第4話 繋がる声
「……あまりご自宅にお伺いするのも、
ご迷惑かと思いまして」
帰り際、帳はそう言った。
まるで気遣いのように。
だがその言葉には、“接触を絶つ”意志ではなく、
“別の方法で触れ続ける”提案が含まれていた。
「もしよろしければ、連絡先を交換しませんか?」
リサの口元がかすかに震えた。
だが、否とは言えなかった。
糸の“愛”の中で窒息しそうな日々。
帳の声は、いつも空気のように軽く、どこか救いがあった。
──「私が弱いだけ」
そう言い聞かせながら、私は携帯を手に取った。
帳の番号が登録される。
それは、単なる数字の羅列ではなかった。
“私の時間に割り込める許可証”だった。
その日から、帳から連絡が来るようになった。
《こんばんは。今日の赤衣くんの様子ですが──》
《もし夜が苦しいようでしたら、少しだけ話しませんか?》
《無理をなさらずに。僕は、ただ“知っていたい”だけです》
最初は仕事に関する内容が多かった。
でも、次第に変わっていった。
《空を見ましたか? 今夜はよく晴れているようです》
《何も起きていなくても、声が聞きたくなる時があります》
《“おやすみなさい”を言ってくれる人が、あなたにいますように》
私は、返信をしなかった。
でも、通知は毎日届いた。
糸の視線が怖かった。
でも、帳の声を拒むほど、私はもう正常ではなかった。
それは、“糸”よりも細い糸だった。
けれど、もっと柔らかく、
もっと静かに、私を巻き取っていった。
そして私は、その細い声に、
いつか返事をしてしまう日が来ることを、
予感していた。
《糸くんの社内でのいじめについて、
いくつかわかったことがあります。》
スマートフォンの画面に、帳の名前が表示された瞬間、
私の心臓はひとつ、大きく脈打った。
《あまり文章では話せない内容です。
もしよろしければ、今週中に少しだけお時間をいただけませんか?
リサさんと、直接お話できればと。》
まるで、弁護士のような文面だった。
慎重で、誠実で、けれど**「断れない構文」**で成り立っていた。
──まさか、本当に糸が……。
疑っていたわけではない。
けれどどこかで、彼の“過剰な被害意識”だと
片付けていた自分がいたのかもしれない。
帳の言葉が“証拠”として差し出されたことで、
私は急に現実に引き戻された。
《ご安心ください。
あくまで非公式の場です。
ご主人には一切お話いたしません。》
その一文が、決定打だった。
──夫を、守らなければ。
私の中の“正しさ”が、
帳との密会を“正当な行動”として再定義した。
会う場所は、人気の少ないカフェ。
時間は、平日の午後三時。
糸が昼寝をする習慣のある時間帯を、私は選んだ。
彼に嘘をついたわけではない。
でも、隠したことは事実だった。
「リサさん。お会いできて、嬉しいです」
帳は静かに現れた。
以前よりも少しカジュアルな服装で、
だがその目の奥には、やはり“情報を持つ者の余裕”が宿っていた。
この人から、真実を聞かなければならない。
私はそう自分に言い聞かせていた。
でも、
その日初めて──“帳の匂い”が、私の心に残った。
そしてそれは、
“夫のために会ったはず”の記憶に、
明確な裏切りの兆しを混ぜたのだった。
「……すみません。
糸くんがこんなにも追い詰められていたのは、
俺の、管理不足のせいです」
帳は、深く、まっすぐに頭を下げた。
カフェのテーブル越しに、静かな罪の形を描いて。
その姿は完璧なまでに“責任者”で──
同時に、“誰よりも傷ついているように見える人間”だった。
「やめてください、そんな……」
私は反射的に身を乗り出した。
彼の背中にかかる謝罪の重みを、引き上げるように。
「帳さんのせいじゃありません、彼が……糸が弱かっただけで」
「でも……“弱さ”を見抜けなかったのは、
やはり俺の責任です」
彼の声は、明確な落ち着きを保っていた。
だがその静けさが、かえって私の心を揺らした。
謝られることで、私は“彼を許す側”に立たされた。
帳は、上下の関係を逆転させたまま、
私に手を差し出していた。
「彼の家庭環境や、生い立ちも──
