第21話

 日はすっかり傾いていた。

 ぬるくなった麦茶を口に運んでみても、まるで味がしない。何杯目だったかも思い出せない。

 紗季は「ちょっと出かけてくるね」と言い残し、昼頃に出ていったきりだった。スマートフォンには通知もなく、メッセージは未読のまま。

 たぶん、いつものように買い物にでも行ったんだろう。

 そう自分に言い聞かせながら、俺は何度も画面を見てはロックを解除し、また閉じる。そんなことを繰り返していた。

 気づけば、窓の外の景色は、オレンジから紺色へとじわじわ色を変えていた。

 ……遅い。心の奥に、微かなざわめきが生まれる。でも、その正体は分からなかった。

 ふと、視線の先に違和感を覚えた。棚の上、いつも紗季がピアスや時計を置いている小皿のすぐ横に、一枚の封筒が置かれている。

 無地の、白い封筒。宛名も何も書かれていない。けれど、見た瞬間に分かった。これは俺に宛てたものだ。

 震える指先で封を切り、中から便箋を取り出した。

 目を落とすと、そこには、少し丸みを帯びたやわらかな文字が並んでいた。

 まだ何も読んでいないのに、視界がぼやけていく。足が勝手に力を失ったみたいに、その場に腰を下ろした。

 蓮くんへ

 この手紙を読んでるってことは、もう私は、あなたのそばにいないんだと思う。。

 ごめんね。

 何も言わずに出ていってしまって、本当にごめんなさい。

 でも、今日朝ごはんを一緒に食べられて、私はすごく幸せでした。

 卵焼き、ちゃんと食べてくれてありがとう。麦茶も冷えてたでしょ?

 蓮くんの好み、ちゃんと覚えてるんだよ。

 ああやって、何気ない朝を一緒に過ごせたこと。笑ってくれたこと。

「おいしい」って言ってくれたこと。

 そのひとつひとつが、私にとっては宝物でした。

 私はね、あなたのことが大好きでした。

 ……いえ、大好きです。今でも、これからも、ずっと。

 あなたが生きていてくれること。それだけで、私の人生は報われます。

 どうか、これから先も、笑っていてください。

 たくさんの人に、優しくしてあげてください。

 蓮くんのそのやさしさで、誰かを救ってあげてください。

 最後に、ひとつだけ。

 本当に、本当に、ありがとう。

 あなたと出会えて、私は幸せでした。

 紗季より

 手紙を読み終えたあと、俺はしばらくその場から動けなかった。便箋を握ったまま、ただ床に座り込み、何ひとつ考えることができなかった。

 涙が頬を伝ってこぼれていくのがわかったけれど、拭こうという気さえ起きない。あたたかいのか冷たいのかもわからないまま、それを流しっぱなしにしていた。

 次第に、ざらりとした違和感が積もっていく。だめだ……これはおかしい。ただの感謝の言葉じゃない。どう読んだって、まるで──いや、まさか……でも。

 気がつけば、玄関に向かって走り出していた。スニーカーを突っかけた足のまま、扉を乱暴に開けて外へ飛び出していた。

 アスファルトの上に、干からびたセミの死骸が転がっていた。夏の終わりが近づいていることを、そんなささやかな景色が告げている。けれど今の俺には、季節の変化などどうでもよかった。ただ、息を切らしながら、ひたすら走っていた。

 どこに向かうでもなく、あてもなく、紗季の姿を求めて。いつも彼女が立ち寄るコンビニ、近所のスーパー、商店街のカフェ。いっしょに歩いた道を、思い出せるかぎりすべて辿ってみた。

