第23話

 カーテンは閉ざされ、室内にはほの暗い闇だけが満ちていた。

 ベッドの端に座り込み、手の中のスマートフォンをただ見つめる。

 ──天音。

「……あまね……」

 声に出してみる。けれど、何も思い出せない。形も、色も、匂いも。そこにあったはずの世界が、ひどく遠い。

 指先を這わせながら、画面をなぞる。フォルダを開くと、無数のサムネイルが無機質に並んでいた。いない。どこを探しても、天音の姿はなかった。

 今度は連絡先を開き、名前をひとつずつ、スクロールしていく。──いない。SNSの履歴も、検索履歴も、通話記録も。何百回とフリックして、目を凝らしても──そこに、天音という存在は見つからなかった。

「……くそ…っ…!」

 スマートフォンを床に叩きつけた。鈍い音がして、虚しく転がる。何か大切なものを手放してしまったという、どうしようもない確信だけが膨らんでいく。

「なんで……だよ……」

 かすれた声が漏れる。こんなにも必死に探しているのに、どこにもいない。

 虚無だけが、部屋いっぱいにゆっくりと満ちていく。壁も床も、息をする空気さえも、すべてが灰色に沈み、どこにも出口が見えなかった。

 ここにいても、もう何も見つからない。呼びかけても、返ってくるものは何もない。

 ──だったら。

 外へ出よう。衝動のように、そう思った。

 ここではないどこかに、かすかにでも痕跡が残っている気がして、どうしてもそれを確かめたかった。

 靴を無造作に履き、玄関を飛び出す。

 夜の街は冷たく、湿った空気に包まれていた。それでも、かまわなかった。

 俺は、夜を切り裂くように歩き出した。どこへ向かっているのかもわからない。ただ、足だけを動かし続けた。

 ふと、足元に何かが引っかかった。石か、あるいは空き缶か。前のめりに体が傾ぎ、膝をつく。アスファルトのざらつく感触が掌に残る。擦りむいたのか、じわりと鈍い痛みが走った。それでも顔を上げ、立ち上がった。歩みを止めるわけにはいかなかった。

 動物園のフェンス越しに、キリンの首が見えた。公園ブランコが、風でわずかに揺れていた。

 ──知っている。

 そのはずだった。すべて、どこかで見た光景なのに、思い出そうとしても輪郭は掴めない。手を伸ばしても指先をすり抜け、声にしようとしても言葉にはならない。

 もっと探さなければ。もっと思い出さなければ。

 路地を抜け、駅前を横切り、見知らぬ住宅街をさまよった。光と影の間を漂いながら、ただ探し続けた。

 いつしか、東の空が白く滲み始めていた。

 天音……お前は、どこにいる。

 ふと、ふらついた足が止まった。眼前には、何の変哲もない舗道。乾いたアスファルトの上で、風が埃を巻き上げている。

 その瞬間。

 目の前の景色がわずかにぶれて──見えた気がした。

 散りかけた桜が、ふわりと舞う。川の音、草の匂い、誰かの笑い声。すべてが、一瞬だけ、今のこの舗道に重なった。

 なぜそんな光景が浮かんだのか、自分でも分からない。ただ、確信した。そこに何かがある。

「河川敷……」

 足が自然と動き出していた。もう、ためらう理由なんてない。すべてを置き去りにして、俺はただ、あの場所へと走った。忘れてはいけないものを、思い出すために。

 走って、走って、そしてたどり着いていた。

 朝の光がまだ低く、河川敷の空気を白くかすませている。ゆるやかなカーブを描く遊歩道の脇には、高い木々がまっすぐに並んでいた。

 ──ここだ。

 俺は川沿いの土手を歩きだした。

 水を含んだ地面がぬかるみ、踏むたびに足元がわずかに沈む。ここに、何かがある──その根拠のない確信だけを頼りに、立ち止まっては目を凝らし、また歩き出す。

 ──何も、ない。

 そう思ったとき、ふと視界の端に違和感が引っかかって、足を止める。

 少し離れた桜の木の根元。そこだけ、妙に土が盛り上がっている。そして、その中心に小さな丸い石。

 誰が立てたのかもわからない、簡素な墓のようだった。

 近づくにつれて、記憶の淵が揺らぎ出す。何かが、呼んでいる。何かが、俺を拒んでいる。歩みを止めたいのに、止められなかった。

 一歩。また一歩と進み、ついに墓の前に立った。風が吹き抜けるとともに、胸を抉るような、懐かしい痛みを感じた。

 俺はただそこに立ち尽くし、小さな墓標を見下ろしていた。そこには何も書かれていないけれど……わかっていた。

 ──ここに、誰かがいる。

 ──ここに、俺が置き去りにしてきたものがある。

 喉がひりつき、胸が締め付けられる。そっとその場にしゃがみ込み、盛り上がった土に触れる。この下に、何が眠っているのか。何を、自分が忘れてきたのか。まだ思い出せない。でも、怖いくらいに涙が滲んでいた。