少し複雑であったことは、把握していたんです。
けれど、妻であるあなたに、それを伝える権利が俺にあるのか、
ずっと悩んでいました」
彼の語る一語一句が、**“私だけに明かされた秘密”**として
胸に沈んでいくのがわかった。
誰にも話せない──だからこそ、帳とのこの時間だけが、
真実に触れた場所として異様に鮮やかだった。
「帳さん……ありがとうございます。
でも、本当に謝らないで……そんなの、違います」
「あなたがそう言ってくださることが、
今の俺には、救いです」
その言葉の“救い”が誰のためのものなのか、
私はまだ気づかないふりをしていた。
彼は私の手には触れなかった。
けれど、彼の声が、
私の内側のどこかに、確実に触れていた。
帳は、テーブルの上に残されたコーヒーカップを見つめながら、
ふ、と静かに言った。
「……ここでは、誰かに聞かれてしまいますね」
その声はごく自然だった。
誰もが一度は言うような台詞。
でも、私の背筋に走る緊張は、確かに何かを察していた。
「申し訳ないですが──
もう少しだけ、二人きりになれる場所へ移動しませんか?」
「……え?」
「いえ、変な意味じゃないですよ」
すぐに、帳はやわらかく笑った。
「本当に大事なことは……“密閉された場所”でしか話せない。
世の中って、不思議ですよね」
その言葉に、私はうなずくしかなかった。
彼の言葉のすべてが、正しいことのように聞こえる。
“真実を話すには密室が必要”──そう言われれば、反論の余地はない。
私たちは、静かに店を出て、
駅前のカラオケボックスへ向かった。
「……こういう場所に、
仕事帰り以外で入るのは、初めてです」
帳は受付で精算を済ませ、
ごく普通の個室の鍵を受け取った。
「安心してください。
防音、ワンドリンク、扉は中から開けられます。
──何も“閉じ込める”つもりはありませんから」
その一言が、
逆に“閉じ込め”を意識させる皮肉のように響いた。
けれど、私は笑った。
帳の声を、疑うことができなかった。
部屋に入り、帳はドアを静かに閉めた。
音がふっと消える。
機械の起動音と、密室特有の空気だけがそこにあった。
「さて……ここなら、
誰にも聞かれずに話せます」
そのとき、帳の目が少しだけ変わった。
あの、外で見せる穏やかな光ではない。
中に踏み込んだ者にだけ向ける、
“本性の気配”が、わずかに滲んだ。
私は、飲み物を頼むふりをして、
テーブルの下で手を強く握った。
これは“糸の話を聞くため”の密会。
それ以上でも、それ以下でもない──
そう、言い聞かせるしかなかった。
「……で、糸がいじめられてるって、
誰に?」
私は、覚悟を決めた声で問いかけた。
帳の目を、まっすぐ見て。
彼がこれまで一度も“嘘”をつかなかったように見えたから。
帳は、ほんの一瞬、表情を止めた。
そして──
「それはですね……」
彼はそう言いながら、口元だけで笑った。
声は出さず、
あまりにも静かに、“にやり”と。
私の背中に、氷の針のような悪寒が走った。
あ、と気づいたときには──
──もう遅かった。
帳の指が、
静かに、けれど躊躇なく私の手を掴んでいた。
「っ……!」
そして、
唇が、奪われた。
抵抗する間もなかった。
言葉の余韻の隙間に、
彼の身体はすでにこちら側へと侵入していた。
音はなかった。
テレビも、マイクも使われていないカラオケルーム。
だからこそ、そのキスの湿った感触と体温だけが、
部屋のすべてを支配した。
帳は、離れ際に囁いた。
「……これで、奥様も“当事者”ですね」
その言葉は優しく、
そして**“証拠を残さずに墜とす技術”**のようだった。
私は、すぐに叫ばなかった。
手を振り払うこともできなかった。
ただ、胸の奥でひとつ、何かがはじけていた。
──なぜ。
──なんで。
これは、違う。
でも、“本当の違和感”は、
私の心の中の、ある部分が──
その感触を“嫌いじゃなかった”と、
呟いてしまったことだった。
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