 歩道の先をにらむように見つめ、息が途切れがちになりながら、何度も名前を呼んだ。けれど、振り返ってくれる人はいない。

 心臓は激しく脈打ち、呼吸は荒く、頭がだんだんぼんやりとしていく。スマートフォンを握りしめた手のひらには、汗が滲んでいる。

「紗季……どこにいるんだよ……」

 駅の改札をくぐり、公園のベンチを覗き、病院の周囲を何度も回った。彼女が好きだったアイスクリーム屋の前にも足を運んだが、どこにも姿はなかった。

 夜の気配が、じわり、じわりと街を染め上げていく。アスファルトに伸びた自分の影が、どこまでも長く、希薄に感じられた。

 じんわりと広がっていく痛みは、焦燥や恐怖すら溶かしてしまうような、 身体の芯から這い上がってくる冷たい感覚だった。

 脳裏を焼くのは、あの一枚の手紙。「幸せでした」「ありがとう」──まるで、最期の言葉を紡ぐような、あまりに静かな響き。

 けれど、信じたくなかった。信じたくなくて、この足を止めるわけにはいかなかった。

 その瞬間、ポケットの中のスマートフォンが震えた。

 心臓の鼓動よりもずっとはっきりと、そして重たく響く振動だった。画面には、見覚えのない番号が浮かんでいる。

 指が小刻みに震え、画面をタップすることすらままならない。だが、ようやく覚悟を決めて、応答ボタンを押した。

「……秋月です」

 自分の声が、ひどく遠く感じた。膜が張ったように、現実感が薄い。

「もしもし、芦名総合病院の野村と申します。突然のお電話で申し訳ありません……秋月蓮さんでお間違いないでしょうか?」

「……はい。そうですが……」

「本日午後、奥様……秋月紗季さんが当院に救急搬送されまして……所持品の中にご連絡先がありましたので、お電話いたしました」

「紗季が……?」

 言葉を遮るように、思わず食い気味に問い返していた。

「はい。市内北部の河川敷付近で倒れていたところを通行人の方に発見され、午後五時過ぎに当院へ搬送されました」

 電話口の相手は、一拍だけ沈黙を挟んでから、言いづらそうに言葉をつないだ。

「搬送時にはすでに意識がありませんでした。検査の結果、体内からは多量の睡眠薬が検出されております。直ちに蘇生措置を施しましたが……残念ながら、心拍の回復には至りませんでした」

 目の前の景色が、ぐにゃりと歪んで見えた。

 呼吸がうまくできなかった。肺が押しつぶされたように苦しく、空気を拒んでいる。必死に息を吸おうとするたびに、喉がカラカラに渇き、声を出そうとしても何ひとつ出てこなかった。

「う……ぁ……」

 しゃがみ込むこともできず、ただその場に立ち尽くしたまま、身体が小刻みに震えていた。手のひらは痺れ、指先まで血の気が引いたように冷えきっていく。なのに、心臓だけは馬鹿みたいに暴れ続けている。止まってくれと願っても、まるで聞く耳を持たないかのように、ただひたすらに打ち続けていた。

 止まれ、止まれ、止まってくれ──

「ご遺体は現在、霊安室に……ご確認をお願いしたく……」

 電話の向こうの声が、ゆっくりと遠ざかっていく。まるで、自分の意識ごと海の底に沈んでいくように。

 手紙の最後に綴られていた言葉が、脳裏に浮かぶ。

 ──ありがとう。

 ──幸せでした。

 そんなはずない。そんな結末、認めたくなかった。

 けれど、どれだけ目を背けても、どれだけ声を枯らして叫んでも、現実は変わってはくれない。

 結局、俺は何も守れなかった。

 *  *  *

 この世界に、意味なんてものがあったのか──そんなことを、ぼんやりと考えていた。

 窓は、もう何日も開けていない。閉ざされたカーテンの隙間から、くすんだ光だけが部屋の中に滲んでいる。埃の匂いが鼻をかすめたが、それすら不快だとは思えなかった。この空間に満ちているのは、何ひとつ輪郭を持たない無だった。

