隠されている”気がした。
「……なあ、リサ」
ある晩、寝る前の布団の中で、糸は小さな声で問いかけた。
「俺のこと、まだ……好き?」
リサは驚いたように振り向いた。
そして、少しだけ間を置いて、微笑んだ。
「もちろん。そんなの、聞かなくてもわかるでしょう?」
その笑顔を、糸はしばらく見つめていた。
そして、言った。
「……そう、だよな。
信じてる。
俺たちは……“赤い糸”で繋がってるんだもんな」
けれど、その夜。
糸の目は、長いあいだ眠らなかった。
その“赤い糸”が──どこかで他の誰かと絡まっているのではないか、
そんな妄想が、静かに、静かに、胸の奥で芽を出し始めた。
そして糸はまだ気づいていない。
その芽が、やがて**“愛の檻”という名の檻を編み始めることを──
◇―リサ視点
帳との次の約束は、数日後だった。
私は、何もなかった顔で出かけた。
化粧は控えめに。
服装も、目立たぬように。
でもそのすべてが、“誰かに見つかること”を恐れている証だった。
彼は、前回と同じカラオケボックスの前で待っていた。
相変わらず、整った姿。
だがその笑顔には、前よりも少しだけ──確信が滲んでいた。
「……会いたかったよ、リサさん」
その呼び方に、私は少し肩をすくめた。
帳は、目を細めて言った。
「……いや、もう“リサ”って呼んでいいよね?」
私は答えなかった。
けれど、否定もしなかった。
それだけで、帳には“承認”として届いた。
「……リサ。
君って、名前にしては本当に似合ってるよね。
かわいくて、少し儚くて……でもちゃんと、背中で重さを支えてる」
その言葉が、
くすぐりのように耳に残った。
「今日は……キスしないよ。
約束する。
俺、触れないって言ったら触れないから」
部屋に入っても、帳は距離を詰めてこなかった。
だからこそ、怖かった。
「……糸くんとは、うまくやってる?」
その一言に、私は一瞬、言葉を失った。
帳は、ゆっくりと紅茶を口に運びながら、微笑んだ。
「表面上はね、君がまだ“妻”を演じられている限り、
彼はたぶん疑わない。
でも、“君が自分に向いていない”ってことには──
彼、気づきはじめてるよ?」
私は、喉の奥がひりついた。
何も答えられなかった。
「でもね、リサ。
俺は君に、“選べ”なんて言わない。
君が、どちらの檻が居心地いいかだけ、決めればいい。」
その声は、
やさしくて、
冷たくて、
何よりも──真実だった。
私は、自分がどちらに“落ちていく”か、
もう分かっていたのかもしれない。
沈黙が続いた。
私たちはまた、誰にも聞こえない部屋の中で、
紅茶を冷ましたまま、向かい合っていた。
私は、勇気を振り絞って言った。
「……いつまで……
こんな関係、続ける気ですか……?」
言葉に棘はなかった。
でも、確かに距離を求める響きがあった。
帳は、微笑んだ。
ごく自然に、まるで問いかけに共感するように。
「……うん。
おまえが、糸と別れるまでだよ。」
その瞬間。
声のトーンが変わった。
やわらかく、でも明らかに低く、
“所有者”の声だった。
「別れない限り、このままだよ。
だって俺、おまえがまだ“あいつのモノ”なのが気に入らないんだ」
“おまえ”──
帳が、私を呼ぶ言葉を変えた。
それは親しさではなく、一方的な掌握。
「おまえ、俺のことを選んだんだよね?
あの日、俺に会いに来た。
あのとき、逃げなかった。
それってもう──“そういうこと”でしょ?」
私は喉の奥を押しつぶされるような感覚に襲われた。
「……帳さん……」
「ねえ、なんで“さん”付けすんの?
