第5話 暴かれる設計者

唇の感触がまだ残る。

何が起きたのか、

私は自分の呼吸がどこにあるのかさえ見失っていた。


 


けれど──


 


「糸くんを……いや、

 “あいつ”をいじめるように仕向けていたのは、

 俺ですよ、リサさん」


 


帳の声が、

まるで天気予報でも語るかのように、平坦に降ってきた。


 


「……え?」


 


私の口から漏れたその言葉は、

怒りでも否定でもなかった。

ただ、全ての感情が一瞬で“止まる”という現象だった。


 


彼は笑っていなかった。

さっきのにやりとした表情とも違う。

感情を抜いた語り手の顔。

 それこそが、本当の帳だった。


 


「赤衣くんが繊細なのは、すぐに分かってました。

 周囲の視線に怯えて、

 被害者の顔をするのが、すごく上手い」


 


私は声を出せなかった。

でも、この人が“事実”を語っているのは分かった。


 


「だから、俺は言葉を使ったんです。

 “あいつに話しかけなくていい”、

 “ちょっと態度を変えてやってくれ”──

 たったそれだけで、

 彼の世界は崩れ始めた」


 


「帳さん……それって……」


 


「悪いと思ってますよ。

 でも──その崩れた世界の中で、

 あなたがどんな顔をするのかが、どうしても見たかったんです。」


 


今、私が怒るべきなのは──

さっきのキスではない。

この告白。

この計画された破壊行為。


 


でもなぜか、

私はキスよりもこの言葉に、

ずっと強く心を掴まれていた。


 


帳は、再び目を細めた。


 


「あなたが“俺を憎む”か“許す”か、

 どちらでもいいんです。

 でも、もう俺からは逃げられませんよ。

 あなたは、知ってしまったから」


 


その瞬間、

私は“ただの被害者”ではいられなくなった。


「どういうことですか!」

私の声が、密室に反響した。

「旦那が何をしたっていうんですかっ!

 あなたがそんなことして、許されるわけ──」


 


帳は、黙っていた。

責める私を見て、ただ静かに──

まるで慈悲深い裁判官のような顔で、沈黙していた。


 


そして、低く、柔らかく言った。


 


「……あなたが悪いんですよ、リサさん」


 


「……なに?」


 


「覚えてないんでしょうね。

 初めて、あなたを俺が見かけた日を」


 


言葉が、喉の奥で止まる。

怒りが一瞬、形を失う。


 


帳は、ゆっくりと椅子に背を預けて、

微笑みすらせずに続けた。


 


「あなた、昔──カフェで働いてたでしょ?

 駅前の、少し古いビルの二階。

 ……俺のこと、覚えてないんですか?」


 


カップの置き方。

制服の匂い。

誰かに話しかけた記憶──

そのすべてが曖昧で、でも確かに、あった。


 


「……あ……」


 


「そう。あなたは、ただ“接客”をしただけだった。

 でも、俺にとっては──その日がすべての始まりだった。」


 


帳の目に、光が射した。

冷たさではない。

むしろそれは、病的なまでの純粋さだった。


 


「笑ってくれた。注文を間違えても、優しく訂正してくれた。

 『ありがとうございました』って、目を見て言ってくれた。

 ……それだけで、俺の中に“あなた”が植え付けられたんですよ」


 


「……それだけのことで……」


 


「ええ。それだけのことで、

 俺は、“あなたを糸くんから奪う方法”を考え始めた」


 


その瞬間、空気が一段階重くなった。


 


帳は語りながら、告白ではなく“回収”をしていた。

リサの記憶。行動。態度。無自覚な優しさ。

そのすべてを“原因”として突きつけてくる。


 


「あなたは……私に、罪があると……?」


 


「いえ、ありません。

 でも、“責任”はある。

 だって、俺に火をつけたのは、あなたでしょう?」


 


唇を奪った男が、

いま目の前で、恋の始まりを“被害者のせい”として語っていた。


 


──この人は、

 本当に、

 最初から“私”だけを見ていた。


 


それが、言いようのない恐怖となって、

喉に、胸に、背中に、ひたひたと滲んでいく。


「私は──旦那を、糸を愛しています!

 ……結婚だって、してるのにっ!」


 


思わず声が震えた。

心臓が早鐘を打つ。

自分の中に確かなはずの言葉が、

どこか頼りなく空中に溶けていく。


 


でも、それでも。

私は、夫の名を、結婚という契約を、盾にして自分を守ろうとした。


 


帳は黙って私を見ていた。

冷静に。静かに。

まるで、次の一手を読み終えた棋士のように。


 


「──だから、何だっていうんですか?」


 


その返しが、あまりにも、鋭く、正確だった。


 


「夫婦だということ? 愛しているということ?