 気づけば、手が勝手に動いていた。考えるより先に、掌が土を掻いていた。指先に小石が突き刺さり、血が滲む。それでも止まらなかった。

 やがて──指先に硬い感触があった。慎重に取り出し、泥を払う。そこにあったのは、錆びた小さなブリキ箱。

 息が…止まりそうだった。それでも、震える手でゆっくりと蓋を開ける。

 ブリキ箱の中にあった柔らかい塊を取り出す。それは泥にまみれた、小さな熊のぬいぐるみのようだった。くすんだ茶色い体。擦り切れた耳。ほつれた赤いリボン。

 ──知ってる。

 ──このぬいぐるみを、知ってる。

「……ぽぽちゃん……」

 かすれた声で、名前を呼んでいた。

 もうひとつ、何かがある。指先をそっと差し入れると、ブリキ箱の底に折りたたまれた紙があった。紙についた泥を、指でそっとぬぐう。そして、破らないように慎重に広げた。

 そこには拙い手で描かれた三人の笑顔があった。ぱぱ。まま。あまね。

 ──あまね。

 ──天音。俺たちの、娘。

 頭の中に、閃光のように記憶が流れ込んでくる。

 生まれたばかりの、小さな、小さな命。泣き声をあげながら、必死にこの世界にしがみついた。

 眠れずにぐずるたび、何度も抱き起こした、壊れそうなくらい小さな体。

 最初の一歩。俺たちの手を握って、転びながら笑ったあの日。

 動物園で、フェンス越しに「きりんさんだー!」とはしゃいだ声。

 夜道を歩きながら、ぽぽちゃんを抱きしめて、「パパ、だいすき」と言ってくれた。

 桜並木。「ピンクのカーペットみたい!」と両手いっぱいに花びらを集めた小さな手。

 ──すべてが、あった。

 ──確かに、あったんだ。

 あの子は、俺たちは、この世界に生きていた。

 ──そして、失った。

 天音が消えた。ふっと、花びらのように。誰にも気づかれず、誰の記憶にも留まらず、この世界から消えていった。

 夜の中で、紗季が泣いていた。「忘れたくない……あの子のこと、二人で覚えていようね……」その約束を、俺は守れなかった。

 ──そして、紗季はひとり、静かに墓の前に横たわっていた。風に溶けるように、天音のもとへ還っていった。

 天音も、紗季も、すべて俺が失った。

 ぽぽちゃんを胸に抱きしめ、崩れるように膝をついた。嗚咽が、喉を引き裂くようにあふれる。

「……ぅ……あ……あまね……っ……紗季……っ……俺は……」

 ──なにも、守れなかった。

 ──なにも、残せなかった。

 ……それでも。

 泥にまみれても、色褪せても、ここに──たしかに、あった。俺たちは、ここに、生きていた。

 涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、そっと絵を見下ろした。拙い線で繋がれた三人が、手をつないで笑っている。

 忘れたくない。

 なかったことになんか、できるはずがない。

 あの日々だけは、絶対に、奪わせない。

 ふらつく足に力を込め、俺はかろうじて立ち上がった。

 この手の中には、ぽぽちゃんも絵も、そして天音と紗季の記憶も──すべてある。

「……もう一度だけだ」

 ポケットの中のスマートフォンを取り出し、着信履歴を確認して、迷わず指を滑らせた。数回のコールののち、通話が繋がる。

「……蓮か」

 眠たげな声の奥に、微かに緊張がにじんでいた。

「霧島。会いたい。今すぐ」

 迷いなく、それだけを伝える

「……わかった。研究室に来い」

 その返事だけで、今の俺には十分だった。

 ──絶対に、取り戻してみせる。

 まだ間に合う。まだ、終わってない。

 *  *  *

 研究室のドアは、まるで世界との境界線のように感じられた。前に立った瞬間、言いようのない圧がのしかかってくる。この向こうに、すべてがある──そう思わせる重さだった。

 それでも俺は、迷わず手をかけて押し開けた。部屋の中では、蛍光灯の白い光が、無機質な機械群をぼんやりと照らしていた。その中央には例の白い装置──記憶送信装置が、低い脈動音を立てて静かに待っている。

