第3章

第22話

「……蓮くん、おかえり」

 その声は、どこまでも透き通っていた。穏やかで、懐かしい響きが、心を揺らす。

 声の主を捉えようと、ゆっくりと視線を向ける。姿は光に包まれて見えないのに、その輪郭は、心の底に沈んだ記憶と重なって──

「……俺、──」

 言葉を返そうとした瞬間、意識は容赦なく現実に引き戻された。

「……っ、は……!」

 喉の奥から、掠れたような音が漏れる。額に張りつく汗が冷たく、背中は鉛のように思い。

 時計の表示は、午前五時三十八分。眠ったはずの体はだるさが抜けず、脳がまだ夢の沼に沈んでいるような感覚が残っていた。

「……また、あれか」

 身を起こすと、肩がギシと音を立てる。疲れはまるで抜けきっていない。いったい何度こんな朝を迎えてきたのだろう。

 気が付けば、もう三十五になっていた。

 ただ日々を過ごすだけの生活。誰かと深く関わることもなく、目的も情熱も、いつのまにか手放していた。

 ──違う。

 かすかな違和感が生まれた。

 かつて、誰かの力になりたくて……病院で働いていたような、そんな記憶があった。いや、あった気がしただけかもしれない。

 一瞬ちらついたその記憶に、確信を持つことはできない。ここにあるのは、惨めで乾いた現実だけだった。

 蛇口の水を口に含み、洗面所の鏡を覗くと、ひどくやつれた顔がそこにあった。

「……何してんだ、俺は」

 問いかけても、返ってくる声はなかった。

 日差しが傾きはじめた頃、旧友に呼び出されて、駅前のファミレスへと向かった。

 見慣れたはずの街並みを歩く。昔よく通った本屋は姿を消し、代わりにコンビニができていた。わずかな違いなのに、かつて馴染んでいた風景には、ひびが入ったような違和感がある。ファミレスの看板は変わらずそこにあったが、色褪せたその文字は、以前よりも頼りなく見えた。

 店に入ると、賑やかな笑い声が聞こえてきた。手前の席では親子が楽しそうに食事をしていて、奥のテーブルでは学生たちが大げさに騒いでいる。どのテーブルにも、俺とは違う時間が流れていた。

 ふと目を向けると、窓際の席で手を挙げている男がいた。

「よう、蓮。久しぶり」

 霧島悠一。高校時代の友人であり、バンド仲間でもあった男だ。

「……久しぶりだな」

 席に着き、互いの顔をまじまじと見合う。あの頃と変わらぬ整った顔立ち。

「……蓮、お前、老けたな」

「はは、お前は変わらないな」

「俺は、隠すのがうまいだけさ」

 交わす言葉は懐かしいはずだったけど、その空気には、どこかぎこちなさが混じっている。

「それで、急に呼び出して何の用だよ」

 霧島は一度カップを手の中で回し、じっとその湯気を見つめていた。

「実は……最近、ちょっと変わった研究に関わってるんだ」

「研究?お前が?」

「ああ。音響工学と脳波の関係について、な」

 カップに触れていた指先が、ふいに動きを止めた。

「……まあ、その話はまた今度でいい。今日は、別のことで来たんだ」

 霧島は窓の外に視線を向ける。

「……もしさ。人生、やり直せるとしたら──何がしたい?」

 唐突な問いに、思わず眉をひそめた。

「は?何だよ、いきなり」

「ただの仮定だよ。もし、過去に戻れるとしたら……何を変えたい?」

 そんなこと、考えたことすらなかった。……いや、たぶん、考えないようにしてきたのだと思う。

 それでも、霧島の言葉は、心の深い場所に波紋を広げた。何も言えないまま目を閉じると、ひとつの記憶が浮かび上がってくる。

 ──音楽室の扉を開けた、あの日のこと。

 長い不登校の末、ようやく踏み出した教室の空気は、息が詰まるほどに重かった。戸惑いと不安で足がすくみ、逃げ出したい気持ちを何とか抑えていた、あのとき。

「秋月くん。おかえり」

 何のてらいもなく、そう声をかけてくれた少女がいた。明るくて、あたたかくて、柔らかな笑顔を浮かべて。まるで、それが当然であるかのように、俺に帰る場所を差し出してくれた。