俺のこと、呼び捨てで呼んでみてよ。
“帳”って」
私は首を横に振った。
帳は、笑った。
それはまるで、断られることすら楽しむ支配者の顔。
「糸がいる限り、
おまえは“逃げる理由”があるって思ってるんだろうけど──
その理由、俺が潰してやるよ」
「……やめて……」
「やめないよ。
だって、俺はおまえが欲しいんだもん。
全部。心も、身体も、名前も──
“おまえの未来”もね」
彼の瞳が、初めて狂気の色で私を映していた。
帳はもう、
“優しさの仮面”を脱ぎ捨てていた。
そしてその顔は、
恋ではなく──呪いに近い愛情を宿していた。
部屋の空気が重く沈んでいた。
前回の密会とは違う。
帳は笑っていたが、その笑顔の奥から“支配の熱”が噴き出していた。
「ねぇ、リサ。今度は……そっちからキスしてよ」
「……は?」
私は冗談かと思った。
けれど帳の表情は変わらなかった。
むしろそのまま、さらに甘く続ける。
「だって、俺たち、もう付き合ってるんだし。
一方的なのは、フェアじゃないよね?」
私の喉が詰まった。
冷たいものが背骨を滑り落ちていく。
「……何言って……」
「──拒むの?」
その一言で、空気が一段階、凍りついた。
帳の声は低く、笑っていなかった。
そしてその目が、
まるで私の内側を覗きこむように、じっと動かずに見つめていた。
“拒否”を、彼はすでに“裏切り”と定義していた。
「ねえリサ。俺のこと、嫌いになったの?
俺、おまえのこと……こんなに、愛してるのに」
声は柔らかい。
でもそれは、ナイフに絹を巻いたような言葉だった。
「……帳、お願い……それ以上は……」
私がその名を呼んだ瞬間、
彼の目がわずかに細まった。
「……やっと、名前で呼んでくれた」
吐息のように、囁く。
「嬉しいよ、リサ。
でもね、もう“お願い”で済む段階じゃないんだよ。
“おまえが選んだんだろう?”」
帳は一歩、私の方へ近づいた。
その歩幅が、ごく自然だったことが、
逆に恐ろしかった。
私は動けなかった。
手が震えていた。
それを見て、帳は微笑んだ。
「ほら……早く、ね?
俺のものになった証を、“君の意志”でちょうだいよ。」
その言葉は、
もはや“愛”ではなかった。
それは**“命令”だった。
甘さをかぶった、**支配の最終段階。
(……旦那のため。
……これは、旦那のためだから……)
私は、自分にそう言い聞かせながら、
唇を帳に重ねた。
手は震えていた。
目は閉じられなかった。
逃げることもできず、ただ“受け入れたふり”をすることしか、私にはできなかった。
帳の手は私に触れなかった。
あくまで“私の意志でキスをした”という形を、
きちんと守るために。
その慎重さが、逆に恐ろしくて──
私の心を、ひどく汚していった。
──そのとき。
パシャリ。
シャッター音。
一瞬の、乾いた破裂音。
私は凍りついた。
帳の肩越しに見えたのは、
スマートフォンのレンズだった。
そしてそれを片手に、
帳が笑っていた。
「……ごめんね。
でも、思い出って、ちゃんと形に残さなきゃ。」
私の血の気が引いた。
膝がかすかに震える。
「……帳、それ……」
「うん。キスの瞬間。綺麗に撮れてたよ」
画面をこちらには見せない。
でも、その笑顔は完全に“確信犯”のそれだった。
「安心して。
誰にも見せない。
ただ──“俺のもの”として、持ってるだけだから。」
私の手首が、言葉ではなく、
“撮られたという現実”に縛られ始めた。
「もう大丈夫。
君は、ちゃんと俺のほうを向いてくれた」
そう言って、帳は私の髪に手を伸ばす。
今度は優しく、
本当に優しく、撫でてくる。
私は声を出せなかった。
叫ぶ資格も、もう──ないと思っていた。
旦那のため。
その言葉が、
帳のスマホの中で、“裏切りの記録”に変わっていったことに、
私はまだ気づいていなかった。
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