「来たか、蓮」

 声の方を向くと、白衣の霧島が、無表情のままこちらを見つめていた。

 俺は無言で歩み寄った。靴音だけが、がらんとした室内に響き渡る。

「……霧島。先に、ひとつだけ言わせてくれ」

「なんだ?」

「思い出したんだ。……全部」

 霧島の目がわずかに揺れた。

「天音のことも、紗季のことも……俺たちのあの時間も、すべて。天音が書いた絵を見つけた瞬間、記憶が一気に戻ってきたんだ」

 声にしてみると、少しだけ胸が痛んだ。

「天音は、存在していた。確かに、あそこにいた。俺たちは、あの子と……一緒に生きてたんだ」

 霧島は小さく息を吐いた。その横顔には、驚きよりも、どこか深い諦めのような、複雑な感情が滲んでいた。俺は、その表情の裏にあるものを測りかねた。

「……思い出した上で、ここに来たのか」

「だからこそ、来た。もう一度、取り戻すために」

 霧島はしばらく黙ったまま、俺を見つめていた。まるで、俺の覚悟を試すかのように。

 やがて、小さく頷くと、視線を隣に置かれた椅子へと移した。

「……まあ、座れよ」

 その言葉に促され、無言で椅子に腰を下ろす。金属の冷たさが、ジーンズ越しにじんわりと伝わってくる。

 互いに言葉を選びながら、探るように間合いを測る。この張り詰めた空気を切り裂いたのは、霧島のほうだった。

「リープの準備は、できてる」

 短く、しかし確実な言葉。

 霧島は一瞬だけ視線を外し、何かを決意したように俺に向き直る。

「前にも言ったが──最後のリープをするなら……紗季には、会うな」

 重たい沈黙が落ちる。

 俺は、わずかに眉をひそめた。思考の隙間に、戸惑いと警戒がじわりと入り込んでいた。

「……なんでだ?」

 掠れた声で、静かに問い返す。

「紗季と再び未来を紡げば、新たな命が生まれる。それがまた、すべてを壊してしまう」

 新たな命──。

 記憶の底から、天音の姿が滲み出るように蘇った。ぽぽちゃんを抱え、屈託なく笑っていた。その笑顔があまりにも鮮やかで、そしてあまりにも遠かった。

「……そんなの……」

 言葉が喉で絡まった。言い淀む俺を待たず、霧島は続ける。

「天音は……存在してはいけなかったんだ。この世界の理が、そうさせた」

 胃のあたりがひりついた。燃えかすのような熱が、ゆっくりと腹の底から這い上がってくる。

 ──存在してはいけなかった?

 そんな理屈、納得できるはずがない。そんな馬鹿な話が、あっていいはずがない。それでもすぐに声を荒げたりはせず、その反発を心の奥底に飲み込んだ。それほど霧島の顔が、これまでに見たことのないほど苦しげだったからだ。

 だが、それでも──

「……じゃあ、俺は、どうすればいいんだよ」

 絞り出すように、霧島に問いかけた。それは、答えの見つからない自分自身への問いでもあった。

「天音を生まれなかったことにして、何も知らずに生きろって……それが正しいって言うのかよ」

 霧島は、ただ黙っている。その沈黙が、答えだった。

 じわじわと怒りが込み上げてくる。押し込もうとしても、心の底から突き上げてくる。

「……ふざけんなよ。俺は……天音を、なかったことになんか、できない」

 震える声で、それだけははっきりと言い切った。俺は、救うためにここへ来たんだ。天音と紗季、二人を取り戻すために。なのに──会うな、だと?

「もう一度言うが、天音はこの世界に存在してはいけない」

「だからなんでなんだよ!」

 問いかけても、霧島は答えない。その表情は、言葉にならない葛藤を抱えているようにも見えた。

「答えてくれ……霧島。何を知ってるんだ!」

「……言えない」

 思わず椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がった。金属の軋む音が、がらんとした室内に響く。

「ちゃんと、説明してくれよ。なんで……天音を、消さなきゃいけないんだよ……」

 霧島は、わずかに首を振った。

「それでも、お前には話せない。話せば──きっと、お前は……」

 霧島は、それ以上を言わなかった。だが、俺はもう、引くわけにはいかない。この手に、ぽぽちゃんがある。あの絵がある。確かに俺たちは生きていたんだ。

「……怖いよ」

 知ってしまったら……また、壊れてしまうかもしれない。そう考えると、得体の知れない恐怖が胸を締め付ける。

「それでも……知らなきゃ、前に進めないんだ」

 俺は霧島をまっすぐに見据えた。

「頼む。全部、話してくれ」

 一瞬、霧島の顔が苦悩に歪む。そして、長い沈黙のあと、静かに頷いた。

 ゆっくりと歩み寄り、俺の目の前に立った。そして、深く、深く、息を吸い込んだ。

「……わかった。蓮、お前に話そう」

 その言葉を境に、部屋の空気が張りつめていく。まるで、研究室の機械たちまで息を潜めたかのようだった。

 ひときわ静かなその空間に、霧島の声だけが響いた。

「お前が生きてきたこの現実とは違う──リープを始めるきっかけになった最初の世界。オリジナル世界の話だ」

 俺はただ、霧島を見つめていた。この先にどれほどの地獄が待っているのか、まだ知らずに。

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2025年12月15日 19:00
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追憶のラストリープ ― 青春×タイムリープ×ミステリー 和知リョウスケ @wachikaoru

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