「……蓮?」

 霧島の声が、少し遠くから聞こえたような気がして、はっと我に返る。

「……ああ。ちょっと、考え事をしてた」

 小さく笑ってごまかすと、霧島は何も言わずに、じっとこちらを待っていた。

「……もし、戻れるなら」

 言葉を選びながら、視線を宙にさまよわせる。

「──あいつに、会いたいな」

「あいつ?」

「朝比奈紗季。覚えてるか?」

 その名を口にした瞬間、霧島の表情が明らかに強張った。一瞬だけ視線を逸らしてから、ゆっくりとうなずく。

「……ああ。もちろん、覚えてるさ」

 その声には、どうしようもない哀しみが、深く滲んでいた。

「もし、もう一度だけ会えるなら……伝えたいことが、あるんだ」

 呟いたその言葉は、自分で思っていた以上に重く響いた。

 霧島は、それにはすぐに応えなかった。カップに手を添えたまま、しばらく視線を落としている。そして、何かを探るような声で、問いかけてきた。

「なあ、最近、夢とか見るか?」

「夢?」

「懐かしい声を聞いたり、誰かに呼ばれるような……そんな夢だよ」

 ぞくりと、背筋に冷たいものが走る。まるで今朝の夢を、霧島に見透かされているような気がした。

「……いや、特に。夢なんか、覚えてねぇよ」

 嘘だった。でも、とっさにそう答えてしまった。

 あっさりと否定したその言葉に、霧島はほんの少し、寂しげな笑みを浮かべる。

 その笑みを崩さないまま、視線をそっと伏せた。まるで、何かを思い出そうとしているように──あるいは、言うべきかどうかを、迷っているように。

「あの夜のこと、覚えてないよな」

「あの夜?」

「このファミレスでさ。お前に、リープしてるだろって言った、あの夜のことだよ」

 リープ──。

 その単語が、遠い記憶の縁をわずかにくすぐった。けれどそれ以上は、どうしても思い出せない。

「何のことだ?」

 そう言葉にすると、空っぽの自分を突きつけられる気がした。

「……だろうな」

 霧島は、わずかに口元をゆがめた。しばらく黙り込み、何かを噛み締めるようにそっと目を閉じる。

 やがてまっすぐこちらを見据えて、静かに言った。

「真実を、お前に話そう」

 *  *  *

 薄暗い廊下を、重たい足取りで歩く。コンクリートの壁に染みたカビの臭いが鼻につく。チカ、チカ、と気まぐれに点滅する蛍光灯の下で、俺の影だけが伸びたり縮んだり、まるで別の生き物みたいに蠢いていた。

 なんで、俺はここにいる?

