第2話 ほどけない愛

最初の“あやとり”は、ただの赤いロープだった。

でも、次第に彼の手つきは変わっていった。

絡め方が複雑になり、結び目が解けにくくなっていった。


 


「リサ、動かないで──ほら、今ここ、失敗したら綺麗に仕上がらないから」

「……うん」


 


それはあくまで“遊び”だった。

彼はそう言い続けた。

私は、そう思い込もうとした。


 


──けれど、“遊び”なら、どうして私は毎晩、両手を縛られなければいけないのだろう?


 


リビングには、いくつものロープが並べられていた。

太さも、質感も、すべてが異なり、彼はそれらをまるで美術品のように扱った。


 


「今日はね、リネンの糸を使ってみようと思って。

 肌にやさしいんだよ、これ──君を傷つけたくないから」


 


優しい声だった。

ほんの少しでも抵抗しようものなら、

彼はすぐに眉を下げて、哀しそうな声でこう言うのだった。


 


「……ごめんね、怖かった?

 君を縛ることしか、僕にはもうできないのに……」


 


逃げ場はなかった。

拒絶すれば、罪悪感に縛られる。

受け入れれば、肉体に糸が絡む。

どちらに転んでも、“私の意志”は存在しない。


 


ある夜、私は少しだけ、口に出してしまった。


「糸……私たち、本当に……これでいいの?」


 


彼は、少しの沈黙のあと、柔らかく笑った。


 


「うん、いいんだよ。

 だってリサ──君はもう“解けない”んだもん」


 


彼はそのまま、ロープをさらに強く結んだ。

腕から手首へ、手首から指先へ。

まるで私という存在が、“あやとりの一部”に編み込まれていくようだった。


 


「ねえリサ……

 これ、完成したら……額に飾ろうか?

 “君との愛の形”って、タイトルつけて──」


 


そのとき私の身体は、

完全に糸の手で包まれていた。

けれど、心のどこかでは──まだ叫んでいた。

これは違う。

 こんなもの、愛じゃない──

 でも、声にならない。


 


“ほどけない”という言葉が、

“逃げられない”という意味に変わるまで、

あと、数日だった。



――数日後、いつものように夕飯の準備をしていたときだった。

玄関の扉が重く開き、

赤衣 糸がゆっくりと、まるで何かを引きずるように帰ってきた。


 


「……ただいま」


 


その声は、いつもの優しい声だった。

でも、何かが違った。

目の下には深い隈ができ、ワイシャツの袖は少し濡れていた。


 


「どうしたの……糸?」


 


私が声をかけると、

彼は一歩、二歩と近づき、

何も言わずに、私を抱き締めた。


 


強く。

腕の力が、少し痛いくらいに。


 


「糸……?」


 


そのまま、彼の声が落ちてくる。


 


「……リサ。俺、もう会社辞めたい」

「え……?」


 


「ずっと我慢してきたけど、

 もう無理だ。

 毎日誰かに責められて、睨まれて……

 俺がいるだけで、空気が濁るって、そう言われるんだ」


 


私の手が震える。

今まで一度も、彼が職場のことを愚痴ったことはなかった。


 


「……それ、本当なの?」


 


彼は頷く。

唇を噛み、目を逸らして、

けれど腕の力だけは緩めようとしなかった。


 


「……でも、まだ辞めてない。

 リサと相談したくて、今日、話そうと思って──

 転勤の希望も……出そうか、迷ってる段階なんだ」


 


そう、彼は**「行動に移していない」**。

けれど、私に“決断を促すような言い方”をした。

あくまで相談のように見せて、

その実、私に“同意”を引き出そうとしている。


 


私は言葉を選んだ。


 


「……でも、糸のことが心配。

 辞める前に、何かできること、ないの?」


 


彼はそのとき、少し笑った。

けれどその笑顔は、どこか崩れていた。

不安というより──“狙い通り”とでも言いたげな、ひどく静かな顔。


 


「リサが、いてくれれば、それだけでいいよ」


 


その言葉が、

“何もかもを押しつける準備”に聞こえたのは、

きっと私の神経が、もう少しだけ正気を保っていたからだ。



彼は会社をしばらく休んだ。

有給を取り、家で静かに過ごす日々が始まった。


 


「無理しなくていいよ」と私は言った。

けれど、その静けさが“治癒”ではなく、

何かを煮詰めていく時間であることに、

私は少しずつ気づいていた。


 


朝、リビングに来ると、彼はもう座っている。

テーブルの上には整然と並んだロープ。

色とりどり。素材も違う。

その中央に、赤い糸があった。


 


「リサ……今日も、あやとりやろう」


 


彼の声は、いつも通りだった。

むしろ以前より、穏やかで優しさに満ちていた。

だがその声が、**“儀式の開始”**のように聞こえてしまうのは──

私の心がすでに警告を鳴らしていたからだ。


 


「……うん」


 


それしか言えない。

抵抗すれば、彼の笑顔は悲しみに変わる。

そしてその悲しみが、

私の罪悪感を“新たな縄”に変える。


 


その日も、

私は足元から縛られた。

太腿に巻きつくように、

腰に、腕に、指先に。

まるで、赤い“蜘蛛の巣”が私の全身を這うように。


 


「すごいね、リサ。

 君はさ、毎日少しずつ、綺麗になっていく。

 この糸のせいかな?」


 


彼は笑って言う。

まるで、それがプレゼントであるかのように。

でも、私はもう、まともに動けない。


 


──これさえなければ。

これさえなければ、

 私たちは普通の夫婦でいられるのに。


 


けれど、その“普通”は、もう存在しなかった。


 


日を追うごとに、彼の“あやとり”は複雑になっていった。

結び目が増え、拘束箇所が増え、

ついにはベッドから立ち上がることすらできない日もあった。


 


「大丈夫。今日も可愛いよ」

「……ありがとう」


 


ありがとうなんて言ってしまう自分が、

何より怖かった。

けれど、心のどこかで思ってしまった。

ここが“安全”なのかもしれない──と。


 


そして、その感覚すら、

もう“彼の望む私”になっていたのだと、

気づけるのは、もっと後のことだった。

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