 ──紗季が、いない。

 静かに、ゆっくりと、そう思った。思っただけなのに、そのたった一言が、鋭い刃のように心を深く抉っていく。

 彼女は、俺にとっての理由だった。

 笑うための、歩き出すための、生きるための──そのすべてが、彼女とともにあった。

 日々のどんなに小さな未来も、隣に彼女がいるからこそ信じられた。息を吸うことさえ、彼女がいる世界だからできていた。

 それなのに。今、ここには、何もない。

 ──紗季。

 その名前を口に出した瞬間、何もかもが崩れてしまいそうで、声にできなかった。

 どれだけ日が昇っても、俺の中だけは、あの日から何ひとつ動いていなかった。ただ、ひたすらに空白だけが積もり続けていた。

 それが、生きているということだなんて。いったい、誰が言えるだろう。

 世界は、音を失った。色も、匂いも、手触りも、何もかもが、静かに消えていった。

 紗季がいない。たったそれだけで、俺の世界は終わった。

 ──それから、どれほどの時間が過ぎたのかは分からない。

 朝が来たのか、夜が来たのか、そんなことすらもう意識しなくなっていた。

 部屋の中は、いつ見ても変わらず、灰色の空気に包まれたまま、世界はわずかに呼吸しているようだった。

 目を開けて、何もない天井をぼんやりと見つめ、また静かにまぶたを閉じる。そして、いつの間にか眠っていた。起きる理由もなければ、眠る理由もなかった。

 腹が鳴ったときだけ、冷蔵庫へと手を伸ばす。中にあるのは、乾ききったパンの切れ端と、賞味期限の切れた牛乳。腐りかけた匂いがしても、気にしなかった。

 味は分からなかった。温かいのか冷たいのか、なめらかなのかざらついているのか、それすらもただの情報の羅列として、舌の上を通り過ぎていく。口に入れ、噛み、飲み込む。ただそれだけの動作を、機械のように繰り返していた。空腹を満たすためではなかったし、生きるためでもなかった。ただ、惰性だった。

 カレンダーは、壁に貼られたまま、うっすらと埃を被っている。最後にめくった月が、もうずっと昔のことのように思えた。

 いつの間にか、季節は変わっていたらしく、窓の向こうでは雪が降っていた。

 ──そんなはずはない、とふと思った。

 ほんの少し前まで、蝉が鳴いていた気がする。陽炎に揺れるアスファルトを歩いていた記憶が、まだ身体のどこかに残っていた。

 なのに今は、ぼやけた雪景色の中で、誰かが小さく身を縮めながら歩いている。

 朝になると、たまに音が聞こえた。隣の部屋から漏れるテレビの音、遠くを走る車のエンジン音、子どもの笑い声。けれど、それらの音はすぐに壁の向こうへ吸い込まれて、消えていく。

 俺のいる場所は、まるで世界から切り離されたかのように、沈黙していた。ただ時間だけが、俺を置き去りにしたまま、容赦なく先へ進んでいった。

 何のために生きているのか。何のために呼吸をしているのか。そんな問いすら、もう浮かんでこなかった。考えようとさえ、思わなかった。

 ただ、目を閉じて。また、開ける。それだけを、意味もなく繰り返していた。

 それが生きているということなのか、そうでないのか──もう、その境すらどうでもよかった。

 またいくつか、季節がめぐったらしい。

 紗季の顔が、もう思い出せなくなっていた。目を閉じて、何度も何度も心の中で呼びかけてみても、そこに浮かぶのは、滲んだ光のような揺らめきだけだった。

 ──紗季。

 名前を心の中で唱えてみたけれど、その響きは胸のどこにも届かなかった。

 写真を一枚、手に取ってみる。表面に積もった埃を指先でぬぐいながら、じっとその中を見つめた。

 そこには、誰かが笑っていた。けれど、それが誰なのか、思い出そうとしても心がそれを拒んでいた。これ以上思い出しても、意味はない。これ以上求めても、残るのは痛みだけだと──そんな声が、内側から聞こえてくるようだった。

 そうして少しずつ、本当に大切だったはずのものまでもが、心の奥底へと沈んでいった。まるで、沈殿する泥のように。二度と掬い上げられない場所へ。

 ──俺は何を失ったんだろう。ふと、そんなことを考えた。けれど、それすらもすぐにどうでもよくなった。もう記憶すらいらなかった。

 持っていても、抱えていても、それはただ、自分を静かに蝕んでいくだけだった。だったら、いっそ何もかも、消えてしまえばいい。そう思った。

 それでも、呼吸だけはやめられなかった。

 生きるためでも、死ぬためでもない。ただ止まりかけた歯車のように息を吸って、吐く。それだけを、意味もなく続けていた。

 もう二度と朝がこなくても構わない。そう思って、俺はゆっくりと目を閉じた。

 【観測ログ:第一五五号】

 観測対象:記憶送信個体(秋月蓮)

 活動指数:著しく低下

 精神パターン:自己保存本能のみ継続

 過去の観測記録と照らし合わせれば、確かにわずかな変化は認められた。けれど今回も、結果を変えるには至らなかった。

 彼女は……またしても救えなかった。何度繰り返しても。どれだけ試行を重ねても、この世界に、紗季の救済は存在しなかった。

 それでも、俺にはやらなければならないことがある。

 記憶送信装置を完成させなければならない。そして、再び彼を送り出さなければならない。

 すべてを終わらせるために。すべてをやり直すために。

 霧島はそっと目を閉じた。

 絶望も後悔も、すべてを内に飲み込んだまま。ただ一つ、遥か遠い未来を見据えながら。

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