第3話 帳の来訪
その日は、曇り空だった。
窓の外は灰色で、何の感情も持っていないような雲が流れていた。
「リサ、ごめん。ちょっと牛乳買ってくる」
「……うん、気をつけて」
糸が出かける。
彼の背中を見送って、私は少し息をついた。
身体のロープは外されていたけれど、心はまだ、締め付けられたままだった。
しばらく、テレビを見ていた。
頭に入ってくるような、入ってこないようなバラエティ番組の音。
無音よりはまし──そう思っていた。
──インターホンが鳴った。
心臓が跳ねた。
糸が忘れ物をして戻ってきた? それとも宅配?
私は玄関に向かい、モニターを見る。
そこに映っていたのは、見覚えのない男性だった。
スーツ姿。茶髪。
微笑んでいるが、その笑顔が“感情”ではなく“訓練された顔”に見えた。
「赤衣さんの奥様でしょうか。突然すみません、彼の上司の隠目(かくしめ)と申します」
──上司?
糸が職場でいじめられていると話していた、あの職場。
この人が……上司?
「少しだけ、お話できませんか。
実は、赤衣くんの様子が最近心配で──
ご家庭の状況など、伺えたらと……」
私は迷った。
けれど、彼は何度も丁寧に頭を下げて、
声のトーンを少しだけ落として言った。
「奥様も、お辛いでしょう?」
──その一言で、私は鍵を開けた。
扉を開けると、帳は深く一礼し、
一切視線を泳がせず、まっすぐに私を見た。
けれどその目は、何かを探っているようだった。
「ごめんなさい、突然。
奥様の方が話しやすいかと思って……
赤衣くんのこと、職場では少し繊細で……
周囲との関係がうまくいっていないようで、私も心配していて」
その言葉には責任者としての誠意があった。
でも、なぜだろう──私はどこかで感じていた。
**“この人は、彼の敵だ”**と。
けれど、私の中でそれ以上の思考は止まった。
帳は、柔らかく微笑みながら言った。
「無理にお話を伺おうとは思いません。
でも、もし何か困っていることがあれば──
私は“味方”でいたいと思っています」
そのとき、携帯の通知が鳴った。
──【糸:あと5分で帰るよ】
あっという間に、現実が戻ってきた。
私は帳に軽く頭を下げ、言った。
「すみません、主人がもうすぐ戻ってきますので──」
帳は笑ったまま、一歩だけ下がった。
「また……お会いできることがあれば、嬉しいです」
その一言が、告白にも、脅しにも、呪いにも聞こえた。
扉を閉めたあと、
私の背筋はずっと、冷たい風に撫でられているようだった。
──“敵か味方か”なんて、
本当は、どちらでもなかったのかもしれない。
彼は、ただ“入り口”になりたかっただけ。
“支配”は、もう始まっていた。
知らぬ間に、誰もいない部屋に、もう一人の影は入ってきていたのであった。
鍵の音がしたとき、私はまだソファの上で立ち上がれずにいた。
帳が去った後の空気は、どこか薄く、乾いていた。
「ただいま」
いつも通りの声。
だけど、私の中に何かが波紋のように残っていて、
それを完全に消すことができなかった。
「おかえりなさい」
糸はレジ袋をぶら下げたまま、私を見た。
視線が静かに、私の顔を舐めるように滑っていく。
「……リサ、何かあった?」
その問いは、“気遣い”の声をしていた。
でも、ほんの僅かな違和感──それを糸は嗅ぎ取っていた。
「……あ、ううん。
ただ──さっき、あなたの上司の隠目さんがいらしたの」
その瞬間、糸の目が少しだけ動いた。
笑顔は崩れていない。
でも、まばたきが一度、長くなった。
「……帳さんが?」
「ええ。“心配してる”って。
いくら有休といっても、いつまでも取ってられないし──
これから、どうするつもり?」
糸はゆっくりとレジ袋を置いた。
手の指が、微かに震えていた。
その震えを、糸自身が強く握りしめて押さえ込む。
「……そうか。来たんだね、帳さんが」
その声は穏やかだった。
でも、言葉の最後にひとつだけ、“音の重み”が混ざっていた。