 何もかもどうでもよかったはずだ。なのに、霧島の声が魚の骨みたいに喉の奥に引っかかっている。

 ファミレスでの、あの馬鹿げた会話。「真実を話す」……そう言ったときのあいつの目が、どうしてか忘れられない。

 壁に貼られた紙が目に入る。手書きの文字で、こう記されていた。

 ──霧島研究室

 深く息を吸い込み、扉をノックする。

「空いてるよ」

 中から、落ち着いた声が返ってきた。

 ゆっくりと、ドアを押し開けると、思っていたより、広い空間が広がっていた。機械の山が雑然と並び、その中央に──ひときわ異質な存在があった。

 丸みを帯びた白い装置。表面に浮かぶ青白い光が、呼吸のように明滅を繰り返している。

「よく来たな、蓮」

 白衣姿の霧島悠一が、装置の隣に立っていた。

「……これが、見せたいものか?」

 問いかけると、霧島は静かにうなずいた。

「まあ、座ってくれ」

 促されるまま、椅子に腰を下ろす。視線は自然と、装置に吸い寄せられていた。

「……何だこれは。治療器具か?」

 霧島は静かに首を振る。

「いや……記憶送信装置だ」

 その言葉に、思わず眉をひそめる。

「記憶……送信?」

「現在の記憶と人格を、過去の自分に送信する装置……いわゆるタイムリープマシンってやつだな」

 言葉が出なかった。こいつは──いったい何を言っているんだ。

「信じられないだろう。だが……お前は、もう何度もこれを使っている」

 静かに、しかし逃げ場のない言葉が続いた。

「お前はこの装置で、幾度となくリープしてきた。そして俺は、リープを繰り返すお前を観測し、分析し、ずっと見守ってきた」

 心臓が、どくん、と大きく鳴る。

「……は?俺が……リープを、何度も……?」

 霧島は、わずかに目を伏せる。

「お前がリープする理由も知っている。……紗季を、救うためだ」

 紗季……その名が、胸の奥を疼かせた。救う?なぜ、俺が。

「……紗季に、何が……?」

 思わず問いかけたが、霧島は小さく首を振る。

「紗季のことは……今のお前には話せない。ただ……お前は何度も、彼女を救うために──ここまで来ている」

 意味がうまくつかめないまま、俺は言葉を飲み込んだ。

 霧島は気にも留めず、話を続ける。

「だが、何度繰り返しても、結果は変わらなかった。むしろ……副作用が出始めた。リープを繰り返すうちに、お前の記憶や意識にひずみが生まれた。過去と現在の境界が曖昧になり、本来あるはずの記憶が抜け落ちたり、リープで得た記憶の残滓が、少しずつ混ざり込むようになった」

 あの、朝の目覚めを思い出す。何かを失ったような、あの感覚。

「……嘘だろ」

 絞り出した声は、ひどくかすれていた。

「これ以上のリープは危険だ。正確には……お前が無事にリープできるのは、あと一度きりだ」

「……一度、だけ?」

「次で最後になる。それが限界だ。これ以上繰り返せば意識が崩壊して、戻ってこられなくなるかもしれない」

 沈黙が落ちた。装置の無機質な輪郭が、異様に重たく見えた。

「だからこそ、言わせてくれ。もし、お前が最後にもう一度だけリープするのなら……紗季には、会わないでくれ」

「……何でだよ」

 震える声が、勝手に漏れた。

 霧島は、一度目を伏せ、苦しげに息を吐いた。そして、まっすぐにこちらを見据える。

「お前が紗季に会えば……もし、ふたりで未来を紡ごうとすれば──その未来ごと、また奪われる。そして紗季は、また引き戻される。過去に、痛みに、失ったものに。どれだけお前が望んでも、あいつは救えない」

 あのとき、霧島に聞かれた。「もし戻れるとしたら、何を望む?」って。答えはすぐに浮かんだ。紗季に会いたい──ただ、それだけだった。理由もないのに、その名前だけは、心の奥に確かに残っていた。

 なのに──なぜ、そんなふうに言い切れる。なぜ、救えないなんて……

 何が、あった?俺は……何を、忘れてる?

「……そんな、俺はあいつに会いたいだけだ。……どうして、それだけで……」

「お前のせいじゃない。だが現実は、そういうふうにできている」

 乾いた静けさのなか、霧島の口から、低く抑えた声が淡々とこぼれた。

「会えば……また、同じことを繰り返す。お前も、紗季も、天音も──救えない」

 天音。また、その名前。──誰だ。誰だ、天音って。頭の奥で、重たいノイズが鳴る。

「天音って……誰だ?」

 問いかけると、霧島は痛ましそうに笑った。

「……思い出さなくていい。思い出したら、また……お前が壊れるから」

 だが、もう遅かった。体の内側から、得体の知れない焦燥が暴れ始めていた。

 絶対に、思い出さなければいけない。紗季。天音。失った何か、全部を。

 震える指先を握り締める。

「……リープの話、少し、考えさせてくれ」

 霧島は、静かにうなずいた。

 取り戻さなきゃいけない。たとえ、それがどれだけ残酷な真実だったとしても。


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