 ……そんなの、**“外からは証明できない関係”**ですよ」


 


私は言葉を失った。

帳は微笑みもしなかった。

ただ、淡々と続けた。


 


「でもね──俺があなたの家に行ったとき、わかりましたよ。

 あなた、自分が本当に“愛されてる”と思ってるんですか?」


 


「……っ」


 


「その手、見せてもらえますか?」


 


私は、反射的に手を隠そうとした。

だけど、帳の目はすでにそこを見ていた。


 


「手首の痕。

 薄くなってるけど……“何かで繰り返し縛られてる”痕ですよね?」


 


私は凍りついた。

無意識のうちに袖を下ろして隠していた痕。

化粧でも、服でも完全に隠しきれなかった。


 


「リサさん──

 “愛されてる”と言っていいのは、

 あなたが傷ついてないときだけです。」


 


帳の声は、まるで“教育”だった。

冷たく、正しく、容赦がなかった。


 


「あなた、わかってますよね?

 その痕がどうやってつけられたのか」


 


私の呼吸が乱れていく。

言葉が、もう守ってくれなかった。


 


「それでも“愛してる”と言えるなら、

 それはもう、愛ではなく“共依存”です。」


 


帳の指が、テーブルの上に置かれた私の手に、そっと触れた。

触れるだけの、熱を持たない接触。

でも、皮膚の下の感情だけが、確かに反応してしまった。


 


「リサさん。

 俺は、あなたを責めてるんじゃありません。

 あなたが“まだ自分を救えるうちに”、

 見てほしいだけなんです。」


 


その声は、

“甘さ”ではなく、“助けを装った命令”だった。


 


「……俺とのキス、

 内心──嫌じゃなかったんじゃないですか?」


 


その言葉は、部屋の空気を一度に変えた。

熱でもなく、冷たさでもなく、

ただ、息を飲む音さえ逃げ出すような、“重さ”だけを残していた。


 


私は震えた。

思考が止まった。

何も言い返せなかった。


 


帳の目が、真っすぐに私を見ていた。

逃げ場を与えない、でも怒ってもいない。

責めているだけだった。


 


「嫌なら……あなたは、もうこの場にはいないはずですよ」

「…………」


 


「席を立つこともできた。

 拒絶することも、怒鳴ることも、通報することも、

 全部──選べたはずです」


 


その言葉が、

“心の奥にある一瞬の曖昧さ”をえぐった。


 


「でもあなたは、まだここにいる」


 


帳の声は低かった。

脅してもいない。

ただ、“事実”だけを並べていた。


 


「俺の目から見れば──

 それって、**“許した”のと同じに見えるんですよ、リサさん」


 


私は唇を噛んだ。

言い返したいのに、

その言葉が、心のどこかで真実に触れているのが分かった。


 


確かに、あのキスの直後──

私は、走って逃げなかった。

扉を開けて外に出ることもできた。

怒鳴り声も上げなかった。


 


「……私は……っ」


 


「あなたの中にあるものが、全部“綺麗”じゃなきゃいけないなんて、

 俺は思ってません」


 


帳が、ふっと目を細めた。

それは、まるで慰めのようでいて──

“泥に片足を突っ込んだ人間だけに向ける目”だった。


 


「それが、人間ってやつでしょ?」


 


その言葉で、

私ははじめて──

自分の“心のほつれ”を、認めさせられた気がした。


 


帳の瞳が、じっと私を見つめてくる。

慈悲はない。救いもない。

でもそこには、**“理解者の顔をした支配者”**がいた。


 


そして私は、

その視線から──逃げられなかった。


 


「──旦那を……糸を、いじめるのはやめてください……」


 


声は震えていた。

頼みというより、祈りに近かった。

それでも、私は言わなければならなかった。

帳の狂気がどこまで浸食していようと、

私がまだ人間である限り──それだけは。


 


だが。


 


帳は、ごく当たり前の顔で返した。


 


「それは……無理なお願いですね。」


 


一切の揺らぎも、怒りもなかった。

ただの事実として突きつけられた。


 


「え……?」


 


「でも──」

帳は、テーブルの上で手を組んだ。

その仕草はまるで、ビジネスの提案のようだった。


 


「条件を呑んでくれるなら、考えてもいいですよ。」


 


「……条件?」


 


「俺と、付き合ってください」


 


その言葉が落ちた瞬間、

時間が止まった。


 


「…………」


 


「もちろん、糸くんには内緒で。

 彼が“救われた”と思っているうちに、

 あなたは“こっちの関係”を始めてくれればいい」


 


私は言葉を失った。

声が出なかった。


 


「俺が赤衣くんに仕掛けていた“敵意”を引っ込める代わりに──

 あなたは、“俺の味方”になってください」


 


帳の言葉は、恋愛の告白ではなかった。

それは明確に、“条件付きの救済”。

その本質は**“心の身体売買”だった。**


 


「嘘はつかなくていい。

 愛してる必要もない。

 ただ、“俺と会うこと”を、あなたが選び続けてくれればいいんです」


 


その声は穏やかだった。

でもそれが何より恐ろしかった。

帳は本気で、“これがフェアだ”と信じている目をしていた。


 


私は、答えを出せなかった。

ただその瞬間──

世界のどこにも、“善”という選択肢が存在しないことだけは、はっきり分かった。

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