「僕が、壊れかけてること──
誰かに話されたくなかったな」
私は口をつぐんだ。
その言葉に責任を持てるほど、私は強くなかった。
「ごめんなさい、でも……私も、心配で……」
「……ううん、リサが悪いわけじゃないよ」
「ほんとに……?」
「ただ、君の心がどこにあるか──
それだけは、ちゃんと僕が見ておかないとね」
その言葉は優しい。
でも、“監視の宣言”にしか聞こえなかった。
彼はそのまま、ソファの脇にしゃがんだ。
そして、私の手首にそっと触れた。
「ねえ、あやとり、しようか?」
指が、赤い糸を握っていた。
その瞬間、私の呼吸は浅くなる。
──帳と話したという、それだけのことが、
“縛りの強度”を変えるなんて。
私はうなずくしかなかった。
「……うん」
でも、心のどこかで確かに知っていた。
この日を境に、
糸は“ほどけない”という言葉を、
“逃がさない”という意味に完全に変えたのだ。
――2日後
「……愛してるよ、リサ」
糸はそう言って、私の髪に口づけを落とした。
それは、出社前の習慣のように、毎朝繰り返されるものだった。
「いってきます」
「……いってらっしゃい」
彼の背中が遠ざかるたび、
私はいつも、ほんの少しだけ深く息をつけた。
それは、“解放”ではなく、“恐怖の猶予”だったけれど──
それでも、糸がいない数時間は、唯一の静けさだった。
けれど、その日の午後。
再び──インターホンが鳴った。
私は息を止める。
無意識のうちに、心が答えを出していた。
──“来た”。
あの人だ、と。
モニターの中。
茶髪に端正な顔立ち、品のある笑み。
前回とまったく同じ角度で、帳が立っていた。
「奥様──こんにちは。
お時間、ほんの少しだけでもよろしいですか?」
私は戸惑いながらも、鍵を開けていた。
前回のことが、身体のどこかに“許可”として刻まれてしまっていた。
扉の外に立つ帳は、穏やかだった。
だがその笑みの奥に、**微かな“計算された沈黙”**が宿っているのが、
私の目にも分かるようになっていた。
「……赤衣くん、出社されましたね」
「ええ、今日は……少しだけ」
帳は頷いた。
まるで“彼がいないこと”を確認しに来たようにすら思えた。
「赤衣くんが最近、私の前で何も言わなくなってしまって。
たぶん、奥様にだけは……何か、吐き出しているのではないかと」
「そんな……私は、ただ……」
「ええ、分かっています。
あなたは、ただ“そばにいる”ことを選ばれた──
それが一番、難しいことだ」
彼の言葉は、私の疲労をすくい上げるように響いた。
まるで、何かを見抜かれたようで、でも否定されていない安心感。
「リサさん、とお呼びしてもよろしいでしょうか」
「……はい」
「リサさん。
あなたは、ずっと“赤い糸”に縛られて生きてきた。
でもその糸が、もし“自分の意志”で選んだものじゃなかったとしたら──
それでも、ほどけないままでいいのですか?」
その問いは、優しい。
だけど、明確に“切断”の提案だった。
帳は手を伸ばしてきた。
触れないまま、ほんの数センチだけ、私の髪先へ。
「あなたの目には、もう“疲れ”が色濃く宿っている。
赤衣くんがそれに気づいているかどうか……
私は、彼の上司として──そしてひとりの大人として、
少しだけ、あなたを守りたい」
それは“保護”の言葉だった。
けれど同時に、“同意”を迫る手だった。
「また、来てもいいですか?」
私は……答えなかった。
帳はそれを“了承”と受け取ったように微笑んだ。
「それでは、また」
ドアを閉じると、部屋の空気が急に重くなった。
帳は触れてこなかった。
けれど、私は**“手を添えられたような疲労”**に包まれていた。
──糸は知らない。
けれど私はもう、
“自分の呼吸が誰に支配されているのか”を、
分かり始めてしまっていた。
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